「おにーちゃん」
きゅ、と綿のパンツを握ってくる手の感触に、微笑みながら振り返ると、傍らに立つ菜々子が一生懸命こちらを見上げていた。
「なに、作ってるの?」
「肉じゃが」
「わー、いいなあ!」
「菜々子も食べよう、肉じゃが、好き?」
「すき!」
瞳をキラキラ輝かせて、力一杯頷き返してくる。
兄弟のいない朋也にとって、堂島菜々子との出会いは、少なからず喜びに満ちたものであった。
子供の人を見る目は案外シビアだ。
何かしらの有益性を見出さなければ容易に心を開きはしない、それは、殆ど動物的直感に拠るものといっても過言ではない。
菜々子は自分に何かしらの得るものを感じ取り、身内と認めてくれたのだろう。
『お兄ちゃん』と呼ばれるたび、なんだか背中のあたりがむず痒くなる。
それは、親しみであったり、幸福感であったりするのだろうけれど、一途に慕ってくる姿を見るたび、難しい理屈抜きで抱きしめたくなる。
(今更だけど、母さんの気持ちが少し分かるような気分)
何か手伝う?と小首を傾げた菜々子に、朋也は野菜を洗ってくれるよう頼んだ。
ピーラーを使えばニンジンやジャガイモの皮むきくらいは安全に手伝ってもらえるだろう。
油を引いて熱した少し深めのフライパンに、適当な大きさに切ったブタ肉を投入して、片手にフライパンの柄を、もう片方の手に菜箸を持ちながら、手元の調理具合と菜々子の様子を交互に窺う、朋也の口元には消えない笑みがいつまでも浮かんでいた。
世間というものは往々にして不条理にできている。
十七年間生きてみて悟った朋也なりの世の理だ。
色々な人間がいて、色々な事を考えて生きている以上、協調と不和の発生率はほぼ同等程度。
利害の一致、不一致に関わらず、齟齬は生じるし、それならば何もかもうまく行く状況こそがむしろ奇跡なのだろう。
(でも、だからって)
身内の不幸を見て見ぬ振りできない。
(アレは、あんまりだ)
昼間の出来事を思い出していた。
それこそ、不条理の塊と呼称すべき嫌な思い出だ。
最近陽介から頻繁に放課後遊びの誘いを受けるようになった。
もとより気安い性格であるようだし、彼もまた何らかの有益性を自分に対して見出してくれたのだろう。
端的に表現するなら『懐かれた』
誤解を承知であえて言えば、陽介の懐き方は犬の懐き方に近い。
見えない尻尾を振られているようだと何度思ったことか、それに、スキンシップも好むようだ。
(でも、そうしたら中型犬か?小型犬ほど神経質でないし、大型犬のイメージじゃないからなあ)
水に浸してもらった野菜を、肉とタマネギのいため具合を確認しながら、手早く一口大に切っていく。
ジャガイモだけは少し大きめカットだ。
(ニンジン、どうしようかな)
五ミリ程度の厚さにスライスしながら、菜々子にクッキーの型を持ってきてもらった。
まな板の上に広げて、他の野菜をあわせて炒める間に、菜々子に型抜きを頼んだ。
小さな手元を時折目で確認しつつ、再び昼間の出来事に想いを馳せる。
今日もまた、陽介に誘われ、放課後ジュネスのフードコートに足を運んだ。
稲羽を訪れて、もしかしたら探索目的でなくこの場所に来るのは初めてかもしれないと、少し感慨深く馴染みの安っぽいプラスティック製の椅子に腰を下ろした。
親の威光を笠に着ない陽介だけれど、多少の恩恵は甘んじて受けさせて貰っているらしい。
その分厄介事も多いんだけどな、と、苦笑いを浮かべた直後、まさにその厄介が降りかかる様子を見せられた。
「あ、いたいた、花村!」
近づいてきたのは威圧的な雰囲気の少女二人。
一瞬渋い顔をして立ち上がった陽介の正面に仁王立ちして、挑むような態度で淡いピンクのぬるついた唇を開いた。
用件は、どうやら各々の労働条件に関しての不平不満と改善要求のようだった。
彼女達はジュネスで働いているらしい。
―――今更、何の話をしていたのか具体的に思い出すことはできないが、ワンフレーズだけ耳に残っている。
「や、でも先輩ら、面接ん時は土日も出れるって言ったんすよね?」
「だって、じゃなきゃ採用されないじゃん!」
(ありえないだろ)
かたぬきおわった、と、笑顔で振り向いた菜々子に気付いて、ありがとうと返しながら型抜きしたニンジンをフライパンに放り込み、一気に炒め上げる。
一番大きなサイズの軽量カップに水を注いでもらい、菜々子の小さな手から受け取って、フライパンに移しかえると真っ白い湯気が濛々と立ち上った。
―――少女たちをどうにかあしらい終えた直後、陽介は再び、今度は別の従業員に捕まっていた。
それらは全て、到底高校生に負わせる責でない。
放置している店側もどうかと思うが、それ以上に陽介にあまりに多くを求める彼らの態度にも辟易した。
少し考えれば分かる事だ。
陽介はあくまで『ジュネス八十稲羽店店長の息子』なだけであって、彼女達の上司や、ましてジュネス本部の人間ではない。
親の職場でアルバイトとして働かせてもらっているだけの、ただの男子高校生なのだ。
そして、陽介に、親が店長だからといって、妙な権威を振りかざすような傾向は全く見られない。
もし見返りを望むのであれば、支払われる対価と、与えられるものは同等と心得るべきだろう。
暫くして疲れた顔で戻ってきた陽介がグッタリ椅子に腰掛ける様子を見て、朋也は心底同情した。
色々聞きたいことはあったけれど、どれも今口にすべき言葉でないと思えた。
だから、一言「偉いな」と労ったのだった。
陽介は苦笑いを浮かべていた。
「面倒なだけだって!」
照れたような仕草すら好ましく感じた。
色々と気遣いあっての行動なのだろう、しかし、ヤツは、馬鹿だ。
(よし)
割下はとても上手にできた、フライパンの中で茹でられている具材に注ぎ込み、混ぜ合わせて、軽く味を調えてから、落し蓋をしてコンロのつまみを弱火に調整する。
菜々子に米を研ぐよう頼んで、余った具材を釣餌用に小さなタッパに移し変えた。
(明日、雨じゃなかったら、夜釣りにでも行くか)
最近の密かな楽しみだ。
川原で出会った釣り好きらしい老人からロッドを貸し与えられて、以降時折一人糸を垂らし楽しんでいる。
そういえば以前、陽介から鮫川で取れた魚なんてろくなもんじゃない的な発言を受けたことがあったけれど、綺麗な川だし食べても問題ないように思うのだが、川魚特有の回虫でも潜んでいるのだろうか。
今度、気付かれないようにこっそり食わせてやろう。
(どん臭いと言うか、案外色々不器用な奴だよな)
そういう、憐憫と苛立ち込みでの『馬鹿』だ。
もっと上手くやる方法なんて幾らでもある筈。
一人で抱え込む必要は無いし、権限の及ばない範疇にまで手を出すべきではない。
それなのに陽介は、自身の義務感や責任感、正義感なんかであらゆるものを背負い込もうとする。
(愛すべき馬鹿だ)
尤も、一応は(ジュネス店長の息子)という立場を周囲に利用されている認識はあるらしい。
「ヒマならまだしも、俺ら、やることあるだろ、関わってらんないんだよな」
難しい顔をして、彼なりの考えをつらつら述べられた。
よく言った、と茶化したら、また照れたように笑っていた。
―――真面目なのだろう、こちらが思う以上に。
(俺には到底真似できない)
お米とげたー!と、菜々子が炊飯器のスイッチを入れて戻ってくる。
頭を撫でて、冷蔵庫から取り出したパックのジュースを菜々子と一緒に飲みながら、肉じゃがの仕上がり具合を窺う。
もうすぐできる?と菜々子が小首を傾げて見上げてくる。
もうちょっとだよ、と答えて微笑み返した。
菜々子が型抜きをしてくれた花形のニンジンを、陽介は気に入ってくれるだろうか。
(食い物で釣るっていうのは、本当に初歩の初歩だけど)
それでも、あの苦労ばっかりの友人が、僅かでも笑ってくれるのなら。
(この手間も報われる)
とりあえずは今、この後すぐに、労働に等しい対価は得られるだろう。
菜々子は肉じゃがの完成を今か今かと待ち焦がれている。
ワクワクしている気分が伝わってくるようで、朋也までなんだか少し楽しい。
「こんなマジ系の話、するなんて思わなかったな」
陽介は言っていた。
「前いたとこだと、くだらねー笑える話しかしなかったし、それでいいと思ってた」
甘茶色した柔らかな質感の猫ッ毛から覗く瞳にはいつだって真摯な輝きが満ちている。
「こんなマジな話なんて、ホントお前らだけだよ」
(気を許して貰ってるって、思っていいのかな)
「何だろうな、ウソつかなくていいって言うか」
それは自分も同感だ。
「特にお前にはさ、初っ端から、一番みっともねーとこ見られてるし」
―――テレビの中でのコニシ酒店での出来事、今も鮮明に覚えている。
「けどさ、なんかまあ、今考えると、お前でよかったな、とかさ」
(花村)
「今更だけど、あん時、一緒に来てくれてありがとな」
フッと笑った朋也に気付いた菜々子が「お兄ちゃん?」と顔を覗き込んできた。
「なんか、いいこと、あった?」
「―――うん、まあ」
「なに?」
「そうだな、友達と、もっと仲良くなれたんだ」
「そっかぁ、よかったね!」
「うん」
―――多分、これからますます親しくなっていく。
菜々子は無邪気に笑っている。
菜々子だってこれからますます大事に想えるようになっていくのだろうか。
一人はもう辛くない。
けれど今はどこにいても必ず誰か傍にいてくれる。
与えられる喜びに見合うだけの対価を、俺は彼らに返せているか?
手を伸ばして菜々子の頭を撫でたら「なーに?」と言いながらくすぐったそうに笑われた。
もうすぐ肉じゃがも出来上がるだろう。
米が炊けたら、食べた残りは、明日の弁当の分も含めて、小分けにしてラップで冷凍保存にしておこう。
(次、弁当作るときは、あと何品か用意するか)
とりあえずは初めての振る舞い、果たして陽介が喜ぶか、否か。
味は恐らく問題ないだろう、だから、男の手料理に抵抗がないことを祈るばかりだ。
最悪一人で食うかと決めて、落し蓋を持ち上げた。
フワリと漂った甘く香ばしい香りに、菜々子が傍で歓声を上げていた。