「Endless waltz 15」
テーブルについて、薙は、慌しく走り回る背中を見ている。
目の前にはエプロン姿の豊。
ここは天照館高校、調理実習室。
時刻は夕方で、大半の生徒は校舎の外に出ている。部活動か、寮に帰宅か、大方そんなところだろう。
「ごめん、ちょっと待ってて」
時々苦笑混じりに誤りながら、調理器具やら材料やらにまみれて粉だらけになって、一体何をしているのだろうとつぶさに様子を伺っていた。
調理をしているには違いない。
甘い香りが辺り一面に漂っているから、作成中の食品は多分菓子類だろう。
食事には殆ど興味もなく、ただ一日の活動分に見合う程度のエネルギーを摂取する目的しかないから、こういった光景は非常に目新しくて、口には出さないものの、薙も、大分興味深く分析を続けていた。
あの粉はなんだろう、ベーキングパウダーの一種か、小麦粉か。
あの塊は何だ、チョコレート?産地はどこだろうか。
あの器具は一体何に利用するのだろうか。
何故、物も入れていないのにオーブンに火を入れておくのか。
溶かしたバターをどう利用するのか、卵は、どうして黄身と白身を分けて使うのか。
―――知らない事が、目の前でめまぐるしく展開している。
別に興味のある分野でもないし、自分が生きていくうえで必要になる日が来るとも思えない。
けれど、中心にいる豊が、真剣な顔をしてなにやら励んでいるから。
(結局の所、僕はそれなんだろうな)
そんな風に思って、気づかれないように少しだけ笑う。
豊が夢中になっているから、興味がわいているのだ。
製作物や行程内容なんかはどうでもいい、ただ、制服の上から淡いピンクのエプロンを着用した豊が、拙い手元で懸命に作業を続けているから。
彼はそれほど器用というわけでも、不器用というわけでもなく、ただ慣れていないから手間取っているのだろう。
こういう趣味があるような話しは聞いた事がない。
流しで洗い物も済ませて、その間にポットが湯気を出して、茶葉だ、カップだとバタバタしている間に、チンと音がしてオーブンがコックを呼んだ。
豊は駆け寄って、恐る恐る中を確認して、ニッコリと嬉しそうな笑みを浮かべている。
「よーし」
ミトンを嵌めた手で取り出して、型から皿に取り出すと、それはこげ茶色の塊だった。
濃厚なチョコレートの匂いがフワンと香り立つ。
その上に、ふるいから白い粉を振り掛けて、綺麗に六等分して、薙の前まで持ってきた。
「今、紅茶を入れるね、あ、コーヒーのほうがよかったかな」
「紅茶で構わない」
豊はコーヒーが飲めない。
言いながら、考えても無かった事自体に気付いたようだった。薙はそっけなく答えた。
「それはともかく、これは何だ」
「え?」
暖めたカップにゆっくり琥珀色の液体を注ぎながら、ヘイゼルの瞳がちらりと薙を窺う。
「ガトーショコラだよ」
「ガトーショコラ?」
うん、そうと答えて、カップを二つ、テーブルまで運んできた。
卓をはさんで向かい側に座ろうとした豊を、薙は呼び止めた。
「隣に座れ、椅子は空いている」
「え、でも、狭いよ?」
「テーブルの幅は約一メートル以上ある、二人でついてもなんら問題は無い、こちらへ来い」
「―――ハイ」
僅かに頬を染めながら、オドオドと傍まで来て、それじゃあ失礼しますと腰を下ろした。
二つ並んだカップのうちの片方を薙に勧めてくる。
受け取ると、ダージリンの香りが鼻腔をかすめた。
「ええっと、実は、今日は苦手を克服しようと思って」
豊はなにやら言い訳がましく話し始めた。
「俺、甘いものは結構好きなんだけど、ガトーショコラはちょっと苦手なんだ、こう、ケーキなのにチョコレートたっぷりで、しっとりしすぎてて、歯にくっつくっていうか、ちょっと味がくどくて、食べ過ぎるともたれる感じがして」
「それと、僕を呼び出すことと、関連性は何だ?」
理由も聞かされず、薙はここへ来て欲しいと隣にいる主催者からこっそり頼まれたのだった。
他に誰も呼ぶつもりは無いのだなということはその地点でわかっていた。
けれど、呼び出しの意図は明確に説明されたわけじゃない。
言われたとおり調理室を訪れたら、すでに作業途中の豊がいて、そこに座っていてと頼まれて、そして今に至っている。目の前には焼きたてのガトーショコラと紅茶、多分食べるのだろう。
「君が苦手を克服することと、僕と、一体どう関係している」
「い、一緒に食べてもらおうと思って」
「僕とか?」
「薙は好き嫌いとか無いんだろう?」
まあ、一応。
薙は答える。
重要なのは食事という行為と、その際摂取されるエネルギーの内容であって、食べる事自体に何の意義も楽しみも持ち合わせてはいない。必要だから、食べるだけだ。好き嫌いといった概念は意味が無い。
「だからさ、えっと、見てもらえばわかるように、ガトーショコラってちゃんと作ると結構たくさんできちゃうんだよ」
「少量での調理は不可能なのか?」
「ケーキだからね」
「既製品を購入という手段は思い浮かばなかったのか」
ウッと豊は言葉に詰まっている。
「そ、それはあの、や、やっぱりちゃんと作りたかったから」
「好き嫌いの克服にしては、念の入った事だな、材料を確認しながらでなければ不安だったというわけか」
何だか曖昧な返事を返して、とりあえず食べてよとケーキを皿に取り分ける。
薙の前に差し出して、フォークを添えて、どうぞと微笑みかけられた。
この笑顔を前にすると、何だか非常に栄養価の高い食べ物を出されたような気がしてしまう。何故だろうか。
フォークで適当な大きさに切り分けて、口に運び、食べた。
何度か咀嚼して飲み込む。
一連の動作の終了を確認して、豊が顔を覗き込んできた。
「どうかな?」
「甘い」
率直な感想を薙は述べる。
「脂質と糖分が高いな、粘りの強い食べ物だ、飲み込むまでに時間がかかる、構成されると思われる栄養素も多分に偏っているのだろう、舌触りは悪くないが、こう甘味が強くては多量摂取した場合肥満の恐れがある」
「―――えーっと」
豊はちょっと困った顔をしていた。
紅茶を一口飲んだ所で、それで、と再び覗き込まれた。
「美味しいか、どうかは、どうかな」
「どう、とは?」
「うまくできているかどうか知りたいんだけど」
「君が実際に食べてみればいい、僕は明確な判断基準を持たない」
「あの、ううん、そうじゃなくて、薙が美味しいと思ったかどうかが知りたいんだけど」
「それならそうと聞きたまえ」
ハイ、すいませんと俄かに俯き加減の豊を、薙は見詰めていた。
「僕個人の意見を言わせてもらえば、これは比較的好物の分類に含まれる」
途端、高揚した表情が目を丸くしてピョコンと起き上がった。
「僕は食事に関してあまり興味を持ってはいないが、美味しいといって差し障り無いだろう、君の調理の技術も、なかなかのものだと思う」
「ほ、本当?」
「分析の結果だ、嘘も本当もない」
「薙はケーキが好きなのか?」
「いや、僕はケーキは好きでない」
ひとつ間を置いて、顔を真っ赤に染めた豊は、慌てて自分の皿と向き合うと、フォークで区切ってガトーショコラを口に運んだ。
もぐもぐと咀嚼して、紅茶で押し流すようにして飲み込む。
その後ちょっと俯いて、それからそろそろと薙を振り返って、赤い顔のまま、エヘヘとはにかんだ笑みを浮かべていた。
「うん、美味しい」
「君はなかなかに素養があるようだぞ、豊」
「そうかな?」
「紅茶もいい味だ、また、こんな機会があれば、呼んで欲しい」
豊はうんと頷くと、また慌てて次を口の中に押し込んでいた。
様子のおかしい彼に少しだけ首をかしげながら、薙もガトーショコラを口元に運ぶ。
噛むと、なんともいえない甘さが舌の上に広がっていった。
どこか浮かれた気分になるのは、この味のせいなのか、それとも、隣に豊がいるせいなのだろうか。
濃厚なチョコレートの香りも、紅茶の香りも、今はなんとも好ましい。
心地よいひと時に包まれながら、豊の好き嫌いはどうやら改善されたようだった。
(了)