「暑中お見舞い申し上げます」
夕刻過ぎると蝉の声も大分落ち着いてくる。
下駄の底をカラコロと鳴らしながら、豊はくるりと振り返った。
二人は浴衣を着ている。豊は濃紺の有栖川鹿紋、薙は白地に矢絣柄。
辺りの空気はそれでもまだ蒸し暑くて、豊は烏の模様のうちわをはたはたと動かしている。
豊は和装の着付けを心得ていた。
薙はもちろんそんな知識など持ち合わせていなくて、だから内心ひどく驚いたのだった。
場所柄のせいだと彼は笑っていたけれど、そんなものなのだろうか。
並んで歩く道はすでに薄暗い。
どこか遠くのほうから笛や太鼓の音が聞こえる。
「なあ、なんか聞こえる、祭囃子だよな」
薙は微かに微笑んでいた。
もっとも、ぱっと見は誰にもわからない。豊にだけ判る。彼の、希薄な表情。
「夏の夜だなあ」
誰ともなく一人ごちた、その声を風がさらう。
夏祭りである。
「飛河、飛河!こっちこっち!」
先に走り出して大きく手を振る姿に、薙は少しだけ眉をひそめる。
子供じゃないんだし、祭りごときでどうしてそんなにはしゃげるんだ。
もっとも高校生はまだ社会的責任を背負わされていないから、そういう意味では子供なのかもしれない。
立派になったのは体だけで、心は幼くまだ未熟だ。
現に、こうして任務以外で外出、しかも、こんなものまで着用して、自分でもどうかしていると思う。
浴衣も下駄も、豊が見立ててくれたものだった。
飛河にはこれかな、いや、こっちかなと、悩む姿を見ているとなんだか胸の奥がほっこりと暖かくなるような、そんな不可思議な気分がして、言われるままについ着込んでしまった。
無論、薙はこれをなんと呼ぶのか、まだ知らない。
「飛河!」
大声で呼ばれて、薙は聞こえているからと目で制する。
豊は照れたようにエヘヘと笑った。
傍によると、どうやら金魚すくいのようだった。色とりどりの小魚が仮作りの水槽の中にひしめいている。
親父は五百円といった。それは少し相場が高いような気もしたが、豊は千円で払って釣と網を別々に受け取った。
「秘儀、葵流!飛河もよく見とけよ」
金魚すくいに流派などあるのだろうか。
楽しげな横顔を眺めながら、薙はぼんやりと思う。
豊は腕を斜めに構えて、いざ、と短い掛け声を洩らす。
「たあ!あ、ああ・・・」
差し込んだ網の上に一瞬だけ乗った魚は、するりと水底に逃げていった
「おのれ、よおし!」
真剣な眼差しがしばらく水面を見詰めて、再び差し込まれた網からやはり魚は逃げていく。
「ああもう、なんでだよ!」
豊はやけになって何度か突っ込み、結果、脆い和紙の網はあっさりと破れてしまった。
収穫ゼロ。
心底ガッカリしている背中に、少しだけ同情めいた視線を投げる。
薙は、無言で親父に五百円玉を差し出して、受け取った網を片手に隣にしゃがみこんだ。
「飛河?」
豊が振り返る。
薙は、全神経を集中させて水面を睨んだ。そして・・・
「す、凄い」
最後に網が破れた瞬間、豊は溜息をつきながら小さく洩らしていた。
獲った魚を入れる器の中には、金魚、出目金、あわせて八匹もひしめき合っている。
まだまだ取れそうだったのに、底が抜けたのは最後に緑亀を狙ったからだ。
親父が兄さん凄いねえと感心しながらビニール袋に獲った魚を移し変えてくれた。
豊もしきりに凄い、凄いと、瞳を輝かせて賞賛するので、薙はまた少し変な気分だった。
受け取った袋を、そのまま豊の手に押し付ける。
「え、何?」
「受け取れ、そのために獲った」
ビニールの紐を指に引っ掛けてやると、豊は真っ赤になって薙を凝視していた。
「お、俺、べつによかったのに」
「そうなのか?欲しかったんだろう?」
「そ、それは、その」
もごもごと口ごもり、最後のありがとうだけ何とか聞き取れる。
薙は、何か言おうかと思ったけれど、何も思いつかなかったので、結局黙って豊を見ていた。
「あ、あれは何かな、行ってみよう飛河」
やたら大声で、急に手を取り豊は走り出す。
「秋津君、僕らの履物は走行向きじゃない」
「そんなの平気だよ、うまく走れば転ばないんだから!」
なんという理屈だろう。薙は少し呆れて、少しだけ笑った。
着いた先はたこ焼きの屋台だった。
祭り屋台の定番で、さすがに薙も覚えている。何かな、などと取り立てて騒ぐような場所でもない。
気安そうな二十代後半ほどの鉢巻の店主に、豊は一つくださいと言った。
程なくして渡されたたこ焼きは湯気を立てて発泡スチロールの小皿に乗っていた。
豊は、添えてあった竹串で一つ刺して食べ、もう一つ刺して薙にはいと差し出す。
薙は無感動にそれを見詰め、半分ほどかじりついた。
中が予想以上に熱くて、驚いて口元を押さえると豊が慌てて覗き込んできた。
「大丈夫?ごめん、冷ましてから食べさせたらよかったかな」
もし本気で言っているのだとしたら、彼の精神状態を疑いたい。
薙は何とかそれを飲み込んで、そんなことまっぴらごめんだと豊を睨んだ。
「次は皿ごと寄こしてくれ、そのほうが食べやすい」
「ごめん」
「謝らなくていい、善意の行為だったのだろう?ならばそれ自体はなんら君の気にすべきことでは無い」
豊はしばらく申し訳なさそうにして、そして少しだけ笑った。
「飛河っていつも小難しいね、もっと俺みたいにするといいよ」
「君のようでは、無駄が多すぎる」
「無駄だと思うから無駄なんだよ、俺は無駄なんかないよ」
能天気な言葉だった。いかにも彼らしい。
今度はあっちだ、次はこっちだと振り回されても、薙は無言で後ろを付いて歩いた。
人工の灯りに照らされて、豊は一層輝いて見える。
色素の薄い髪も、瞳も、肌も、何もかもがまばゆい。
誰かにこんなにも心を揺り動かされたことなど無い。暗闇の中、光を求めてふわふわ飛ぶ蝶を、償に抱きしめたくなった。
伸ばした掌で肩を掴むと、振り返った豊がきょとんとして、笑う。
「ごめん、俺ばっかり、疲れた?」
「いや、そんなことはない」
薙はそろそろと指を外した。
考えてみればここは屋台の並びの中央で、そんな真似をすればどうやっても目立ちすぎてしまう。
必要以上に人々の好奇の目に晒されるのはどうあっても嫌だった。
どうしてこんなに人が多いのだろう。今更だがそれが少しだけ恨めしい。
豊は、しばらく瞬きを繰り返していたが、急にニッコリと笑って薙を呼んだ。
「かき氷、買いに行こう」
くるりと振り返った先にある氷屋を指差して、首だけこちらに向ける。
「な?」
薙が異論を唱えるはずもなく、二人は連れ立ってかき氷を買った。
色が気に入ったので頼むと、それはブルーハワイという種類のソースであるらしい。
豊はイチゴだった。
一口貰ってもイチゴの味がしないので、それがなんとも妙だと思った。
薙も透明なプラスティックのスプーンで豊の口にブルーハワイのかかった氷を運んでやる。
食べた後で、おいしいと笑っていた。
その姿がまた目を引く。
今夜の彼は、なんだか普段と違う気がする。着ている物のせいだろうか?
「飛河」
「ん?」
「楽しいか?」
薙は隣を見た。
豊が微笑んでいる。
夜目に映える姿はいつもより随分と綺麗だ。
だから、薙は少しだけ微笑んで、首を微かに上下させた。
「君と一緒だからね」
豊が笑う。
顔が真っ赤だ。
自分の頬も、多分照り返しで赤く染まっているんだろう。
祭囃子に少し浮かれる足で、また豊が手を引く。
「行こ」
人ごみにまぎれて、これくらいならば目立つこともないだろうと密かに思った。
半分欠けた月だけがそれを見ていた。
(了)