「いでで」
湿った土の感触が背中に当たる。
体中が痛い。
けれどこれは、今日まで知らなかった清々しい痛みだ。
「お前のパンチ、重すぎんだよ――― 一瞬、お花畑が見えたじゃねーか」
返される少し咽込むような笑い声。
濡れた青草の香りとじっとりと肌に馴染む大気、傍らにある確かな存在感。
「けど、サンキュな」
陽介は呟く。
「なんつーか、その―――いいよな、言葉なんか」
こんなに本気の取っ組み合いは、それこそ、人生初の体験だったかもしれない。
朋也は一切手を抜かなかったし、勿論迎え撃つ陽介も全力で応じた。
殴打され、掴みかかって張り倒し、引きずり起こしてはまた吹っ飛ばされる。
そうしてクタクタになるまでやりあって、最後には互いに崩れ落ち、揃って仰向けに寝そべり空を仰ぎ見た。
縁を茜色に染め上げる分厚い雲の向こう、隙間から、時々淡いオレンジが透ける。
「空、高いな」
風がさやさやと草を揺らしている。
「先輩、見てっかな、俺らんこと、笑ってるかな」
―――いつまでも引きずり続ける俺は、随分女々しい男だろう。
それでも朋也は何も言わない。
ただ心地のいい満足感だけが辺りに満ちている。
「先輩、俺、ちゃんと生きるから」
自分ごまかさずに、だまさずに―――今日みたいな日も、前みたいにくすぶって過ごす日も、大事な1日。
「先輩が生きられなかった1日だから」
今は心から思う。
「ここで、俺、生きてくから」
生きていればこそ。
出会いがあって、別れがある。
辛い事も苦しい事も無くならないけれど、代わりに嬉しいことや楽しい事もたくさんある。
(黒沢とも出会えた)
そうして今、ここにいる。
この場所で、幸福な気分を抱いて横たわっている。
傍らには心許した大切な姿。
閉じた瞼の裏側に、雲の上で苦笑いの呆れ顔をしている少女の姿が浮かんだ。
瞳を開けば、世界はどこまでも透き通り、愛に溢れていた。
不思議な感覚を覚えて陽介は起き上がる。
胸の奥で滾る新しい力。
よく分からないけれど、何かが塗り替えられていくようだ―――
見詰めた両手を強く握り締めてみた。
確かに漲ってくる、これは、多分、大切なものを守るための覚悟から生まれた力。
「―――上等だよ」
呟いて振り返ると、同じく起き上がっていた朋也がこちらを見ていた。
陽介は笑いかける。
「毎日笑って過ごせるように、頑張ろうぜ、リーダー」
頷き返してくれる姿に胸の奥が一層熱く震える。
互いに差し出した手を握り合って、結び合った信頼を感じ取れば、何だか急に気恥ずかしくて思わず笑い声が漏れてしまった。
バカみたいだ俺たち。
単純で、なんて遠回りだった。
こんなにも簡単に答えは見つけられたのに。
(何やってたんだろうな、今まで)
朋也のことだって、今更、ようやく理解を始めたばかり。
今日が本当のスタート地点。
陽介は繋いだ手を離してごろりと無造作に寝転がる。
「あーあ」
服が皺だらけの泥まみれ、髪もボサボサだし、あちこち擦り切れたりして痛い、少し血も出ている気がする。
「黒沢、口」
口の端を指で拭った朋也が、さっき陽介が渡した絆創膏を剥きだした。
「貸せよ、貼ってやる」
起き上がって手を貸すと、お前も口の端切れてるぞと指摘されてしまった。
「あー、だからか、さっきから口ン中血の味がすると思ったら」
朋也に絆創膏を貼ってもらって、お互いボロボロだな、と苦笑いを浮かべる。
「お前が殴ってくれなんて無茶言い出すからだ」
呆れたように言うけれど、そのまま優しく微笑む姿に、陽介の胸は高鳴っていた。
(黒沢が好きだ)
同性として、仲間として、親友として、そして―――そのどれとも違う意味で。
なあ、黒沢と呼びかける。
「何?」
「オトツイの事だけどさ」
朋也の表情が僅かに真顔に戻った。
「俺、やっぱりちゃんと聞いておきたくて、お前が欲しいものって一体何なんだ?」
吹き抜ける風がそっと髪を揺らす。
草の揺れる音に混じって鮫川のせせらぎが聞えてくる。
夕闇に染まりつつある景色は藍が濃くなり、遠くから犬の鳴き声や人の声、電車の走る音が微かに響く。
「多分」
朋也は、苦い笑みを浮かべた。
「俺は、お前みたいな存在が欲しかったんだよ」
―――陽介は思わず息を呑んでいた。
ポツポツと話してくれた黒沢朋也の過去。
稲羽を訪れる前の境遇と孤独感。
聞いているうちに、陽介は、朋也がそれらの感情と向き合った上で、ちゃんと納得して、自分の一部と認めているのだと知った。
(やっぱ凄い奴だったんだな)
俺は、多分、独りではとても無理だった。
だからこそ黒沢はこんなにも力強い温もりと優しさに満ちているのだろう。
素直な尊敬の念を覚えつつ、話を続ける姿を見つめていた。
「誰も、俺を知ろうとする奴はいないだろうって思ってたんだ」
「でも本当は知って欲しかった、理解して、一緒にいてくれる誰かが欲しかった」
「けれど同じくらい知られるのが怖かった、寂しいばかりの俺の内側に、幻滅されないか不安だった」
存在の否定くらい辛いことはないよ。
そう言って笑う。
朋也の気持ちが、今の陽介なら痛いほどよく分かる。
「だから俺は、結局誰にも関わらない事で誰からも逃げてたんだろうな」
指先が口の端の絆創膏をスルリと撫でる。
「でもお前はお構いなしに俺の中に飛び込んできた―――あんなこと言われたのは初めてだ」
そしてクックと喉を鳴らして笑う。
見詰められた瞳の深さに陽介はビクリと震えていた。
「花村」
「何?」
「俺からもありがとう、花村も、俺にとっての”特別”だよ」
「黒沢」
掌にじっとりと汗が滲んでいた。
込み上げてきた何かが一気に噴出してくるようだ。
思わず立ち上がってすぐ傍まで歩み寄る。
不思議そうに見上げている朋也を、膝を折りながら抱きしめた。
「―――花村?」
「俺、さ、俺―――お前のこと好きだよ」
「うん」
「仲間としても、相棒としても好きだ、でもそういうんじゃなくて、もっと違う意味でも好きなんだ」
耳元で「え?」と聞える。
陽介の胸を仄かな恐れが過ぎった。
けれどこれ以上口を閉ざし、想いを隠し続ける事は、もうできない。
(もし、今日で何かが変わっちまったとしても)
それでも伝えよう。
腕の中にある温もりは、きっと否定も拒絶もしないでくれると信じている。
「黒沢の一番になりたいんだ―――俺は、お前が好きなんだ」
陽介は朋也を抱く腕に力を込めて、肩に顔をうずめながら双眸をギュッと閉じた。
震える胸に、不安と、恐れと、ほんの少しの期待が広がっていく。
暫く朋也からは何も返ってこなかった。
苦しい、と小さく聞えて、慌てて離れようとした陽介を背中に回された両腕が引き留めた。
「花村」
ポンポンとシャツの上から優しい手の感触が何度か触れる。
笑うような声がそっと囁きかけてくる。
「男相手に何言ってるか解ってる?」
当たり前だ、と答えた。
今度はハッキリと笑い声が上げられた。
「そんなだからお前はウザイとか言われるんだよ」
「う、うるせえよッ」
「―――本当にわからない奴だな」
「え?」
ゆっくりと距離を取られて、二つの視線は重なり合う。
いつの間にか漆黒の天蓋を銀の雲が覆いつくしている。
至近距離で見詰めた瞳に射千玉の夜に浮かぶ月の気配が隠れていた。
「花村」
朋也が微笑みかけてくる。
「俺は、そういう意味で、お前をまだ好きとか言い切れないけれど―――それでも良ければ、気持ち、受け取らせて欲しい」
ダメかな、と付け加えられて、陽介は暫く言葉が見つけられなかった。
「―――花村?」
呼びかける声に、胸の奥が突き動かされる。
そっと回した腕でもう一度朋也を抱き寄せた。
温もりは、今度は素直に体を預けてくれた。
「いいに決まってる―――」
声は、語尾が少し震えてしまったけれど、自分でも聞いた事のない優しい響きを孕んでいた。
返されたのは柔らかな笑い声。
川面を渡ってきた風が火照った肌を撫でていく。
「けど、花村も随分格好つけるよな」
「―――え?」
「七夕に川辺で告白、なんて、俺が女子なら間違いなく落ちてた」
「なッ!?」
ギョッとする陽介に、茶化した口調が「残念だったな」と追い討ちをかける。
(んなの、すっかり忘れてたぞ!)
―――耳まで真っ赤に染まった顔は夜闇のお陰で見られずに済むだろう。
けれど気恥ずかしさに悶絶する陽介の姿を笑いながら朋也が眺めている。
辺りに満ちる冷たい雨の予感を孕んだ大気も、2人を凍えさせる事はできない。
混迷の霧は、これからも迷いや不安をそれぞれの胸にもたらすのだろう。
(それでも、俺は)
(俺達は)
揺るがない真実を、一つ、見つけられた。
互いを繋ぐ絆という糸。
傷つきながら伸ばしあった指先を絡めて、今、確かに結ばれた想い。
―――空の彼方で小西早紀は今も笑っていてくれるに違いない。
この場所でまだ生きている、生き続けていく2人は、新しい契約を胸に手を取り合って進みだす。
これはただの一歩に過ぎないけれど、共に踏み出した大切な一歩。
いつの間にか陽介も笑っていた。
朋也も笑う。
重なり合った声が鮫川に響く。
立ち上がった朋也に腕を引かれて腰を上げた陽介は衣服の泥を軽く叩き落とした。
歩き出す手前、そっと絡めた指先に、振り返った朋也が「土手の上までだぞ」と囁いて笑う。
陽介も頷き返しながら、微笑んで、つないだ手を握り締めた。
失くしていた明日を、失っていた大切なものを、漸く見つけ出すことができた。
独りの闇はもう二度と訪れない―――