「君への距離」

 

唇に触れる指先が熱い。

忘れる事など出来ないそれを、思い出すたび胸の辺りが息苦しくなる。

その理由を見つけ出せないまま、日々は同じように過ぎ行くのだった。

「なんでなんだよ・・・」

就寝前、暗闇の中で問いかける豊の声に応えるものは、ない。

 

「そんな、どうしてばらっちが?!

紫陽花の店内に響き渡る伽月の声を、今日ばかりは豊も諌めずに聞き逃した。

もとより人気のほとんどない喫茶店のカウンター越しに、店主が「なにごとか」といった面持ちでこちらを窺っている。

拓実はただ笑うばかりだった。

「仕方ないよ、それに、僕も納得しているし」

「そんな、だってばらっち、うちにだって来たばかりじゃないか!」

なのに、そんなことって、と呟く伽月と豊も同じ気持ちで拓実を見詰める。

「いいんだよ」

彼の口調は、こちらの思いと裏腹に分別のあるものだった。

「二度と会えないわけじゃないし、期間が終われば戻ってくるんだから・・・だから、ねえ、二人とも?笑顔で送り出してもらえないかな・・・?」

 

紫陽花を出て、朱雀大門で拓実と握手を交わすとこみ上げてくるものがある。

門の前には綾人が来ていた。彼は何も言わなかった。

立ち去る背中を見送って、泣き止まない伽月を家まで送り届けた後、ふと見上げた空は本日最後の陽光で燃えるような茜色だった。

今ならまだ間に合うと思う。

寮の門限には遅れてしまうかもしれないが、それでもどうしても行きたい、今すぐに。

豊は覚悟を決めて、天照館の門を潜り抜けた。

駆け足で向かう先は執行部室。

ここ一週間ほど、お役目や用がなければ極力近づかないように気をつけていたあの場所だった。

 

「失礼します」

戸口で息を整えて、扉を開くと少し先に見慣れた後姿があった。

予想通り、と思うと同時に、心臓がドクンと一つ大きく鳴る。

汗ばむ掌を握り締めて、後ろを向いて戸を閉めると背後から声がかかった。

「・・・久し振り、だな」

慌てて振り返っても、件の人物は後ろ向きのままだった。

夕暮れ色に染まる執行部室。

今、ここには豊と綾人しかいない。

それは豊にとってとてつもないプレッシャーだった。

あの日、綾人に抜き打ちで口付けされて以来、豊は極力彼に近づかないように気をつけていた。

周囲の人間に不審がられても困るので、気付かれないように、けれど、必要最低限にだけ。

会話らしい会話もしていなかったし、誰かがいないときには側に寄ろうともしなかった。

綾人も、なぜかあれ以来自ら話しかけてこようとしない。

気を使われているのかもしれないが、確認するためにあの日の出来事を蒸し返すのは嫌だった。

見えない壁のようなものに遮られたまま、ここ数日間澱のような感情が胸に凝り固まっている。

(いいや、今はそんなことに構っている場合じゃない!)

豊は軽く首を振り、意を決して僅かに踏み出した。

それで、気配を感じ取ったのか、後ろ向きだった綾人がくるりと振り返る。

逆行に縁取られた姿は表情が読み取れなかった。

「どうした、何か用か」

低い声に息を呑む。用件ならいっぱいある、聞きたいこともたくさん。

(けど今はそれを聞きにきたわけじゃない)

豊は自身を鼓舞して口を開く。

「どういうことですか?」

「どう、とは」

「榊原の事です」

ああ、と答える綾人はどこか疲れた印象だった。

前髪をかきあげる癖とともに、覇気のない声が抑揚なく響いた。

「手を、尽くしたんだがな・・・言い訳はしない、全て俺の力不足のせいだ」

その途端、胸の奥がギュッと締め付けられるような感触が、した。

豊はそんな自分自身に驚いていた。

綾人は本心から詫びている。多分、彼の事だ、八方手を尽くしてやれることは全てやったのだろう。

それでもダメだった。今度の決定を取り消せなかった。

その失望、自身への無力感、彼が今確かに感じているだろう痛い感情を想うと、まるで自分の事のように辛くなる。

綾人の代わりに、今すぐにでも拓実に詫びに行きたい気分だった。

どうして?

誰かが豊に問いかける。

どうして、総代の事を、まるで自分の事のように思うんだ?

どうして今、こんなに辛い?

どうして、どうして、どうして・・・

(わからない、そんなことっ)

俯けた顔の、唇をきゅっと噛み締めていた。

わからない、何もかも、わからないことだらけだった。俺のことも、総代の事も、キスのことも。

「・・・どうして」

「うん?」

「どうして、ですか」

誰か、豊の意思と関係無しに、体を操っている奴がいる。

そんなつもりは無いのに、勝手に口が動いていた。

「どうしていつもそう強引なんだ、あなたは」

顔を上げて、キッと綾人を睨みつける。

「何でも勝手に決めて、勝手に行動して、やりたい放題、他人の意見なんてお構い無しで・・・!」

溢れる言葉は止めようもなかった。

「総代ってそんなに偉いんですか?あなたにとって全ては望みのままなんですか?どんな勝手も許されるんですか?!

このままでは泣くかもしれない。

凝り固まっていたものはそれだけでは無いのに、思いの刃は彼を切りつけることしか出来ない。

本当に聞きたいのはそんなことではなくて、もっと言うべきこと、大切な事がたくさんあるはずなのに。

(違う、そうじゃなくて)

瞳の端が僅かに歪み始めたようだった。

「あなたは、身勝手だ・・・!」

突然綾人がつかつかと歩み寄ってきた。

ビクリと震える豊にかまわず、威圧的な様子で目の前に立ちはだかると、いきなり胸倉を掴み上げる。

(殴られる!)

本能的に目を閉じた瞬間、呼吸を遮られた。

「ンッ・・・」

唇が重なっている。

吐息ごと魂まで吸い尽くされるように深いキスだった。

気付いて、慌てて引き離そうとする片腕をひねり上げられる。

もう片方の手で彼の制服の端を掴んで抵抗してみても、綾人はびくりともしなかった。

「ン・・・ンン・・・ンッ・・・」

苦しくて、限界が来るたび僅かに離れる唇が呼吸を促すようだった。

一息つくとまた口づけられて、三回ほど繰り返してようやく許された。

腰から力が抜けてくたくたと崩れ落ちる豊の体を、綾人の腕がしっかり支える。

「豊」

かすんだ視界の向こうで、綾人は困ったような切ない表情をしていた。

「また、無茶をした・・・すまない」

「総代・・・」

混乱した思考でどう答えていいのかわからず、豊は芒洋と瞳を泳がせていた。

「・・・そうじゃないんだ」

ポツリ、呟きが降ってくる。

「そんなつもりじゃない」

ポツリ。

「お前を、傷つけるつもりなんてなかった」

小さな、不安な声。

まるで今にも泣き出しそうな、恐ろしく怯えた声。

どこにも行き場のないほど追い詰められて、けれど、それは確かに彼の声で。

そうして許しを請うように、ぱらぱらと豊の上に零れ落ちてきた。

「出会った時から思っていた・・・けれど、俺は、それをどう言葉にすればいいのかわからなくて」

背中を支える腕の片方が、指先で恐る恐る頬をなぞる。

「口ではとても表せない、けれど、行動したら結果豊を傷つけることになった」

「総代」

「俺は、お前の言うとおり、身勝手で自己中心的な男だ」

綾人は自嘲的な笑みを浮かべる。

「総代なんて肩書きに見合わない、愚かな人間なんだ」

ぎゅう、と胸の奥が締め付けられるように苦しい。

今こうして、あの日よりもっと最悪な状況にあるのに、あの時と違って豊は自分の事を考えられなかった。

そんなことよりも、目の前の彼の不安を払ってやりたい。

彼の苦しみの、一割でも肩代わりしてやりたい。

(でも、どうすればいい?)

答はどこにも見当たらなかった。

考えたってわからない、そう思った途端、自分でも驚くほど自然に両腕が伸びていた。

「豊?」

突然の行為に戸惑う綾人に、構わず彼の首に腕をまわす。

そうしてほとんど無意識に、流れるような動作で・・・唇を・・・豊から、重ねていた。

背中に添えられていた綾人の掌が布の表面をぎゅっと握りしめる。

頬にあった手が、後頭部を支えて引き寄せる。

深く、長く、交じり合うように。

そうしてどちらともなく離れると、僅かに下から豊の瞳が綾人を見詰めた。

「俺はまだ、なんていったらいいのか・・・よく、わからないんですけど」

胸にある澱は完全になくなったわけじゃない。

自分がいましたことの意味もよくわからないし、何より男同士、尋常な行為では無いだろう。

欧米人ではないのだから、挨拶のキスなどしない。

でも。

「俺・・・総代は、きっと榊原のために頑張ってくれたんだって、信じます」

綾人は僅かに複雑な表情をした。

「それと、俺にしたことも」

豊を見つめる瞳に熱い色が滲む。

「悪い事じゃないんだって、信じます」

「豊」

「俺には、それが精一杯です」

今は、まだ、と小さく付け加えると、綾人は豊をそっと抱きしめた。

「わかった」

骨張った大きな掌が、慈しむように何度も髪を撫でる。

「ありがとう、豊」

耳元で囁く声は優しくて、心にポッと何か温かなものが灯るようだった。

それは多分消えないだろう。

先のことはまだ何も見えてこないが、とりあえずこうして抱きしめられているのは悪くないと思える。

二人の間にある壁が、少しだけ薄くなるのを感じていた。

 

ほとんど沈みかけた夕日に染まる姿は、どちらも同じ色だった。

 

(了)