空は晴れ渡り、風が心地いい。

本来なら授業を受けているはずの時間、こんな場所に居る理由はひとつ、サボったのだ。

はあ。

吐息が青に吸い込まれて消えた。

1学期末試験間近の校内はナイーブな雰囲気で満ちている。

(そんなときに屋上でごろ寝)

自分でタイトルキャッチをつけて、朋也は苦い気分で笑った。

正直なところ、少し、息が詰まって逃げ出してきたのだった。

 

朋也は数ヶ月前まで多くの人が行き交う喧騒の中で生活していた。

街には何でもあって、いつでも開いていて、灯が途切れることはなく、夜空に見えるのはネオンライトと航空機の光、誰もが時間を急ぎ、無機質なビル群の形成する灰色の森を肩で風を切って歩く、それが日常の風景だった。

今ここにあるものと何もかも正反対だ。

耳をそばだてても、風の音、鳥の声、虫のなき声、木々のざわめき。

合間に聞えてくる微かな人の声は、教鞭を振るう教師と、運動場の生徒たちだろうか。

背中のコンクリートから伝わる仄かな温もり。

降り注ぐ初夏の穏やかな日差し。

見えるものはただ、空の青と、雲の白。

温い空気の中に僅かに混ざる居心地の悪さ。

(別に田舎暮らしに不満があるってわけじゃない)

それは本心だった。

不便だから嫌だとか、何もなくてつまらないとか、そういった事はあまり感じていない。

なければないで何とかなるものだし、そもそも生活に必要なもの自体が少なかった朋也からすれば、今の暮らしもそう悪くないと感じている。

だから、そんな単純な話ではなくて、そう、自分は恐らく戸惑っているのだろう。

―――あまりにたくさんの出来事が稲羽を訪れた途端一挙に押し寄せてきたから。

懐を探って硬質な感触を取り出す。

メタルフレームの眼鏡。

その向こうに透けて見える様々なものに瞳を眇める。

(期待されていることは、嫌じゃないんだ)

むしろ誇らしいと思う。

自分にできることがあって、自分にしかできないことで、頼りにされていると実感できる日々は充実している。

もしかしたら特殊な運命に酔っているのかもしれないけれど、責任を果たす誓いは本物だ。

大切な人たちの笑顔や、大切な人たちの大切なものを守りたい。

願いを叶えることのできる力を持っているから、出し惜しみなどしたくない。

しかしそれら全てと真逆の想いが胸で渦巻いているのも、また目の背けられない真実だった。

(本当にやり遂げられるのか)

(皆の期待に応えられるのか)

(この状態は一体いつまで続くのか)

そして全ての根底に深く根を張る、自ら覗くことすらためらうような暗闇。

(怖い)

―――向こうの世界で賭けているものは決して安くない。

刀剣を握る手が震えることなどしょっちゅうだ、だからこそ、奮い立つ自分と、恐れて後ずさりをする自分がいる。

閉じた瞳の向こうは闇、再び瞳を開けば、抜けるような青色が目に沁みた。

世界のギャップに溜め息が漏れる。

前触れなく訪れた力の意味は、俺に、真に望まれている事は、一体なんなのだろう。

 

蟠りは唇の上で歌声に変わり、空へと抜ける。

 

もっとずっと小さな頃から一人で過ごすことの多かった朋也の孤独を紛らわせる手段のひとつ。

誰もいない部屋、押しつぶされそうな静寂。

小さな歌声は震える心を励まし、寂しい気持ちをほんの少しだけ軽くしてくれた。

気晴らしはいつしか癖へと転じていた。

けれど、自分の歌は誰かに聞かせるものではないと朋也は思っている。

それは他でもない、自分自身に向けているものだから。

心のどこにも行き場がなくなったとき、積もりすぎた感情の澱を外へ出すための歌声。

抱えすぎた荷物が少しだけ軽くなって、再び進む意志を取り戻させてくれる。

 

誰もいない屋上で、一人の歌声が静かに広がり、大気に溶けていく。

 

目を閉じて、風を感じて、浸りきっていた空気が僅かに揺らいだ。

ふと瞳を開く。

「よお」

影になって覗き込んできた顔。

朋也は、ひとつ間を置いて、勢いよく飛び起きた。

 

「うわ!」

陽介が驚いて避ける。

上半身起こした格好の朋也はドキドキ鳴り響く胸を押さえたまま俯いた姿勢から動けない。

「―――お前、こんな所でサボりかよ」

暢気な声も今だけは耳に疎ましい。

「けど、天気いいよな、サボりたくなる気持ちわかるぜ」

朋也は答えられない。

色々な言葉が頭の中でごちゃ混ぜになって、早鐘の様に打ち鳴らされる心音と、頬から耳たぶにかけて感じる燃える様な熱さが煩わしい。

僅かに苛立ちすら覚えつつ、低い声で「何の用だ」と呟くのが精一杯だった。

「ん?」

陽介はとぼけた様子で

「お前が教室にいなかったからさ、俺も、仮病使って抜けてきた」

「何で」

「そりゃ気になるだろ、相棒としてはさ」

(何が相棒だ)

間の悪い級友に朋也は内心毒づく。

誰にも聞かれたくなかった、見られたくなかった場面を、よりによって陽介に知られた。

どう思われただろうか、と、ふと思う。

呆れただろうか、馬鹿にされるのだろうか。

(笑ったら、殴ってやる)

不穏な気配にまるで気付いていない様子で、陽介は頭の後ろで組んだ手をそのままぐっと上に押し上げ伸びをしていた。

「しっかし」

朋也は手を握り締める。

「お前さ」

遠くの空を眺めていた瞳が、ふと振り返った。

窺っていた朋也の視線と真っ直ぐ合って混ざり合う。

「歌、上手いな」

「は?」

陽介はケラケラと笑った。

朋也は殴らない。

「屋上来たらどっかから歌ってる声がしてさ、聞いたことあると思ったらお前なんだもん、しかも、やたら上手いし」

なあ黒沢。

きょとんとしている朋也の傍らに陽介がいそいそとしゃがみ込んで顔を覗き込んでくる。

「もっかい歌ってよ、俺、お前の歌聞きたい」

バカ!

そう言おうとして、開いた口をパクパクさせて、朋也はそのままそっぽを向いた。

耳が赤いと陽介がまた笑っている。

「なんだよー照れてんのかー」

「うるっさい!」

「なあなあ、俺さ、ギター弾けんの、知ってる?」

―――それは初耳だ。

「今度俺んちで合わせようぜ、俺のギターとお前の歌」

「―――嫌だ」

「何で?いいじゃん、楽しそうじゃね?」

「全然」

「ノリ悪いなあ、俺ら二人でバンド組んだら女の子たちが放っとかねーと思うんだけど」

「お断りだ」

「じゃあさ、俺んちで歌うだけでもやろうぜ、俺も一緒に歌うから」

もういい加減にしてくれ、と思った。

やはり人に聞かせる歌声じゃない、現に今非常に煩わしい事になっている。

朋也は意を決して陽介を振り返った。

まだ顔が熱いような気がするが、この際構っている場合じゃない。

目の合った陽介は懐っこい笑みを浮かべていて、多少気が削がれてしまう。

「花村」

「オウ」

「お前、今聞いたこと忘れろ、俺は歌なんか歌わない、絶対に」

「ええっ、何で!」

「何でもだ」

「いいじゃん!」

よくないと呟いて視線を逸らした、朋也の肩に指先がグッと食い込んだ。

「俺だってよくねーよ」

それまでと少し違う雰囲気がしたから、少しだけ視線を陽介に戻す。

「―――あのさ」

口元が僅かに戸惑って

「何、考えてんだか知んねーけどさ」

朋也は改めて陽介を見た。

もう顔は熱くない。

陽介も笑っていなかった。

多少神妙な面持ちで、こちらの様子を窺うように瞳を覗き込み、言葉を選んでいる。

「お前がこんなトコで、一人っきりで、あんな寂しい声で歌わなきゃなんねえ程、俺はお前の事放っておかねえよ」

そうして今度は反対に、フイと視線を逸らされた。

「なんかあったなら言え、一人になろうとすんな、その、相棒だろ、お前の背中は俺が守るっていつも言ってんだろうが」

お前は俺らのリーダーだけど、でも。

「なんでも一人で頑張るこたねーんだ、そのための俺だし、俺らだろ、お前の不安なら俺だって背負うよ、俺の不安もお前が半分持って欲しい、だから、その」

寂しいことすんな、バカ。

最後は吐き捨てるように呟いて、横目でこちらを窺う陽介の顔が今度は赤い。

朋也は僅かな間の後で噴出してしまった。

「な!」

即座に真っ赤になった陽介が、身を乗り出すようにして大声を上げる。

「人が折角気ィ遣ってやってるってのに、お前ッ」

「悪い、でも、ハハ、花村、よくそんな恥ずかしい台詞を真顔で」

「は?!んなことねーだろ!むしろ凄ぇイイ事言ったぞ!お前の心のメモに書き留めとけ、この、アホ!」

「お前の方がよっぽど恥ずかしいな、ハハハ」

「ぐあー!笑うなっつッてんだろ!畜生、黒沢なんか二度と慰めてやんねえからなッ」

ジタバタする陽介を笑い飛ばしながら、朋也は自分の内側にあった感情をも笑い飛ばしていた。

なんてバカらしいんだろう。

この不安は、惧れは、決して自分だけのものではなかったというのに。

(それを俺は、抱え込んで、思い詰めたりして)

―――多分、一人では押し潰されていただろう。

けれど朋也は初めから一人ではなかった。

隣に必ず―――陽介がいてくれた。

恥ずかしげもなく真面目な想いを真摯な言葉で素直に伝えてくれる、かけがえのない相棒が。

お人よしとよく言われるけれど、それはお前のほうだぞと内心告げる。

少なくとも不在を心配して授業をほったらかしてまで探しに来てくれるような友人は、都会の森にはいなかった。

「黒沢」

恨みがましい眼差しに、朋也はようやく笑うのを止めて、ごめんと軽く頭を下げる。

「そうだな」

空を見上げた。

抜けるような青色がさっきよりずっと輝いて見える。

「花村」

「何だよ」

「お前、本当にギターなんて弾けるのか?」

戻しつつ尋ねた視線の先で、不満げな眼差しと目が合った。

「弾けるッつの、お前、信じてねーのか」

「違うよ」

首を振った。

「―――そうだな、もし、弾けるなら、合わせて歌わせてくれないか」

きょとんとしていた陽介の瞳が輝きだす。

「え?マジ?」

「うん」

カラオケ行っても歌った事無いから、そう告げた。

「一回位、音に合わせて歌ってみたかったんだ」

「い、一回じゃなくてさ、何回でも歌えよ、俺いくらだって弾いてやるって!」

「何回もはちょっと」

「いいじゃん!お前の歌聞きたいって言っただろ?聞かせろよ!そしたら今度俺んちで!」

「気が早いな」

照れ笑いを浮かべる陽介に、朋也も笑い返していた。

不安を吐き出すための歌が、そうじゃないものに変わるかもしれない。

惧れを孕んだ歌声でも陽介ならきっと最後まで聞いてくれるだろう。

それはまるで月の裏側の闇を照らし出す眩い陽光。

(ここが、俺の居場所だって、思えるようになるかもしれない)

とりあえずここでアカペラいっとく?と聞かれて、朋也は苦笑いで首を振った。

不安の全てが払拭されたわけではないけれど、陽介と一緒だと随分心が軽くなる。

片手にしたままだった眼鏡をそっと制服の内ポケットに戻して、澄ました耳の奥に胸の内から響く優しい歌声が聞えてくるようだった。

 

 

コミュランク3〜4くらい、陽介は格好いい事言ってますが本当の意味で気持ちがついてきてません。

ただ素養が無ければああいう事は多分言えない。