【ストーリー分岐/取引】

 

 ただ素直に貸してやるのも癪だ。

散々人をからかって、涼しい顔をしているこいつに、多少やり返してやりたい。

「花村、お前、数学の宿題やってきた?」

「え?」

思わぬところから飛んできたボディブローに、陽介は思わず目をパシパシと瞬かせた。

振り返った朋也の表情に僅かに呆れた色が混ざる。

「宿題、32ページの例題2と3、図形の面積と角度を求める問題」

「うええ、マジか、宿題出てた?」

「出てた」

素っ気ない答えに身を捩り、その弾みに肩でヘッドホンがカチャンと音を立てた。

まだ音楽は聞こえてくるけれど、今はそれどころじゃない。

意地悪心は呆気なく引っ込んでしまった。

「すっかり忘れてたーっ」

すぐ傍で溜め息が聞こえる。

陽介は朋也を振り返ると、半袖のシャツから覗く腕に縋りつく。

「お前は、やってきてるんだよな?」

「勿論」

「見せて!」

優秀な相棒が居てくれてよかったという想いで胸がいっぱいだ。

数学担当の教師はとにかく嫌味がねちっこい、それに、いちいち溜め息を吐いて、あからさまな態度が鬱になる。

宿題をしてこなかったことが、授業中指されるなどして明るみに出たら、鬱陶しげに睨まれ、責められて、一時間嫌な思いをしなければならないだろう。

見上げた朋也はチラリと陽介を眺めて、すぐに視線を反らせると、何か考えるようなそぶりで黙り込んでしまった。

「なあ、なあ、なあ!」

態度がもどかしくて、掴んだ腕を引っ張ってみる。

「神様仏様朋也様ぁ、おねげーしますだよおお!オラにお慈悲を下せえっ」

「何、それ?」

「何でもいいっつーか、頼むよ、見せてくれよぉ」

「期末も近いのに」

「反省してるってば!」

「自分の頭で考えないと、身につかないよ」

「んなの分かってるってば!分かってるけど緊急事態なんだよ助けて!なあ、なあ!黒沢ぁ!」

ピシリと額を弾かれた。

また呆れた溜め息を漏らして、冷ややかな視線が注がれる。

めげずに陽介が胸に腕を抱き込んだら、今度は歩き辛いと言われた。

もっともだけれど、こちらも引き下がれない。

更に食い下がって朋也をグイグイ引寄せていると、今度こそ、鬱陶しいと腕を大きく払われてしまった。

「分かったから!」

「黒沢!」

パッと表情を輝かせる陽介に、朋也は三度溜め息を吐く。

引っ張られてよれたシャツを調えながら、視線をそらして「やれやれ」と呟いた。

「仕方ない、見せてやるよ」

「さっすが相棒、分かって」

「その代わり」

「へ?」

パシパシと瞳を瞬かせる。

陽介を眺める朋也の口元に、意地の悪い笑みが滲む。

「俺の頼みも聞いてもらう」

そして、ポカンとしていた陽介からひょいとヘッドホンを取り上げて、耳に当てた。

コードが引っ張られて小型端末がポケットから飛び出しそうになり、慌てる陽介の肩と、朋也の肩がぶつかった。

「うわ、わ」

そのまま抱きつくような格好で体を寄せたら、至近距離で目の合った朋也がかすかに笑いかけてくる。

「とも」

「コレ、今日一日貸して?」

「は?」

コードごと端末を取り上げられた。

あまりにさりげなく、鮮やかにスルリと抜き取られたので、陽介は全く抵抗できなかった。

馴染みのオレンジ色が朋也の耳元にかぶさって、朋也は片手で端末を弄りながらスタスタと歩いていってしまう。

ハッと我に返った陽介は急いで背中を追いかけて、ちょっと待てよと朋也の腕を捕まえた。

「俺まだ何も言ってないだろ、勝手に持ってくなよ」

陽介をちらりと見たアッシュブルーの瞳が猫のように眇められる。

「数学の宿題見せるのと交換だよ、無償で手に入るものなんて、あるわけ無いだろ」

「だ、だからって」

「文句があるなら返してやるよ、でも、それなら、自力で頑張れよ」

勿論数学の宿題の事だ。

ウッと言葉に詰まる陽介を眺める朋也は、どこか楽しげな雰囲気を滲ませている。

手の中の端末を軽く振りながら、コレいい曲だよな、と、笑いかけられた。

「気に入ってくれたんだ、贈った甲斐があったな」

「ああ、まあな」

「何、ふてくされてんの?」

「別に」

そっぽを向いて歩く陽介の隣に、朋也の気配が並ぶ。

この程度で腹など立たないが、一方的にやり込められてつまらなくはある。

ヘッドホンを一日貸すくらい構わない。

宿題を見せてくれる朋也の親切に感謝もしている。

隣り合って歩くこと、朋也の気配が傍にあること、それだけで単純に幸福だ、心が躍ってしまう。

多分、今は自分の根幹を占めるようになった、この想いはいつまでも揺らがないような気すらしている。

それゆえに、若干拗ねてつま先を蹴り上げた陽介の耳に軽く笑う朋也の声が聞こえて、チラリと横目で伺うと、はい、と、肩に馴染みの感触が乗せられた。

「え?」

改めて見詰めると、手に小型端末を握らせて、朋也が艶っぽく笑う。

「冗談、少しお灸を据えてやったんだ、懲りたら宿題くらいちゃんと片付けて来いよ」

「な、なんだよ」

思わず、いいのかよ、と、ヘッドホンを外そうとする陽介の手を、やんわり押し留められた。

いいんだよ、と、優しい声が返ってくる。

途端ドキリと胸が高鳴り、ポカンと開いた口をポンポンと叩かれて、朋也が呆れ顔で笑った。

「バカ面、ダサい、陽介の宝物を取ったりなんかしないから、ボケッとしないでさっさと歩け、早く学校に行かないと、写す時間なくなるぞ」

スイスイと歩く背中に少し遅れて、追いついた陽介は、赤く染まった顔の、口元を尖らせて朋也に詰め寄る。

「べ、別に、宝物なんかじゃねーよ!」

「そう」

「お前、信じてねえだろ、俺はこいつにそこまで執着してないかんな!」

「ふぅん」

「だから!」

「はいはい、分かった分かった、お前の相棒は俺とソイツだってことは、ちゃんと理解してるよ」

ウッと言葉に詰まった。

陽介はますます頬を赤らめ、なんだよズルイ、と、つま先に視線を落とす。

胸がドキドキして、体中熱くて、堪らない。

違うとあえて声高に叫ぼうと思った。

朋也はともかく、ヘッドホンにそこまで執着していると思われるのは心外だ。

確かにお気に入りではあるけれど、宝物なんて言われ方したくない、そこまで子供と思われたくない。

「朋也!」

声を荒げたら、朋也がクスクスと笑い出した。

笑いながら仄かに赤く染まった目元で陽介を見詰め返してくる。

そして、言った。

「今度から、そう呼んで」

「え?」

「朋也って、名前で呼んで」

「なっ」

「俺も、呼ぶから―――陽介って」

体中を沸かせていた反発心が急速に鎮まっていく。

代わりに違う類の興奮と、そして、気恥ずかしさが込上げて、陽介はその場に固まってしまった。

朋也も足を止めて暫く陽介を眺めると、不意に肩をポンと叩き、何も言わずに歩き出した。

姿をぼんやりと目で追って、まるで笛吹きの笛の音に釣られた子供のように浮ついた足取りで歩き出すと、追いつき、隣に立って伺った朋也の横顔はまだ少し赤く染まったままだった。

困ったような溜め息を小さく漏らす。

陽介も無意識に息を吐いていた。

不意に、アッシュブルーの瞳と目が合い、内心悶える。

「と、とも、や?」

「うん」

こくりと頷く様子が無性に愛らしい。

「朋也」

改めて呼びかけると、なんだよと、照れた声が返ってきた。

途端陽介の体中に羽根が生えて、どこかへ飛んでいってしまうような気持ちに襲われる。

今すぐ抱きしめたくて疼く両腕をどうにか押さえながら、もう一度「朋也」と呼びかけたら、いい加減にしてくれと一言漏らして朋也の足取りが急に早くなった。

急いで歩調をあわせつつ、口元がだらしなくにやけて、にやけて、困る。

「お前が言ったんだろ、なあ、朋也、朋也!」

「やっぱりダメだ、お前はそうやってすぐ調子に乗る、その顔止めろ」

「無理だな、生まれたときからこの顔だもん、俺、そっかそっか、そうだよなあ、その方がぐっと親しい感じするし、何より」

好き合ってる感じがすると、流石にそれは、他の誰が聞いているとも分からない、今、この場所で、口にはできない。

何より、すかさず朋也の瞳が鋭く光って陽介を射るように睨みつけた。

怖い。

苦笑いで誤魔化して、陽介は改めて朋也を名前で呼んでみた。

「何だよ」

けれど朋也は、やめろと言わない。

ただ困ったように小さく息を吐き出してから、少しだけ歩く速度を緩めた。

「じゃあ、時々、こっそり呼ぶ、そんならいい?」

「こっそりじゃなくてもいいから、無駄に呼ばないで欲しい」

「分かった、朋也も呼んでくれよな?」

「うん、なあ」

「うん?」

「お前、前から時々俺の事名前で呼んでたんだよ」

「あれ、そうだっけ?」

「気付いてなかっただろ」

「うん、そっか、そうだったんだな」

風に朋也の髪が揺れている。

八十神高校の校門が見えてきて、周りに人の姿も随分増えた。

朋也の頬は隣にいる陽介にしか判らない程度にまだ赤い。

それが陽介の胸をときめかせる。

こんな姿、他の誰も知らないだろう。

朋也の、俺だけが知っている何もかも、誰にも教えてやるものか。

「朋也」

呼べば、柔らかな声が返ってきた。

「何?―――陽介」

「教室行ったら、宿題見せてね」

「はいはい、了解」

「お礼に昼飯奢るから」

「弁当あるからいい、ジュースだけ奢って」

「弁当!」

「一緒に食べよう、そのつもりで、ちょっと多めなんだ」

今度こそ抱きしめたい。

けれど、再び視線で制して、朋也はニッコリ微笑んだ。

朝の光が傍でキラキラ輝いている。

「ジュースね、ヨロシク」

「一番高いの奢るし!何なら二本奢る!」

「一本でいいし、お茶でいいよ、ほら、陽介、もっと早く歩け」

「任せろチクショウ、心の友よ!」

踏み出す足が喜びでどうしても浮かれてしまう。

こんな簡単に、自分をのぼせ上がったバカに仕上げてしまう、朋也の言動は本当に恐ろしい。

それでも、少なくとも、二人きりの時はバカでいい、ただ恋に踊っていたい。

好きな相手が傍にいるだけでこんなにも世界は輝くのかと、見上げた空の青が目に染みた。

ヘッドホンから聞こえてくる音楽に、陽介は、今度はイヤホンを持ってこようと考えていた。

(貸してもいいけど、一緒に聞くんだ、朋也と、イヤホン片っぽずつで、一緒に)

そのほうがきっと楽しい。

朋也、と、呼んで、伸ばした指先に、一瞬だけ指が絡まって離れた。

夏の熱を孕んだ風が二人を包むようにして通り抜けていった。

 

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