「Endless waltz 2」
人の気配に振り返ると、茂みの向こうから現れた姿がある。
「飛河、見つけた」
呼ばれて豊に微笑まれても、薙は無表情のままだった。
また振り返って昇竜の滝を眺める彼の隣に、同じように立って滝を眺める。
特に会話もないまま数十分ほど過ぎて、ふと薙が隣を見た。
「おい」
「うん?」
豊は振り返ることなく滝を見ている。
「お前、楽しいのか?」
「そこそこ」
曖昧な、よくわからない答だと内心首をひねって、薙はまた滝を見た。
「そうか」
それならばそうなのだろうと、再び会話が途切れてしまう。
「飛河は、滝見てて楽しいんじゃないのか」
「別に」
楽しいとかそうでないとか、そういう基準で考えた事はもう随分とない。
やるか、やらないか。あるかないか。常に二者択一だった。
最優先させるべきは上から命じられるミッションだけで、他はついでのようなものだ。
生活も、俺個人も、生きている事すらも。
今だってたまたまここに来て、目の前に滝があって、優先させるべき事柄が現状において何もないので眺めていただけ、他意はない。
ゴウゴウと流れる水を眺めていると、様々な感情がうごめくような気がする。
けれどそれは薄皮一枚、氷の下で泳ぐ魚のように、正体のつかめないものだった。
豊が不意に薙のほうを向いた。
「飛河は趣味とかないのか?」
「そんな無駄はしない」
無駄、と口の中で呟いて、豊は不本意そうに顔をゆがめる。
「趣味は無駄じゃないよ」
「無駄だ」
薙も豊を見た。
「余計な事に使う時間は、無駄だ」
「余計じゃなければ無駄じゃないだろ」
「言い方が悪かったな、僕にとっては無駄だといったんだ」
豊は納得入っていないようだった。
「趣味くらいないと、老後に困るぞ」
「そんなに長く生きる予定は無い」
「なっ」
目の前の彼の顔にサッと朱が差すので、薙は不思議な気持ちでそれを見ていた。
怒ったように眉を吊り上げて、豊がいきなり薙の胸の辺りを掴む。
「そんなこと言うな、先のことなんて、わからないじゃないか!」
「君にもわからないだろう」
ぐっと言葉に詰まって、豊はゆるゆると手を放した。
急にションボリと俯いて、それからごく小さな声でごめんと呟いている。
その一連の動作が不思議で仕方ない。
彼の言う事は矛盾だらけだ。個別の固体である以上、認識は完全に統一される事などない。
妥協という名の不可侵条約で、互いの領地を区分するのはうまいやり方だろう。
競わず、馴れ合わず、俺は俺、君は君で歩いていく。
なのに今こうして目の前にいる彼は、もっと他の事を望んでいるように思えた。
いや、そんな風に考える僕の方がどうかしているのかもしれない。
なぜなら彼は何も言ってはいないというのに。
「秋津君」
何気なしに口を突いて出た名前に、呼ばれた彼が顔を上げる。
どこか落ち込んだような表情なのに、その眼が深い色で輝いているように見えた。
「君は、目が綺麗だな」
自分で言って少しだけ驚いていると、豊はもっと驚いたようだった。
瞳を見開いて、呆然として、それからカーッと赤くなっている。
めまぐるしく変わっていく様子をつぶさに観察しつつ、それはなぜだか胸に妙な高揚感をもたらすのだった。
「あ、ありが、と」
かすかに聞こえた声に、薙は答える。
「思ったままを言っただけだ、礼はいい」
「・・・ほめてくれたんだから、お礼くらい言うよ」
「そうじゃないと言っている」
本心の言葉だった。それでもなぜか豊は喜んだようだった。
それでますます混乱がひどくなる。
よく考えてみれば色々な事が変だった。僕はどうして、こんな所で、彼と二人きりで長いこと滝を見ていたんだ。一人きりだったらとっくに立ち去っていただろうに。彼が来た途端離れ辛くなった。
それは、なぜ?
「飛河も結構綺麗だと思うよ」
いきなり振られて、何の話かわからなかった。
気付いた豊がクスリと笑う。
「眼」
自分の目を指差して、ニッコリと微笑んだ。
その途端、胸の奥深く、氷の下で何かが大きく脈打った。
長く忘れていた、もしかしたら知らなかったのかもしれない、熱い響き。
混乱して凝視する薙の視線を正面から受け止めて、ニコニコしていた豊がふと不思議そうに首をかしげる。
「飛河?」
薙は、無言で顔を背けた。
「どうかした?」
そのまま背を向けて、黙々と歩き出す。
「おい、どうしたんだよ、飛河?」
後ろから聞こえる豊の声にくじけそうだった。
今すぐこの場を離れなくては、僕は、重大な決断を下してしまう。
それは僕の運命、果ては生涯にまできっと関わるだろう。
今そんなことを、混乱したまま決めてしまうのはよくない。
ここを去りたくないとごねる両足を強引に動かして、まだ見詰めているだろう豊の視線から逃げるように離れていった。
木陰を何度も曲がり、草むらを抜けて天照郷近くまで歩きつめて、ようやく足を止めた途端、唇が彼の意思とは裏腹に、名残惜しいその名を小さく呼んだ。
「豊・・・」
途端、沸き起こる感情につける名前を薙はまだ持っていない。
胸のうちにそれがあることすら知らずにいた。
それは、遅い春のように、そしておぼろげな月の光のように、内側から照らす温かな輝き。
芽吹くにはまだ早くて、それでも確かに生まれたそれを消す事なんて多分出来ない。
景色に春は、まだ来ない。
(了)