「Endless waltz 3」
天照郷が一望できる藍碧台は、かつて部外者立ち入り禁止であったという。
その理由がいわずとも知れるくらい、ここは見晴らしがいい。
うっそうと茂る山と森に囲まれた、秘境、天照郷。
近すぎる空の青と、濃すぎる酸素に時々目眩を覚える。
それでも薙はよくこの場所に来ていた。
特別気に入っているとか、ましてや郷の内情を探ってやろうというつもりは微塵も無い。
いつだって目的はただ一つだけ。
背の低い草の間を駆け抜ける風の、青臭い匂いを胸に吸い込みながら進む足はなぜか弾むようだった。
目を凝らして、よく様子を確認して、薙は気配を消してその後姿に近づいた。
なんせ、天照館高校の制服をどいつもこいつも着用しているわけだし(まあそれは当然のことなのだけど)背格好だって突出して目立った相違点があるわけじゃないから十二分に注意を払わなくてはならない。
他の誰かと奴と口をきくつもりなんか無い。
今は、ここで見つけるあの背中だけが目当てだった。
他の誰でもない、彼の姿だけ。
その理由も不明のまま。
真後ろに立つ頃、同じくらいの背丈の彼が首だけちょっとこちらを振り返って微かに笑った。
「バレてるよ」
「当然だ」
フン、と鼻で笑う薙に、豊は声に出してハハハと笑っていた。
藍碧台は、秋津豊のお気に入りの場所のようである。
よくここで昼寝したり、物思いに耽ったりする姿を見つけていたから、何となく気付いた。
薙は、よくここに足を運ぶようになっていた。
「こんな真後ろに立たれるまで気付かないようじゃ、命がいくつあっても足りない」
「確かに」
また笑う姿を、瞳を細めて見つめている。
豊は穏やかで、どちらかといえば自己主張をしないタイプの人間であるけれど、薙は彼の笑顔をよく見た。
他の仲間たちの様子を伺う限りではそんな様子は伺えないのに、自分と一緒にいるときだけ、本当に豊はよく笑う。
それがなぜだか、胸の奥にさざ波のような感情を呼び起こす。
まるでさわさわと揺れる草原のように、細やかに震える水面のように、明鏡止水の彼の心を震わせるのだった。
「秋津」
吹いてきた風に攫われた前髪が瞳の中に入って、薙はそれを手で除けてやっていた。
驚いたように目を丸くした豊は、次には柔らかな笑顔を浮かべてありがとうと囁くようにこたえていた。
薙は、少し視線を外して草の上に腰を下ろす。
豊も隣に腰掛けた。
そして二人で、言葉をかわすことも無く郷の景色を眺めていた。
時折吹く風がイタズラに彼らの髪や制服の裾を揺らして抜けていく。
僅かに触れ合っている腕や、微かに聞こえる息遣いが隣に確かに彼がいるのだと伝えてくれた。
藍緑台は静かだ。
時折飛んでいく鳥の声や、草の揺れる音が微かに聞こえる。
空は蒼い。
どこまでもどこまでも広くて、胸が詰まりそうなほど果てしなく深い。
こつん、と肩に何かあたる気配がして、見ればそれは豊の頭だった。
「秋津?」
薙が覗き込んでみると、閉じたまつげが想像以上に長いなと思う。
うっかり見詰めてしまって、寝ているのだと気付くのに少し時間がかかってしまった。
なんだか・・・興奮しているようだ。
(バカらしい)
くったりともたれかかる姿を困惑気に眺めて、薙はそっと肩を抱き寄せていた。
ただ寒くてはいけないとか、バランスを崩して起きてしまっては嫌だろうとか、その程度の心配であって他意はないのだと、誰でもなく自分自身に言い訳しながら。
それでもその、少しだけ、妙に弾むような心境で。
横を向いた薙は、鼻先をくすぐる豊かの茶色の髪をしばらく眺めて、そっとキスをした。
これは親愛のキス。
欧米人のする挨拶のキス、親が子供にするキス。
僕は、それ以上を求めているわけじゃない。
求めたって与えられるものは僅かだ、この世界は色々なものを奪っては行くけれど、見返りを要求しても叶ったことなんてほとんど無い。
だから、このキスは、生ぬるい感情のせいなんかじゃきっとない。
背中を預ける友人として、愛情を示しただけ。
君個人をどう、とか、そんなことではなくて。
「豊」
もう一度名前を呼ぶと、体中が震えてしまいそうだった。
頬や首筋にあたる豊の髪は柔らかくて、優しくて、あやすように薙をくすぐる。
それでたまらなくて、もう一度キスをして、そこにもたれるようにして薙も目を閉じる。
ああ、この甘さも、ぬるさも、全て一過性のものだなんて。
いずれ、離れる日が来る。
深く息を吸い込むと内側から何かが溶けて流れ出していきそうで、それが怖くて、豊の手に自分の手を重ねてぎゅっと握りしめた。
この温もりをどうか忘れずにいられるように。
君の側に、いつでもいられますように。
「飛河」
小さく呼ばれたので、驚いて顔を上げると上目遣いの豊と眼が合った。
「起きていたのか」
「今起きた」
「そう」
見詰めていると薄茶の瞳のその奥に吸い込まれそうだと思った。
フッと視線をそらした豊が、胸元に擦り寄ってきたので自然に受け止めていた。
「ちょっと、寒いかも」
「戻るか?」
「ううん、もう少し」
このままで、と囁く声は薙の制服にまぎれてくぐもっている。
薙は豊を抱きしめたまま、そっと目を閉じていた。
「眠るなら、好きにするといい、僕が抱いているから、寒くないだろう?」
「うん」
体は近いのに、心だけ遠い、そんな感じだと豊は思っていた。
早く薙に気付いて欲しい、それが何かはうまく言葉で表現できないけれど。
「飛河」
「ん」
「あったかい、アリガト」
少し体制を変えて、薙が支えやすいように気をつけて、豊は目を閉じた。
薙はその髪に頬を寄せる。
藍緑台を渡る風だけが、二人を見ていた。
(了)