Endless waltz 1

 

靴の底が草を踏むカサカサという音を、飛河薙は何の感慨も無く聞いている。

外と違って、ここは平静だ。

都会の排気ガスを吸いなれた胸に、どこか染みるような風が吹いて空を見上げる。

薄い雲が連なるように流れていた。空気が僅かに肌寒い。

季節は冬だ。

月読学園からこちらへ移り住んで以来、時折こうして人気の少ない場所を求めて足を運んだ。

ここは、人が多すぎると思う。

もっとも彼が元いた六本木界隈と比べれば明らかに人口密度は低いのだが、そういう意味ではない。

学園も、街も、他の人間に気を取られるような奴はほとんど見かけなかった。

それがどうだ、ここでは必要以上に干渉してくる人間ばかりで、時折息が詰まりそうになる。

任務やそのほかの事を考えれば、現状としては自室にて待機が一番賢明な判断とわかってはいたが、それでもそうしていると誰かしらの笑い声が聞こえ、せわしない辺りの気配にどうにも落ち着かず、つい屋外に居場所を求めた。

静かな場所へ。

もっと、人気のない場所へ。

研ぎ澄まされた刃の表面に、波紋を起こす何者もない場所へ。

(訓練を受けた身で、そのような瑣末な事柄に影響を受けるような僕ではないが・・・)

思って、自嘲的な笑みがふと漏れた。

藍碧台と呼ばれる高台は、予測通り道すがら、この場所にも誰も見かけることはなかった。

なだらかに連なる坂の中ほどまで上ってきた所で、思わず足を止める。

「・・・うん?」

目前に迫っていた頂上辺りに突然人の姿を見つけていた。

今まで見えなかったのは、その人物が寝転がっていたせいだろう。

気配からすると眠っているようだった。

ここまで接近するまで気づかなかった自分の未熟さを僅かに恥じる。

(先客がいるなら、仕方ない)

踵を返そうとして、ふと立ち止まっていた。

もう一度振り返って、よく姿を確認して、自分でもよくわからない気分のままフラフラと足が勝手に進む。

すぐ側まで来て見下ろせば、それはやはり彼、秋津豊であった。

現状において天照館執行部に多大なる影響力を持つ少年が、こんな所で無防備に眠りこけている。

しかも、寒空の下、制服のままで。

薙は無意識のうちに嘆息していた。

(愚かな・・・)

現状を把握した上での行為ならあまりにも愚鈍すぎる。

ここは、以前のように八百万の神を祭る鉄壁の要塞場では無い。警戒を解く隙などないはずだ。

薙は無言のまま豊の寝顔を見詰めていた。

伏せられた長いまつげをかすめるように、柔らかそうな色味と質感の髪が時折吹く風に揺れている。

四肢を投げ出し、淡い色の唇から漏れる吐息は安らかだった。

胸の奥で何かが疼くようだった。

膝が、自然に折れて、彼の脇に跪くような姿勢になる。

万有引力は子供でも知っている当たり前の知識だが、それとは違う何か・・・妙な力が薙を誘っていた。

それは心の隙をつくように入り込んで、無意識のうちに彼を激しく突き動かす。

気付けばフラフラと片手を髪のそばについていた。

手の甲をくすぐる焦茶の髪は想像通り柔らかい。

もう片方の腕を折った膝に置いて、そのままの姿勢で見詰める胸の奥がざわめき、熱い。

風が吹いた。

彼の髪と制服の裾が僅かにまくられる。

その、穏やかな西風にあおられるように。

ゆるゆると背中を曲げて。

豊の吐息をかすかに感じる。

 

・・・唇が、触れた。

 

互いの熱がかすかに表面に伝わると、心が震えて、目眩がする。

どのくらい触れていたのか、多分一瞬。けれど、薙には気の遠くなるほどの時間が流れたように感じた。

伏せていた顔をそっと上げると、豊が僅かに声を洩らす。

「う・・・んん・・・」

ゆっくりと上体を起こした薙は、またじっと目の前の寝顔を見詰めていた。

僕は、今、何をした?

自分でもよくわからない。現状を把握しているつもりで、乱れた思考を元に戻せずにいる。

秋津豊の引力に導かれるようにして、気付けば根拠のない動作をしていた。

いや、それは本当に彼の引力だったのか?

(僕は、一体・・・)

すると不意に、豊の長いまつげがすっと持ち上がった。

眩しそうに目を細くして、何度も瞬いて、そうしてやっとちゃんと開いた瞳がようやく薙を見る。

「・・・えっ」

見る間に豊が驚いたような表情に変わる。

どちらかといえば大きい方の瞳を更に見開いて、すぐの薙の顔をじっと凝視する。

吸い込まれそうな色だ、と思っていた。

深く、広く、穏やかな瞳。忘れていた何かを呼び起こすような輝き。その内に秘める引力。

一瞬のような永遠のような間、暫し見詰め合って、薙はふと立ち上がった。

豊は横たわったままで彼の様子をじっと伺っている。

結びあう視線を無理やり引き剥がすように、今度こそ踵を返して薙は藍碧台から去っていった。

豊は半身を起こし、遠くなっていく後姿を無言で見詰めている。

 

そうして見えなくなった頃、豊の指先が唇に触れていた。

夢で見た、けれど、目が覚めてわかった。あれは正夢。

「飛河・・・なんで・・・」

ポツリと呟いた声は、西風に吸い込まれて消えていった。

 

(了)