帰り道で二人は言葉もない。
陽介はなるべくこちらを見ないようにして歩いている。
傍から見たら何事かと思われるだろうか、そんなことを朋也はぼんやり考えていた。
泣きやんだ陽介が顔を上げた途端、朋也の肩から陽介の鼻にかけて粘り気のある水糸が引いて、ギョッとした朋也の心情と陽介の「あッ」の声が重なり、場の空気は一瞬凍りつきかけた
けれど目が合った陽介から「悪ィ」と小さく謝られて、沸点を越えかけていた怒気はしおしおと萎み、代わりに朋也は「いいよ」と苦笑いを浮かべて取り出したハンカチで陽介の鼻を拭ってやったのだった。
(子供か、ったく)
手渡されたハンカチを裏返しにして陽介は涙を拭いて、返された同じものをたたみなおすと朋也は自分の肩を拭いて、すっかりベショベショになった水っぽい布切れを仕方なくズボンのポケットに戻した。
「お前って、ハンカチとか持ち歩いてる系なのな」
「何だよそれ―――」
そんな事にわざわざ感心している陽介が可笑しかった。
両目を腫らした顔を覗き込みながら朋也は「もう大丈夫か?」と問いかけた。
泣き疲れた様子の陽介は初めぼんやり朋也を見詰めていたけれど―――
「うッ!」
見る間に首まで赤く染まり、口元を押さえて他所を向いて以降、こちらを見ようとしない。
つられて朋也も何だか気恥ずかしくなってしまって、お互い微妙な空気のまま暫く土手で立ち尽くしていた。
「―――そろそろ、帰るか」
「ああ」
―――今度は朋也から手を繋ぐと、陽介を連れて土手を登る。
風景は夜の色を滲ませ始めていた。
「―――なあ」
「ん?」
人目につかない道を選びながら辿る帰路はいつもより遠い。
陽介は、申し訳ないと思ったけれど、それでも羞恥の方が勝って朋也の影に隠れるように歩いていた。
こんなに泣き腫らした顔を誰かに晒すわけにいかない。
傍らの朋也は涼しい顔をしていて、特に気にかけていないように見える。
(やっぱ呆れられてるかな)
あのさ、と陽介は切り出した。
「その、さっきのこと、他のヤツには―――」
「言わないよ」
そっと伺う横顔は綺麗だ。
いいよな、と改めて思う。
幾らか外国の血が混ざっているだろう、特殊な髪と瞳の色と彫りの深い顔立ちは、純国産ではありえない。
睫の長い優しい眼差し。
薄い唇に目が留まった。
陽介は僅かに頬を染めながら視線をそらした。
「そ、そっか」
「言わない、花村が幼稚園児みたいに大泣きして大変だったなんて、誰にも言わないよ」
「ちょ、お前!」
「アハハ」
楽しそうに笑っているので、軽く肘打ちを見舞ってやる。
(ったく)
それでも、その声に、陽介は何だか赦されているような気分になる。
事実朋也は散々鬱陶しい姿を晒した陽介を見放さず傍にいてくれる。
困惑され持て余されて、距離を取られるか、切り捨てられてしまうか、どちらに転んでもおかしくなかった、最悪有耶無耶に流されていたかもしれない。
(けどお前は、俺を受け入れてくれた)
最後まで話を聞いて、吐き出した感情を全部抱きしめてくれた。
(十分だ)
これ以上の証なんて要らない。
(俺はお前が好きだ、黒沢)
胸の深いところが囁きかけてくる、依存かもしれない、けれど嘘じゃない、何かの、誰かの代わりなんかじゃない。
振り返る朋也のアッシュブルー瞳に映る夜の光。
素直に綺麗と思う。
今、お前は、何を思って俺を見ている―――?
「花村」
「な、何?」
急に呼びかけられて、陽介は意味もなくビクリとする。
「さっきの話さ」
え、と僅かに身構えた。
吐露した心情を振り返るのに、まだ気持ちの整理がついていない。
向かい合った陽介は汗の滲む掌を握り締めていた。
「逃げてたから、謝るって、アレな」
「あ、ああ」
朋也の背後で星が瞬く。
すっかり夜だ。
「―――それが、何?」
「お前は逃げてなんかいない」
鳶色の瞳が大きく見開かれていた。
朋也が―――自分以外に関して、断言するような言葉を使ったのは、もしかしたら初めてじゃないだろうか。
呆気にとられている陽介に、しかして向けられている真摯な瞳は揺るがない。
「本当に逃げていたら、あんな言葉は出てこない、花村は逃げてなんかいない、それは普通の事だ」
「普通って」
「小西先輩のこと、大切だったんだろう?」
言葉を詰まらせた胸の内で「どうだろうな」と呟く声が聞こえた。
実際、今となってはこれが恋だったのか、思慕だったのか、陽介にはよく判らない。
ただ大切に思っていたことに間違いはなくて、そして彼女に対しての形容が過去であることに気付き、改めてハッとした。
―――俺にとっての先輩は、もう過去になり始めているのか、と。
「自分の一部みたいな存在を、自分の心の一部分でも、傷つけられたり削り取られたりしたら、ましてそれが納得いかない出来事だったら、誰もお前みたいになる、逃げて当たり前なんだ」
朋也は言う。
「逃げるべきなんだよ、そうしないと心が潰れる、苦しい気持ちが自分自身を傷つけようとする、だからそれは『逃げた』んじゃない、自分の心を『守った』だけだ、それは卑怯な事じゃないよ、花村」
他の誰がどう思おうと、たとえ。
「お前自身がそう思っていたとしても、俺は―――そんな風に考えない、当たり前に自分の心を守って、その上で、花村は現実と向き合う努力した」
それは凄い事だ。
朋也の声はまるで歌っているように宵の闇に響く。
子守唄のような、静かで優しい音程。
目の縁が熱くなる。
上手く堪えないとまた溢れてしまいそうだ。
「大変だったな、花村」
朋也の手が、陽介の肩をポンと叩いた。
「頑張ってるよ、お前、俺は知ってる」
ボロリと零れ落ちた。
(酷ぇ)
―――これはあんまりだ。
(折角落ち着いたってのに、畜生、わざとかよッ)
弱っているところにつけ込むなんて、タラシの常套手段じゃないか。
人の気も知らないで。
ちょっと驚いた顔をした朋也は、すぐ穏やかな笑みを浮かべて「また慰めてやろうか?」と冗談めかして言ってきた。
陽介は「いらねーよ」と返しながら涙を拭った拳で朋也のシャツの胸を軽く突いてやった。
「俺がそうヘタレてばかりいると思ったら、大間違いだからな」
「一応自覚はあるんだな」
「ほっとけ!」
―――けど、あと少しだけ甘えさせて欲しい。
調子のいい心がすぐ朋也に寄りかかろうとする。
思えば、春先からずっとそうだったなと陽介は感慨深い気持ちで目の前の姿を見詰めていた。
外見からは計り知れないスケールの大きな心を持っている、だから、誰も朋也に心を許し、想いを委ねてしまうのかもしれない。
苦笑いを浮かべた陽介を見て、朋也が不思議そうに「どうした」と尋ねてきた。
「なんでもない」
「そうか」
空を見上げる、ダークアッシュの髪がサラサラと揺れている。
「月だ」
同じく顔を上げた陽介は、暗天の只中にあって唯一際立った輝きを放つ白銀の姿に、朋也の目に映った月を思い出していた。