辺りは静けさに包まれている。
見慣れたスタジオの様な場所で、段差に腰を下ろしていた朋也は、隣の陽介を窺っていた。
金の目をした陽介は、どこか遠くをぼんやり眺めている。
「黒沢」
唇が、小さく朋也の名前を紡いだ。
「黒沢」
振り返る。
「黒沢」
手が伸ばされる。
頬に触れて、切なげな瞳がスウッと眇められた。
肌を確認するようになぞりながら、ゆっくり口付けしようとする姿を、朋也は無言で見詰めている。
(この花村は『本当』なんだろうか?)
こんなに霧が深くては、真実なんて簡単に見えてこない。
「クロサワ」
吐息が唇に触れた。
重なり合う手前―――何か意図的なものがあったわけでもなく、不意に言葉が漏れていた。
「どうしたいんだ?」
びくり。
触れる手が震える。
閉じかけた瞳がゆっくりと開き、金の輝きに至近距離から見詰められた。
怪しい煌めきの奥で不安が揺れている。
「お前は、本当は何を望んでいるんだ」
「俺、ハ」
「教えて欲しい」
「俺ノ望ミ、は、オマエ」
「違う」
首を振る朋也を陽介の両手が急に強い力で押し返す。
そのまま顔を背けて、俯きがちに唇を噛み締めた。
横顔を朋也は見詰めている。
何が怖い?何が不安なんだ?
(わからない)
言葉にして伝えてくれなくては。
(俺なら、ここに)
手を伸ばす。
陽介は怯えたように体を引いた。
「花村」
ちゃんとここにいるだろう?
何かを必死に耐えているような姿は、憂いに満ちている。
「こんな場所でまで我慢するなよ」
朋也の頭の奥の方が、霧がかかったようになっていた。
しないことをしようとしている。
知らなかった気持ちが芽生えようとしている。
―――けれど、これは一体何なんだ?
2人の間に確かにあるはずの境界線が見えてこない。
この場所のせいだろうか。
(そうなのかな)
俺達は今、本当はどこにいるのだろう。
「誤魔化すな、欲しいものを欲しいって、言ってくれていいんだ、俺にだけは」
拒絶したりしないから。
陽介がゆっくり振り返った。
泣き出しそうな表情で、首を小さく横に振る。
「違う」
「違わないだろ」
「チガウ」
「お前が欲しいのは、寄りかかる背中だろう?繋ぎとめてくれる手だろう?」
「そうじゃない」
「嘘を吐くな」
「うそじゃない!」
陽介が叫ぶと同時に辺りに突風が巻き起こった。
けれど、荒れ狂う力は朋也を傷つけることは無い。
どこか物悲しい気配だけ感じさせながら、髪をそよがせ、ただ空へ昇っていく。
向かい合う陽介は項垂れていて、どんな顔をしているのか見えない。
「俺は」
影の下に見える口元がポツリと言葉を紡いでいた。
「―――よくわかんねーよ」
風は緩やかに収まっていった。
こちらを見ようとしない陽介の茶色の髪を朋也は指先でそっと梳る。
今度は逃げようとしない彼の髪の表面を、掌でゆっくり、ゆっくり、繰り返し何度も撫でた。
(俺達はもしかしたら―――見知らぬ地平で互いに繋がりあう道を求めて彷徨っているのかもしれない)
陽介が欲しいものは、依存するための手段と対象だろう。
それなら俺が陽介に求めているものは一体何だ?
不意に伸びてきた両腕が縋るように絡みつき、そのままギュウッと朋也を抱きしめた。
視界の端に映る茶色の髪をあやすように撫でてやりながら、触れ合う温もりだけを感じていた。
こんな関係は初めてだから、うまいやり方が見つからない。
触れ合えるほど近くに居るのに、心はどうしようもなく遠い。
(いつか)
答えを見つけられる日が来るのだろうか。
分からない何かが、見える日が来るのだろうか。
(でも、今は)
「なるように成るだけだ―――俺も、お前も」
俺はお前を否定したりしない。
「好きだよ、陽介」
陽介の肩に鼻先を押し付けて深呼吸した。
心休まる優しい香りは、どこか切ないような感情を覚えさせる。
目を閉じた朋也の耳元に「俺も好きだ」と小さな声が聞こえた。
それが全てでもいい。
繋がりあう日を夢見ながら、今はこのままでも―――
人肌の温もりに妙な懐かしさを覚えつつ、朋也の意識は徐々に遠くなり、霧の中へと融けていった。
―――目覚めた世界は鮮やかで、夢の記憶を手繰ってみようとしたけれど、朋也は何一つ思い出すことが出来なかった。