「執行部室にて」
「悪いな、豊」
「気にしないで下さい、総代」
夕暮れの執行部室には、綾人と豊の二人だけだった。
正式にメンバーになってから早一ヶ月、桜も散り、若葉の頃。
お役目や、表業務の諸事等々雑務が溜まりに溜まり込んだ執行部は目の回るような忙しさだった。
裏のメンバーには事欠かない天照学園執行部の、表でも仕事をこなす人材は意外に少ない。
学園総代の綾人。彼の片腕の結奈。美沙紀はあまりデスクワークを好まない。
それ以外の者たちについては誰も及び腰で、事務作業を期待できそうにもなかった。
「お前がこちらの仕事も手伝ってくれて助かったよ」
言われた豊は薄い笑いを洩らす。
「といっても、俺もあんまり大した事は出来てないんですけどね」
「何を言う、大助かりだぞ」
もっと自信を持てよと笑われて、豊は照れたように少しだけ微笑んだ。
結奈と美沙紀は職員室に用があってしばらく戻ってこられないらしい。
もしかしたらそのまま帰るだろうと綾人が言うので、豊は黙々と頼まれた事務作業をこなし続けていた。
「豊」
顔を上げると、机の向こう側で綾人が疲れた表情を和ませていた。
「大丈夫か、少し休憩するか?」
豊は首を振った。
「大丈夫です、気を使っていただいて、恐縮です」
自分の方が疲れているようなのに、と、改めて綾人の人格者ぶりに僅かに感心する。
稀代の神子と称され、郷の老人達の信用厚い天照学園現総代、九条綾人は非常に優秀な人物である。
文武両道、剣や呪術にも長け、背も高く人柄も万民に愛されている、オマケに顔まで良い。
こんな人間が現実にいるものなのだなあと伽月と笑いあったこともあるけれど、本当に綾人は文句なしのパーフェクトな総代だった。
彼であるからこそ、こんなに少ない人員で事務作業がはかどっているのだと思うと、豊はただただ感心するばかりであった。
再び書類に向き直って、頼まれた分の校正と認印押しに集中していると、カタリと木の擦れる音がした。
気配からして綾人が立ち上がったのだろう。
資料の棚の方へ向かっていくような足音に、特に気にもせず仕事を続ける。
ペン先を滑らせて、朱肉と書面を視線で行ったりきたりしているうち、なぜだか手元が止まった。
(ん・・・?)
辺りの空気に気配が伝わるような感じが、一瞬だけした。
そして。
「えっ」
豊は全身を硬直させた。
背後から、椅子ごと、伸びてきた両腕が彼の体を抱きしめていた。
「なっ、なっ、な」
訳がわからず、意味不明な呟きを繰り返す豊の耳元で綾人の声が囁く。
「豊」
途端、ゾクリと背筋に電流が走る。
じわじわと速度を上げつつある鼓動が、体中を震わせるようだった。
胸の辺りで結ばれた手を呆然と見下ろしたまま豊は身動きが取れずにいた。
「豊」
もう一度聞こえた声が下に移動する。
制服の隙間から僅かに覗く頚動脈付近に、柔らかな何かが押し付けられる。
音を立てて数回吸い付かれて、ようやくそれがキスなのだと気付いた。
(っつ?!)
バクン、と心臓が跳ね飛んだような気がした。
豊は呪縛を解かれたように、慌てて身をよじって拘束から逃れようとした。
「そ、総代!」
暴れるほどに、綾人の両腕はがっちりと豊を押さえ込む。
「総代、やめてください、どうして」
「俺の名は綾人だ」
押し殺した声にまた全身が震える。
一瞬萎えた隙をつくようにこめかみに口付けされて、豊は焦って振り返った。
「そうだ・・・んっ」
その途端、唇を奪われた。
一瞬なにをされているのかよくわからなくて、呆然と固まっているうちにだんだんと気付く。
驚いて、逃げようとする頬に手が添えられて捉まった。
「んんっ」
引き剥がそうとした豊の手を、綾人のもう片方の手が絡め取る。
その腕で片方の腕ごと押さえられているので、これ以上成す術がない。
どうにもならなくて、ギュッと目を閉じると、綾人のキスは感触を楽しむように深くなった。
合わさった部分から、下唇を吸われて、互いの唇を絡ませる合間に水音が混じる。
息苦しさに豊の目に涙が浮かびかけた頃、綾人はようやく解放してくれた。
肩で荒い呼吸を繰り返す豊を、抱きしめたままじっと見詰めている。
「総代?」
顔を上げた豊の頬を指先でなぞって、綾人は苦笑を洩らした。
「俺の名は綾人だと、そう言っているだろうが、強情な奴だ」
目元の涙を指先で拭われて、途端に豊の顔が真っ赤に染まる。
「あ、や、やめてください、放して・・・」
慌てて突き放そうとして、また腕の力が強くなったので豊は体を硬くした。
「安心しろ・・・キスはしないよ」
クスリと笑われて、なんだか泣きたいような気分だった。
どうしてこんな事をされたのか。ただ執行部の仕事をしていただけだったのに。
「俺・・・」
「うん?」
豊は、掠れた小さな声で呟いていた。
「俺・・・なんか、しましたか」
僅かに俯いて、それでもまだ綾人が自分を見つめている視線だけ感じる。
「何か・・・いけないこと、しましたか・・・」
喋る口調も、声も、体も震えている。
こんな情けない自分は恥ずかしくて嫌だったが、豊にはどうすることも出来なかった。
少し間を置いて、僅かに溜息が聞こえて、両腕の拘束が外されたので思わず顔を上げると、綾人は困ったように笑っていた。
散らばった前髪を所在なさげにかきあげる。
「そういうことではないのだが・・・」
そして、また溜息を落とした。
「すまんな、豊」
普段の彼からは想像もつかないような情けない声であったが、豊はそれに気づく余裕すらなかった。
九条がくるりと背を向ける。
「・・・今日は終わりにしよう、帰っていいぞ」
「え・・・」
豊は思わず卓上に目を向けていた。
あんな事をされて、メタメタで酷い気分ではあったが、やりかけの仕事を放ったまま帰るのはどうにも心苦しい。けれどこの後で何事もなかったように作業を続けられるとも思えなかった。
それに、これ以上綾人と同じ部屋にいて、また何かされたら・・・
(怖い)
ゾクリと体が震える。それは、さっき感じたものに僅かに似ているようだった。
豊は無言で席を立ち、置いてあった自分の鞄を取ってくる。
そのまま足取りも重く、トボトボと部室の出入り口に向かった。
引き戸を開けて出て行く途中、聞こえないような小さな声でポツリと呟いた。
「・・・さようなら」
綾人は応えなかった。
そのことになぜだか痛くなる胸を持て余したまま、豊はそこを後にした。
執行部室にただ一人きり。
残された総代の胸中を知るものは、今はまだ、ない
(了)