それは、少しばかり風の強いある日の出来事。
パタパタと小気味よく階段を上ってくる音にふと顔を上げる。
足音で誰か分かる。
母だ。
「とーもくんッ」
ドアの向こうから呼び声がした、朋也は、じっとドアを見詰める。
「開けるよ」
返事をする前に、ドアノブが回り、案の定母がぴょこんと顔を覗かせた。
いや、ぴょこん、などという可愛らしい形容詞は不似合いだろう。
170センチの痩身、赤茶に染めた髪、睫の長い吊り目がちの瞳に真っ赤な唇。
けれど些かも毒を感じさせないのは脅威の美貌と纏う雰囲気のお陰だろうか。
ニコリ、と微笑みかけて、母は勉強机の椅子に座ったままじっと様子を窺っている息子の傍までスキップの様な足取りで近づき、背後に回るとその双肩に両手をそれぞれポンと乗せた。
「ねえともくん、ママから重大発表がありまーす!」
キャッキャとはしゃぐ声を背中越しに聞きつつ、朋也は黙っている。
「ママねえ、会社ですごーくすごーく重要なお仕事を任されちゃってね」
―――来春には高校二年生になる息子を未だに子供扱いするのは、母の悪癖のひとつだ。
家族の行事などまるで頓着しないくせに、必要以上に子供を猫可愛がりし過ぎる。
一人息子だから、とか、構ってやれない罪悪感が、という次元の話でなく、単純に溢れる母性が暴走特急のように自分を巻き込んで止まないのだと、溺愛されて育った割には冷静な目を持つ当事者は、小さな溜め息と共に母の言動を受け入れる。
生まれた時からの事だ、流石に慣れた。
「それでね、その話をパパにしたら、何とパパも!同じく大きなお仕事を任されちゃったんだって!」
同時期に重大プロジェクトチームの一員に抜擢。
両親は共に一流と呼べる企業に勤めている。
母は外資系の巨大なマーケットを持つアパレルメーカーの役員、父は国際的に事業を営む製薬会社の幹部。
両親の不在は物心ついた頃から朋也にとって当たり前で、中学一年生位までは家に手伝いの人も来ていた。
しかし、母いわく『元服したら大人の仲間入り』との謎めいた理由から、今は朋也自身で日常生活においての雑事の全てをこなしている。
高校一年生にして、半ば一人暮らし状態だ。
こうして母に会うのも実は久々の事で、浮かれ調子を眺めながら、朋也はぼんやり父も帰ってきてるのだろうなと階下に想いを馳せていた。
マイペースな父は、今頃台所で冷蔵庫の物色の最中だろうか。
(マズイ)
直後にハッとする。
(冷蔵庫に、作り置きの煮物と金平が)
「これはもう運命ねって、ママとパパ、2人で話し合ってね」
父はどちらも食べてしまうだろう。
細かい事を構わず、自分のしたいようにする人だから。
ついでにこだわりのプリンも食べるだろう、全て明日の弁当に入る予定のおかずとデザートだ。
そうして朋也は即座に更に重大な問題が差し迫っていることに気付いてしまった。
(―――会心のたれで漬けたから揚げッ)
「ともくんずーっと一人ぼっちだったし、この際夢の家族団らんも兼ねて、黒沢一家全員で」
から揚げは確実に食べられてしまう。
あれは父の好物だ。
食べるなと言っておかなければ、なんでも自己判断で裁決を下してしまう。
明日の朝揚げるつもりで、下ごしらえまでしかしていないけれど、目的のための手間を全く厭わない人だから調理作業など微塵も面倒と思わないに違いない。
(それだけは、ダメだ!)
「一年間の海外移住を決定いたしましたー!」
がたーん!
突然勢いよく立ち上がった朋也を見て、母親は目をパチパチとさせている。
「ともくん?」
朋也は、振り返って母を見た。
互いに暫く無言で見詰め合い、先に口を開いたのは朋也だった。
「―――海外?」
「そう」
ニコリ。
母は満面の笑みを浮かべる。
「一年間?」
「そうよお」
「家族みんなで?」
「初めてよね、家族旅行、朋也ずっと行きたいって言ってたじゃない」
それはいつの話だ。
朋也は再び閉口した。
母は構わず話し続ける。
「ママもね、勿論、パパもよ、ともくんに寂しい思いばかりさせて、悪かったなって反省してるの、それで今度の海外勤務で一年も家を空けちゃうんじゃ本当に両親失格だよねって、だから、ともくんも一緒に連れて行くことにしたのよ」
あとの話はあまり耳に入ってこなかった。
ただ、ひとしきり話し終えた母が「ね?」と小首を傾げて微笑みかけてくるものだから、朋也は黙って頷き、母は嬉しそうに朋也の傍を離れた。
ドアの手前で立ち止まり、振り返って「楽しみだね、ともくんッ」と明るく声をかけたあと、ドアノブに手をかけて母親が完全に部屋の外に出て行くまで、朋也はただ静かに見送った。
ぱたん。
そして。
ドアが閉まった直後。
―――こ、ココ、コン、コン、コン。
「ん?」
浮かれた足取りで階下に行こうとしていた母親は、ふと足を止める。
コン、ココン、コン、コン、コココココン、コココココン。
「何?」
ココココココン、コココココン、コココココン、コン!
「朋也あ?」
戻り、朋也の部屋のドアノブに手をかける。
ぐ、と力を込めた瞬間異変に気がついた。
「開かない?」
コココココン!
「朋也?」
コン、コン、ココン!
「ちょっと、ともくん?」
コン、コン。
「朋也!」
コン。
最後の物音と同時に、辺りは再び静まり返った。
母はドアを押したり引いたりしてみる内、徐々に状況を理解し始めていた。
(ドアに釘を打ち付けてある!)
「朋也!」
ありったけの力でミシミシ、ギシギシと、不吉な音を立てる向こう、階下から揚げ物の揚がる音と香ばしい香りが上ってくる。
しかし構わず朋也の名を連呼しながらドアを殴ったり蹴ったりしていたが、不意に胸騒ぎがして戸板の表面に耳を押し当てると内部に聴覚を研ぎ澄ませた。
ガラガラガラ―――
(!!)
「ともやぁ!」
(野郎、窓から逃げようとしてやがる!)
ガタンッ
「てめェ、あぶねえだろうがぁッッッ!!!」
怒号と共にバッと踵を返し、母親は猛然と階下に下りていく。
つむじ風の様な姿が去った後、何事かと台所から口元をもぐもぐさせた父親が顔を覗かせていた。
片手に菜箸、片手には、煮物の入った小鉢というスタイル。
母親が物凄い音を立てて玄関の戸を開き、靴も履かずに宵闇の路地へ飛び出すとそこには―――
「ともやぁ!」
灯り始めた街灯の向こう、暗闇の奥へと疾走していく息子の後姿が見る間に遠ざかり、消えた。
「あんんのやろうッ」
ギリギリと歯を噛み鳴らす母親の傍らにいつの間にか現れた父親が立ち、片手を軒にして額に押し当てながら暢気な様子で感心していた。
「おー、もう見えなくなった、あいつ随分と足が速くなったもんだなあ」
「あのバカ、窓から逃げやがった、クソッ」
母は肩で荒く息をしながら吐き捨てる。
「危ねえだろうが!怪我でもしたらどうすんだッ」
「大丈夫だよ、男の子は元気過ぎるくらいで丁度いい」
「ざっけんな、第一部屋から直で外だぞ、靴履いてねえんだぞ、足の裏とか怪我すんだろ、小石でも踏んづけたらどうなる、てかなんで逃げんだよ、理由がわかんねえ!」
「そうだね、それは、俺が思うに」
ああ?
振り返りガンを飛ばしてくる妻の姿に若かりし頃を思い出しながら、夫はニコリと微笑んで、人差し指を立てて見せた。
「海外、行きたくないんじゃないかな?」
「?!」
なんでだよともやああああ!
―――迫りつつある夜の闇に母の声は響き、消えた。
数時間後。
かたん。
玄関先から聞こえた微かな物音に、母親は椅子から跳ね飛ぶ様に立ち上がり猛然と掛けていく。
「朋也あ!」
戻った時を考えて施錠していなかった玄関には、出戻りの猫の様な雰囲気の朋也が佇んでいた。
そのままの勢いで母親から涙混じりに繰り出されたラリアットを、寸でのところで息子は避ける。
「てめえッ、ママに心配かけるなんざ、いい度胸じゃねえか、アアッ?」
吊るすぞゴラアと凄む後ろから父親がニコニコしながら現れた。
「おかえり朋也」
「ただいま」
「ただいまじゃねえ、ごめんなさいだろッ、心配かけんな、絞めっぞ!」
「ハハハ、お母さん、素に戻ってるよ、そんなに驚かせたら朋也が怖がっちゃうだろ?」
「るせえ!大体テメエ、いったい何が気に食わないってんだ、海外か?海外行くのが気にくわねえってのかよ、オイ!」
こくん。
間をおいて、朋也は首を縦に振った。
直後母親は愕然とした表情を浮かべ、代わって横から前に出てきた父親が朋也の顔を覗き込む。
この父も、とても背が高い。
2メートルに至るがっしりした体躯、目の色は僅かに青く、髪の色はダークアッシュ。
こちらはカラーコンタクトもヘアカラーの類も一切使用していない、全て自前の、父は北欧系ハーフだ。
畢竟、朋也はクウォーターということになる。
少し銀色がかった髪も、ブルーグレーの瞳も親から譲り受けた。
「朋也、そんなに外国に行くのが嫌かい?」
こくん。
「たった1年でも?」
こくん。
「そうか」
『だってさお母さん』と、振り返った夫を見て、再び朋也を見てから、母親は唸り声を漏らす。
色々と考え込んでいるらしい。
元々、子供の自由を過剰に尊重、というより度の過ぎた放任主義の両親だから、無理強いしてまで話を進めようとは思わないのだろう。
ただ、海外での親子水入らずを夢想していたようだったし、引っかかりは恐らくその辺りに違いない。
暫く黙り込んだ後、母は深々と溜め息を吐いた。
「でもね、ともくん、1年もここで一人暮らしなんて、やっぱりママ反対だな」
再び目付きの険しくなる朋也に、違うと苦笑いで首を振る。
「そうじゃないよ、ともくん、仕方ないから、叔父さんのところに行きなさい」
今度はきょとんとした息子を見て、両親は顔を見合わせると、お互いばつが悪そうに笑いあった。
「実は朋也が出て行ったあと、お母さんと2人で話し合ったんだ、朋也がそんなに海外行きたくないんだったら、遼太郎君の所で1年預かってもらったらどうかなってね」
「遼も忙しくてあまり家に居られないみたいだから、ともくんがいれば丁度いいんじゃないかって」
「丁度いい?」
朋也が首を傾げる。
「従妹の菜々子ちゃん、覚えていない?」
母はニコリと微笑み返した。
「遼太郎叔父さんの娘で、今小学校の何年生だったかな、とにかく、そんな小さな子が毎日お家に一人きりなんて物騒じゃない?いい機会だし、防犯も兼ねてっていう事でもう話はつけてあるのよ」
「ただ、遼太郎君の家は稲羽市の八十稲羽でね、ここからだと半日がかりの距離にある」
「だから、転校して1年向こうの高校に通うことになるの、それでも、そっちの方がいい?」
朋也が決めていいよ、と、母親は言う。
父親も、自分の事なんだから自分で選びなさい、と朋也に頷いて見せた。
「じゃあ、稲羽に行く」
寂しげな表情の母親がすんと鼻を鳴らした。
少し申し訳なかったけれど、この人の事だ、すぐ楽観的に考え直すに違いないと思い直す。
父親は対照的に楽しげな笑みを浮かべていた。
涙を見られまいとするようにそそくさと立ち去った母を見送り、まだ玄関先に立ったままの朋也へ向けてこっそりウィンクを投げて寄越す。
「トモ君、折角遠くに行くんだから」
トモ君。
父が秘密の話をする時の、特別な呼び方。
「君だけの(武勇伝)、見つけてこいよ、それも、飛び切り最高のヤツ」
頷き返した息子を見て、父親も、黙って頷いた。
二人の間にある暗黙の了解―――父は、息子がまだ本当に小さな頃から、誰にも内緒である素養を植えつけていた。
それは『いい男』につきものと、父独自の信念に因る漢の勲章(武勇伝)
二人は互いに語り合うことのない、けれど、その目を見れば通じ合う、それぞれの(武勇伝)を収集することを人生目標として掲げていた。
いわばディープでコアな(武勇伝マニア)だ。
蒐集家と言ってもいい。
(武勇伝)のためならば、多少のキケンやタブーをものともしない、その心得を父親は息子に言葉と背中で語り伝え、共感した息子の方も、今では日々自分だけの(武勇伝)を追い求め、『いい男』となるべく研鑽に余念がない。
女性蔑視の傾向があるわけでなく、むしろフェミニストもいい所の父親だが、『こればかりは女性には理解していただけない男だけの美学だから』という理由で、母には秘密の約束だ。
もっとも、恐らく誰の理解もほぼ得られないだろうと通じ合っている父と息子は、互いにアイコンタクトを交し合うと、満足して頷きあった。
踵を返す父に、朋也もようやく上がり口に腰を下ろすと、改めて、表を走り真っ黒になってしまった靴下の裏を確認して、コレはもう捨てなければダメかもしれないと淡い溜め息を漏らしていた。
「あ」
父の声に、ふと振り返る。
「そうだ、朋也」
背中が何か思い出したように足を止めていた。
くるり。
振り返った顔が、直後に嬉しそうに再びニッコリと微笑みかけてくる。
「煮物も、金平も、から揚げも、それからプリンも、お前料理うまくなったなあ、凄くおいしかったよ、ごちそうさま」
―――がくり。
急に何かの糸が切れたように項垂れた息子を、父親は頭上に疑問符を浮かべながら眺めていた。
これは物語が始まる、もう少し前のお話。