月の照らす夜道をフラフラと歩く。

夏も終わりに近い湿った大気には微かに秋の気配が混ざり始めている。

仄暗い闇を温い風が時折フワリと通り過ぎていった。

「疲ッれたぁ」

大仰な溜め息と共に疲労感を吐き出して、陽介は空を仰ぎ見る。

黒の天蓋に浮かび上がる群雲、輪郭だけ縁取られた影。

違和感を覚える景色は胸に妙なざわつきを呼び起こすようで、足元もどこか、心許ないような気がする。

(皆、人のこといいようにこき使いやがって)

ゴキゴキと肩をならして、再び溜め息が漏れた。

陽介はジュネスで働く学生アルバイトの一人でしかないはずなのに、その背に負わされた責任は雇用契約の範疇をとっくに超越していると思う。

父親が八十稲羽に新規開店した郊外型大型ショッピングセンターの店長、たったそれだけの理由で。

今日だってそうだ。

管理の甘い売り場担当に泣きつかれ、父親から勅命が下り、ありえない残業時間をこなしてようやく上がり。

疲れ果てた体を引きずるようにして従業員通用口から外へ出ると、天空高く輝く白い月が見えた。

―――何やってるんだろう。

ふらり。

歩き出せば、足が勝手に家路と違う道を辿りだす。

頭上には月の影、何か潜んでいそうな暗い雲。

夏の夜更けは魔物の腹の中のようだと思う。

そこかしこの虚ろにたくさんの気配が潜んでいて、全てを温い大気が膜のように包み込んでいる。

辺りに予感が満ちていた。

茫洋とした胸を持て余したままで陽介はノロノロと歩き続ける。

―――水音が聞えた。

靴底で砂利が音を立てる。

顔を上げると、周囲を見回して、ようやく現在地を理解した。

ここは鮫川の土手だ。

(いつの間に)

こんな場所を訪れてしまったのだろう。

見渡した景色の先、川縁に、動く影があった。

 

「ん?」

 

目を凝らしてみる。

影は大きなモーションで何かを振るっている。

釣りだろうか。

もっとよく見えないものかと土手の端から身を乗り出した、途端、雲間から差し込んだ月明かりが影を人に映し変える。

 

ダークアッシュの髪、陽介より少し高い位の身長、見覚えのあるシルエット。

 

「黒沢?」

それは、紛れもない、クラスメイトの黒沢朋也で、手には釣竿を持ち、真剣な面持ちで糸を垂らしていた。

どうやら夜釣りに興じているようだ。

陽介の表情に日が射し込む様に笑顔が広がっていく。

「おおーい!」

呼びかけて、頭上で大きく手を振り回した。

振り返った姿は一瞬怪訝な表情を浮かべて、けれど陽介と認識すると、すぐ柔らかな笑顔に転じていた。

そんな些細な事で一気に嬉しさのゲージの振り切れた陽介は勢いよく土手を駆け下りていく。

隣に辿り付いて、両手を腿について乱れた呼吸を整えてから、改めて起き上がって笑いかけた。

「よお」

「おう」

鼓動が早い。

「お前、こんなとこで何してんの?」

夜釣り、と、こともなげに返される。

陽介は声に出して笑った。

「渋過ぎ、オヤジくせぇなあ」

「夜は珍しいのが釣れるんだ」

「へえ、お前がそんなに釣りバカとは知らなかった」

皮肉を受けて朋也も笑い、再び川面に視線を戻す。

同じ方向に一度視線を向けてから、陽介はこっそり朋也の横顔を眺めていた。

―――真摯な眼差しに月の光を反射して、正直、綺麗だ。

同性に何考えてるのかと思うけれど、美意識に垣根を持ち出すのはナンセンス。

そういうことにしておこう。

きりりと結ばれた口元、整った目鼻立ち、揺るがない眼差し。

それでいて、どこか優しげな雰囲気をたたえているから、冷たくはない。

北欧系の血が四分の一混ざった彼の、銀を帯びた黒髪が光を受けてプラチナに輝く。

仄かに青味がかった瞳の色は深く、まるで異国の海のようだ。

普段、ワザと目付きを悪くしているらしい、二重の瞳が今だけはきちんと見開かれて暗いせせらぎに向けられていた。

そうしている朋也の横顔は少女のように可憐で、仄かな稚さが劣情を誘う。

いい。

改めて、つくづく思う。

月の光を束ねて人型にしたら、きっとこういう姿になるに違いない。

思春期特有の詩的表現をぼんやり思い浮かべていた視線の先で、ふいにチラリとこちらを窺った眼差しと目が合った。

陽介は咄嗟に体を震わせて、何か言葉を発せなければと思う。

しかしそれより朋也が口を開く方が些か早かった。

「―――それで?」

「は?」

「何なんだ」

主語のない言葉の意図をすぐ理解した陽介は、僅かに閉口すると、所在なさげに指先で頬を掻いた。

「あッ、いや、なんっつーか、その、俺はホラ、バイトの帰りなんだけどさあ」

しかし、ジュネスから家までのルートに鮫川土手は入っていない。

朋也は陽介の自宅の場所を知っている。

―――間違いなく勘付いているはずなのに、朋也は話を遮らなかった。

群雲が少しずつ月を覆い隠していく。

「その」

こいつの。

(こういうところが、ちょっとだけ苦手)

「―――親父がさ、今日も残業、とか言いやがってさ」

手をぶらつかせながら、乾いた笑い声を漏らす。

「困っちゃうよな、ホント、実の息子何だと思ってんだ、俺は唯のコーコーセーアルバイトですよーって」

足が勝手に歩き出した理由。

陽介には何となく見当がついていた。

月はいよいよ影となり、2人の姿は互いに闇に紛れつつあった。

「人の事いいようにこき使いやがってよ、ホント、何とか法?とかいうのに抵触すんじゃねーの、ったく」

そして、陽介は口を閉ざした。

語るべき言葉が何も出てこない。

偽りの弾は撃ちつくしてしまった。

朋也がゆっくり視線を外し、月の隠れた世界は漆黒に塗りつぶされている。

不穏だった。

胸の内に巣食う混沌が顕現したかのように、曖昧で、不安定な世界。

膨張した予感が内側を圧迫して、外に触れる大気は生ぬるく、胡乱が時折風となって肌を舐める。

(テレビん中にいるときみたいだ)

ぞわりと背中を這い登る感覚に、陽介の意志から背いた何かが言葉を紡ぎだしていた。

「黒沢」

「うん?」

朋也は手元で釣竿を操っている。

「―――怖いって、思ったことあるか?」

そして、陽介は即座に後悔した。

朋也にだけは聞かせてはいけない言葉を今口にしたのだと悟った。

(ビビッてるって思われたら、コイツは俺をアテにしなくなっちまう)

一人でも戦える強さを持った、広すぎる相棒の背中。

憬れて、頼もしくて、羨ましくて、妬ましくて―――愛しくて。

少しでも追いつきたい、守りたいと、願うほど想いに叶わない自身の力なさに歯噛みする。

(ちくしょう)

俯いた陽介の髪を夏風が揺らした。

風の音が、少し前に失くした愛しい人の声のように聞こえた。

 

「ある」

 

闇に声だけ響く。

思わず双眸を見開いて、陽介は言葉を選べない。

「―――怖いのなんかしょっちゅうだ」

釣りに興じたまま淡々と話している朋也の表情は暗すぎてよく見えない。

「俺は、お前が思ってるほど強くもないから」

水面に魚が跳ねた。

「だから普通に怖い、テレビの中行く時は、いつでも、今まであった一番楽しいこと思い出すようにしてる」

「なんで」

「そうしてると気が紛れるから」

ひっそりとした声が夏の夜に溶けて消えていった。

陽介はただひたすら相棒を見詰めていた。

「どうして」

朋也の笑い声が聞こえる。

「まだ死ねない、頑張らなきゃって、そういう気持ちになれる、励みになるんだ」

(そんな風に)

今まで彼の不安の僅かも理解していなかったのか。

(そんな風に思っていたのか)

いつだって強くて頼もしい俺たちのリーダー。

春風と共に訪れた転校生は、不敵で、無敵で、冷静沈着で、どんな場面でも自分を見失わず、正しい判断の下せる『大人』―――そういう人物像を勝手に思い描いていた。

けれど、と、陽介は今更ながら気付かされる。

朋也だって妙な力を手に入れるまでは同い年のごく普通の高校生で、自分と同じ様な生活をして、同じ様なことを考えたり、同じ様な悩みを持ったりしていたはずだ。

剣を握ったり、まして、文字通り『命を賭けて』強大な存在に立ち向かったりした事などなかっただろう。

「なあ、花村」

しかし、やはり、朋也の声は、静かでとても落ち着いている。

「お前が怖い時、俺も怖い、でも、お前がいてくれたら俺は―――怖くない」

陽介はキュウッと両手を握り締めていた。

どうしてだろう。

些細な言葉のはずだ、気休めかもしれない、けれど。

(黒沢に言われると、何か)

胸の奥が熱い。

心が昂っていくのがわかる。

心臓が勇ましく鳴り響いていて、朋也の姿はすぐ近くで、それは、手を伸ばせば届く距離だからとか、そういう意味でなくもっと別の―――多分、心が。

(今、凄く近い)

 

光が差し込んだ。

 

戻した棹の先に銀のしなやかな笹の葉の形が閃く。

捕らえた魚を再び川に戻してから、立ち上がり振り返った朋也が真っ直ぐ陽介を見詰めた。

「お前は一人じゃないだろ?」

異国の海色の瞳は静寂だけを湛えていた。

その奥に映る暖かな気配を感じ取り、陽介は―――「ははッ」

笑っていた。

からりと晴れた、僅かに安堵したような声で。

「そっか」

月の光が朋也の姿を照らしている。

朋也が光を発しているようだ。

陽光翳る漆黒の闇に真実の光を投げかける、混沌を祓い遍く清め糺す純白の月。

そうだ。

落ち込んでなんかいられない。

朋也の相棒を名乗るのなら、それこそ。

(俺はもう二度と、大切なものを無くすわけにいかないんだ)

しっかりしろ、と、改めて自分に言い放った。

一対無二のこの両足でがっちり踏ん張って立ち上がらないと、また失くしてしまう、今度こそ守りきると誓った。

(それに、俺がグダグダしてたら、こいつにばっかり背負わせちまう、頼らせてやれねえだろ!)

煩雑な些事に心迷うことはこれからも幾らだってあるに違いない。

けれど何度でも、見失ったものを再び取り戻す事ができる。

傍らで輝く月、それこそが―――陽の道行きを照らし出せる唯一の存在。

だから。

「ゴメン、黒沢」

陽介はペコリと頭を下げた。

色々察してくれたらしい相棒は、口元で微かに笑っただけで、再び川面と対峙してしまった。

釣竿を振る仕草と共に、「頼むぞ相棒」の声が、陽介の背中をドンと押す。

負けていられない。

世界に、運命に、自分に―――何より、こいつに。

仄かに染まった頬の熱だけ気取られないように、そっと顔を背けた。

(今はいいんだ、まだ、ただの相棒のままで)

夏草が香る。

虫の声、星の灯、ふつふつ沸き起こる嬉しい気持ちを「飲み物いるか?」と言葉に代えたら、リボンシトロンと返ってきた。

(今夜お前に会えて、また俺はちょっと変われた)

了解と景気よく答えて駆け出す。

川原を煌々と照らし出す月。

天に佇む半身の光を駆け上った土手の上から見上げた陽介は、淡い笑みの滲む口元で「サンキュ」と囁いたのだった。

 

 

オリジナルサントラDisc222曲目『回廊』は個人的に朋也の曲と思っています。

そういやクマの事すっかり忘れてた…陽介一人で残業ってあるのか?

 

あとリボンシトロン1本飲めないよ〜年寄りに炭酸はきッつい…