「そっちはどうだ?」

電話越しの声相手に満面の笑みを浮かべている自分は、少し滑稽なようにも思える。

どうせ表情なんて見えないのに。

「おお、今年も桜が綺麗に咲いてるよ」

川沿いの遊歩道を彩る桜並木。

空の色は端の方から薄くなり、今頃は家路を急ぐ姿ばかり目に付く。

通学路、高校の敷地内、ジュネスの傍、家の周り―――春の八十稲羽は花で埋め尽くされている。

「田舎はこれくらいしか楽しみがねーからな」

「そうか」

「もう辺り一面ピンク、ピンクのピンクまみれ、他にも色々咲いてるよ、タンポポとか、菜の花とか、あとホラ、あれ、木の、白くてデカイ」

「木蓮?」

「それそれ、もー花だらけ、花尽くし」

「うん、確か去年の今頃も、電車を下りたら風に花の香りがしていたな」

「―――だろ?」

桜の綺麗な頃に出会った人は、季節を跨いで今年の桜が花開く前に町から去ってしまった。

今はこうして電話越しでなければ声を聞くこともできない。

三月の初め頃から数えてまだたった一ヶ月程度しか経っていないのに、もうこんなに寂しくなっている自分は相当ダメだろう。

気付かれないように溜め息を吐いたつもりだったけれど、すぐにバレてしまった。

「どうした?」

「あ、いや、ホント春だなーと思ってさ」

「お前の頭の中は年中春だよな」

「な、何それ、酷ぇ!」

クスクス笑う声に胸が苦しくなる。

こんな他愛ない会話すら気安く交わせない。

ずっと隣に在った姿を思い出して、思わず泣きたいような思いに駆られた。

(もう、コイツは稲羽にいないから)

二度と逢えなくなったわけじゃない。

それでも、二人の間には、気安く超えることの出来ない時間の壁が横たわっている。

以前は煩わしいばかりの、今ではかけがえのない場所となったこの町で、けれど、変わる切欠をくれた自分の世界を形成する重要な要素は、最初の約束どおり期限が訪れたらさっさといなくなってしまった。

子供だから仕方ないのは判っているし、理解もしているけれど、半面薄情だという想いも拭いきれない。

胸にぽっかり開いたままの虚は当分このままだろう。

話している傍から寂しくて仕方ないし、多分、電話を切ってしまったら、もっとずっと寂しくなる。

「新学期始まって早々、進路相談とかやめて欲しいよなあ」

そういった感情を押し殺してわざとらしいくらい能天気な声を上げると、電話の向こうから軽い溜め息が聞こえてきた。

「何言ってるんだ、三年なんだから、本腰入れて受験対策始めないとダメだろう」

「お前は国立受けるんだっけな」

「うん」

「そっか、頭イイヤツはいいよなぁ、羨ましい」

「お前は?」

「ん、俺は―――」

そういえば、と、少し強引に話題転換を試みた。

「俺の両親、つかお袋、三社面談の日程忘れてやがってさ、仕方ねえからって、オヤジが仕事途中で抜け出して来たんだよな」

「おばさんどうしたんだ?」

話に乗ってきたので、安心して調子を上げる。

「旅行だよ、旅行!韓国!息子より韓流スターの追っかけ行きやがった、サイッアクだろ?しかも親父もさぁ、スーツの足元スニーカーだったんだよな、丸の内のOLかっつうの、まあエプロン着けて来られなかっただけマシだったかもだけど」

「俺も、結構ひどい目にあったよ」

「ん?」

「真っ赤なスーツで来たんだ、母さん、しかも足元ピンヒール」

「うわ何それ、結構ダメージデカイな」

「だろ」

「ったくなー、お互い親には苦労させられるよなぁ」

柔らかい笑い声。

どんな顔をして、どんな風に笑っているか、目を閉じればすぐ思い出せる。

百万通のメールよりも、一千万回の通話よりも、たった一度でもいい、逢って話したい。

目を見て、肌で感じて、生の声が聞きたい。

息苦しさに耐えかねて、ふと立ち止まり、鮫川の川面を暫く眺めると、土手を少し下りた辺りの斜面にごろりと寝転がった。

本日の三者面談。

担任から『もっとはっきりした目標を持ちなさい』と痛い所を突かれて、父親の手前、適当な言葉でお茶を濁したけれど、実際自分が何をしたいのか、どうしたいのか、具体的になんてまだ答えられない。

今が人生の重要な分岐点と分かっていても、特別したい事も、なりたいものもない、十代後半の半熟青年に一体どんな図面を引けというのか。

―――恐らく、まだ覚悟が足りないんだろう。

(はっきりしてる事もあるんだけどなあ)

茜色に染まりだした春の空で、枝に鈴なりの桜はポン菓子のようにモコモコした質感をユラリユラリと揺らし、その度パッと散ってハラハラ舞い落ちてくる薄紅色の花びらが綺麗だ。

視界にも、体の上にも、沢山降り注いでくる。

「綺麗だなぁ」

こんな光景、都会では見られなかった。

「本当に、桜すっげえ綺麗、花びらが散って、風に香りが乗って漂ってきて―――なのにどうしてお前が傍にいないんだろうな?」

溜め息が漏れた。

「―――お前と一緒に見たいよ」

「うん―――ありがとう」

「ヘヘッ」

影絵の様な鳥が鳴き交わしながら飛んでいく。

春の空気を胸いっぱいに吸い込んで、目を閉じて胸の上に片手を押し当てながらじっとしていたら、耳元で「陽介」と小さく聞こえた。

「やっと見えてきた」

「ん?」

「確かに凄いな、桜、香りがここまで漂ってくるよ」

「え?」

「なあ、今お前どの辺りにいる?ちょっと手を振ってくれないか」

ゆっくり押し上げた瞼の下からとろんとした眼差しで空を見上げていた陽介は、上半身だけガバッと飛び起きた。

頬に甘い花風と、掌には湿った草と土の感触が伝わってくる。

まぜっかえされて乱れた前髪を急いで除けながら周囲をキョロキョロ見渡したら―――いた。

土手の上、遊歩道のずっと向こう。

咄嗟に見間違いかと思ったけれど、違う。

気付いた姿が手を大きく振って笑った。

『陽介!』

受話器と、そして、風の向こうから聞こえる朋也の声。

立ち上がった陽介の体から緑の葉がパラパラと落ちる。

「相棒?」

再び近くと遠くで同時に笑い声が響いた。

歩く姿を呆然と眺めていた陽介は、やがて、土手を登り、徐々にスピードを上げながら駆け出していく。

「朋也!」

朋也が立ち止まった。

切った携帯電話をポケットに突っ込みつつ、ちくしょう、と呟いて、陽介は両腕を伸ばす。

そのまま飛びついた弾みで二人一緒に転びかけたけれど、互いに支えあってしっかり抱き合うと、陽介は朋也の肩にグイグイ額をこすり付けた。

確かに今、ここにある温もりを確認して、慌しく朋也を見詰める。

「お前、どうして!」

夢見るほどに恋焦がれていた相手なのに、気の利いたなんて出てこない。

きょとんとした朋也は、けれどすぐ楽しげにクスクスと笑い出した。

「土曜で、三社面談は午前中だったから」

「だからってこんな―――だって遠いだろ?それにお前俺に何も」

「遠いから今夜は泊めてよ、それと、黙ってたのは、今みたいな陽介が見たかったから」

「なっ」

陽介が呆気に取られると、不意に朋也は真面目な顔をする。

「さっきの話さ」

「え?」

「進路の話、お前も、今日三者面談だったんだろ」

「あ、ああ」

「俺は、改めて説得しに来たんだ」

何故かドギマギしながら、じっと見詰める陽介に、朋也は諭すような口調で続けた。

「陽介、前に、そうだったらいいな、みたいな言い方していたけど、いいな、じゃなくて、そうするつもりってないのか?」

「それって何の」

「大学、同じ所に行こう、陽介」

両手をぎゅっと握られる。

「行こう」

ポカンとした陽介は、すぐに両目を大きく見開いた。

「と、朋也!」

「その説得をしに来たんだ、お前が頷いてくれるまで何度だって来るから」

「ちょ、ちょっと待てよ、何で急に」

「急じゃないだろ、それに」

朋也の、長い睫がそっと伏せられた。

「一年離れるだけで苦痛なんだ」

―――固まってしまった。

咄嗟に言葉が出てこない。

なのに、鼓動が早くて心臓が爆発してしまいそうで、繋がった指先から全身が火照っていく。

(マジかよ)

それだけのために、朋也は時間も距離も飛び越えて逢いに来てくれた。

同じ条件を口実にして燻ぶっているだけの自分とは全然違う。

(そっか、そうだったのか)

勝てない、と改めて思った。

お馴染みの独り善がり、俺も大概しろよと若干腹立たしくすらある。

こうやって朋也が手を差し伸べてくれるから、何度もあった分かれ道で迷わず進み続けることが出来た。

今、去年経験した様々な出来事が脳裏に蘇ってきて、泣き笑いの様な表情になってしまったら、それを見た朋也が僅かに目を見張ると、不意に暗い顔で少しだけ俯いてしまう。

「気持ちは、分かるよ」

「え?」

「―――俺だって迷った、でも、一時の気の迷いなんかじゃないって確信できたから」

「は?な、何?」

「男じゃ」

はぁ!?と咄嗟に声が出た。

「ちょちょちょ、ちょっと、待てって!」

朋也の両肩をグッと握って、鼻先が触れ合いそうなほど顔を近づける。

「言っとくけど!」

相変わらず吸い込まれそうなくらい綺麗な目だ。

「先に告ったの俺だぞ!」

まだ怪訝な様子に、陽介はいよいよムキになって噛み付いた。

「だから!忘れた?まさかとは思うけど、忘れてねえだろうな?俺だからな?好きって言ったの!なのになんで今更そんなこと言うんだよ、俺は!寧ろお前の方が」

「俺だって」

不意に口を開いた朋也が、陽介の手をやんわりと解きながら静かな声で言う。

「いい加減な気持ちで、お前の想いに応えたわけじゃない」

「―――なんだ」

それなら、と苦笑いの陽介に、朋也は「笑うんじゃない」と急にムッとした表情でデコピンを繰り出してきた。

痛いと叫んだ陽介を見詰める姿に笑顔が戻る。

それを見て、陽介も赤くなった額を擦りながら「酷ぇなあ」と穏やかに笑った。

「けど、まさか稲羽まで来ちまうなんて」

「本気だって証明したかったんだ、どうせ、電話越しじゃ煮え切らないだろ」

「いや、けどよ」

「それに今の陽介の学力じゃ、すぐに受験勉強始めないと」

「へ?」

「判定の地点で却下される」

「って、ちょ、ちょっと待った、まさか俺がお前のレベルに合わせて進学って話?」

「当然」

「うそお!」

―――やはり、これは一生勝てないかもしれない。

肩を落とした陽介の髪を、優しい感触がそっと撫でた。

恨めしい想いで軽く睨みつけてやったら、笑うから、陽介はそのまま胸に顔を埋めるようにして朋也に抱きついてやった。

「陽介」

トクトクと伝わってくる鼓動。

愛しい温もり。

(俺も、一年以上は耐えられそうもない)

手放したくない、ずっと、ずっと傍に、これからも朋也と一緒にいたい。

「責任取るよ」

背中をポンポンと叩かれる。

「出来る限り勉強見るし、会えなくても手伝う、一緒に頑張るから」

もっと触れて欲しくて額を摺り寄せたら、こら、と叱られてしまった。

「同じ大学に行こう、陽介、まだ、これからも俺は色々な経験をお前と一緒に積んでいきたいんだ」

「なあ、朋也、それって」

「―――いい加減離れろ、そろそろ恥ずかしい」

「プロポーズ?」

ごちん。

「痛い!」

頭を抑える陽介を呆れ顔で眺めているけれど、朋也の瞳は凄く優しい。

―――これが、ずっと続いて行く俺たちの関係。

(でも、もうちょいイチャイチャはしたいんだけど)

「飛躍しすぎ」

苦笑いする姿は夕陽に染まって見惚れてしまうくらい綺麗だ。

拗ねた気分で「違うの?」と尋ねたら、急に困り顔で肩を竦めた。

「そう、取りたいなら、好きにしてもいいよ」

「プロポーズなら、俺も考えなくもない」

「何を?」

「二人の未来について」

陽介はニコリと笑いかける。

「今夜、泊りがけで説得してくれるつもりなんだろ?」

春風がデザインの違う二人の制服の裾を揺らして、甘い香りと共に花びらの雨を降らせた。

空の色は茜から群青に変わりつつある。

ニヤニヤするなと溜め息を吐かれて、お返しにもう一度抱きついてやったら、強引に引き剥がした両腕がそのまま陽介を押さえつけて、仕方ないなと照れた様子で笑う。

「こんな場所で何度も抱きつくなよ、稲羽中の噂になるだろ」

「いいんだよ、俺は、お前とだったら」

「バカ、ジュネスの息子はホモだって、号外で商店街にすっぱ抜かれるぞ、そうなったらいよいよ天城達にも見放されるかも」

「ちょっと!―――お前ってばホント、時々マジ歯に衣着せぬっつーか、容赦ねえし」

「そういう俺を、全部ひっくるめて受け入れてくれたんだろう?」

陽介は暫く朋也を見詰めると―――「おう」と満面の笑みを浮かべた。

「そーだよ」

色白の朋也の肌が仄かに赤く色付いて見える。

「俺は、そういうお前に惚れちまったんだよ」

「うん」

「んん?何かちょっと顔赤くない?」

「え?」

「ほっぺが桜色」

「夕陽じゃないかな」

「それにしちゃ様子がおかしいような、おやおやぁ、どうなんですかねえ?ともやくーん?」

朋也がスッと片手を翳す。

即座に、頭に獣の耳でも生えていたらピッと寝かしていただろう、そんな様子で身を竦ませた陽介と暫く向かい合って、朋也は軽く笑った。

「俺も、そういう陽介だから、好きになったんだよ」

翳していた手で陽介の髪を優しく撫でる。

西の果てに宵の明星が輝いていた。

薄紅色の花を照らす陽の残滓はいよいよ赤く燃え上がり、今日の最後を締め括ろうとしている。

二人きりの遊歩道で、結び合った視線と共に長い影が重なり合った。

「―――説得、するからな」

忍び寄る夜の気配と共に、声がそっと告げる。

「今度は俺から連れていくから、覚悟しておけ」

「ん、どこだって付き合うよ」

「じゃあ」

「ただし、それは説得の内容次第です、本日親父は残業だと話しておりましたので、とりあえず夕飯からよろしくお願いいたします」

「―――はいはい」

苦笑いと共に返ってくる優しい声。

これくらいは勘弁してよと胸の内で囁いて、そっと朋也の肩を抱いて歩き出す陽介の視界を、桜の花びらが横切っていく。

白い奇跡はスタートを、そして、ゴールを告げるテープのように白い軌跡を描いて通り過ぎ、二人の姿を見送りながら春の空へ飛んでいった。

 

 

ちなみに翌日は堂島宅にだけご挨拶して帰りましたとさ。

奈々子に好かれつつ恨まれる陽介っていうのも複雑そうでいいわ(笑