それなりに覚悟をしていたつもりだったけれど、まさかここまで酷いとは思わなかった。

容赦なく叩きつけられる現実。

父親の、刃物のような言葉。

哀れな母親のすすり泣く声。

そのどちらにも、肉親の情愛などというものは微塵も込められていない。

ただ、ひたすらにぶつけられる、失望、不満、怒り、蔑み。

(結局、あんたたちにとって、俺の価値は体面を保つための道具程度でしかないわけか)

皆守は内心冷ややかに笑んでいた。

彼等だけは、何一つ変わっていない。

むしろ、放逐して安穏と暮らしていたところに、厄介者が戻ってきたせいで、不協和音を奏で始めている。

あまりに悲惨な現実に、かつては逃げ出す事ばかり考えていたけれど―――

皆守は、両手を畳についた。

(今度ばかりは、逃げられないよなぁ?)

座卓の向かい側に座る父親に、井草の表面に額をこすりつけるようにして、頭を下げる。

「お願いします、父さん」

「フン、今更泣き言か、愚か者に相応しい、惨めな姿だな」

あなた、と母親は声を上げるけれど、決して助けてはくれない。

彼女はずっとそうだった、腹を痛めて産んだ子よりも、体面を気にする女性だ。

(まあ、そうでなけりゃ、この親父と結婚なんてしてないな)

全く似合いの夫婦だぜと、腹の中で嘲笑してやる。

更にこみ上げてくる感情を、奥歯を噛み締めて押し殺し、皆守はひたすらに頭を下げ続けた。

「お願いします」

(ここが俺の、最初の正念場だ)

あいつなら、と、思い描く。

去年の末にいなくなってしまった、俺のこの手を捕まえて、闇の底から引きずり出してくれた。

両腕を広げて、居場所はここだと強く抱きしめてくれた。

あいつが―――もしも、俺と同じ状況だったら。

(そうだな)

彼なら言うだろう。

『望みのためなら、俺のつまらないプライドなんて、幾らだって捨ててやる』と。

そういう男だ、どれほど悲惨で、屈辱的かつ、耐え難い状況であったとしても、あえて受け入れて、自身の願望を叶えるために利用する。

(なら、俺だって捨ててやろうじゃないか)

お前にできて、俺にできないことなんて、何一つ無いはずだ。

父親の視線が、母親の視線が、俯いていても痛いほど背中に突き刺さってくる。

皆守はただ耐えた。

こみ上げる怒りをそのまま誰かや、何かにぶつけていた、あの頃の記憶が脳裏を掠めていくようだ。

(だが、俺だけは、もうあの頃の俺じゃない)

一年ほどかけて死に物狂いで働けば、進学費用を稼げるかもしれないが、それでは夢の実現にますます時間がかかってしまうだろう。

親子の温情に今更甘えるなど、虫がいいのは百も承知だ。

そもそも、他人の顔をした彼等が、自分のためにこれ以上何かしてくれるかどうか、甚だ疑問ではあったが、僅かでも可能性があるのなら、賭けたほうがいいに決まっている。

(まあ、諦めるのは、その後でもいいさ)

まだどこか後ろ向きの自身に、自嘲めいた思いが浮かびかけた時だった。

「いいだろう」

皆守は顔を上げる。

「大学の学費は、出してやる」

「父さん」

「ただし、来年の入試には必ず合格しろ、現役入学で無いだけで十分恥ずかしいんだ、これ以上恥の上塗りに付き合ってやる義理は無い」

こみ上げてきた言葉を全て飲み込んで、ただ静かに父親に礼をした。

そのまま立ち上がって、居間を出て行こうとする息子を、父親が呼び止めた。

「甲太郎」

皆守が振り返っても、彼はこちらを僅かも見ようとしない。

「お前には他所に部屋を借りてやる、受験の準備はそこでしろ」

胸ポケットから煙草を取り出し、眉間に皺を寄せたまま、煩わしげな手つきで火をつける。

「浪人生が家を出入りする姿など、恥ずかしくて近所の皆さんに見せられないからな、それでなくてもお前は我が家の恥晒しなんだ、住まいが決まったら早急に出て行け、今後は自宅に顔を見せるな、用件は全て電話で母さんに話せ」

「あなた」

「フン、今までの罪滅ぼしに、精々人並みにでもなってみせるんだな、お前を見ていると気分が悪くなってくる、この面汚しめ、さっさと行け、用はもう無い、部屋に入って出てくるな」

そのまま煙を立ち上らせる父親と、視線を逸らして困惑した表情を浮かべている母親を一瞥して、皆守は踵を返し、今度こそ居間を後にする。

ドアを閉めた直後、彼らの悪意に満ちた声や泣き声が背中に圧し掛かってくるようで、逃れるように急ぎ足で自室に戻り、固く施錠した。

ベッドの上に乱暴に四肢を投げ出して横になると―――ようやく、まともに息ができる。

皆守は暫く目を閉じて、動悸が治まるのを待とうとした。

けれど、こみ上げてくる怒りや空しさはどうしようもなくて、おもむろにズボンのポケットを探り、何か言われては面倒だと思って隠していたリングを取り出す。

左手薬指に嵌めると、そのまま高く掲げて眺めた。

蛍光灯を反射して、金色の輝きが、瞳の中に落ちてくる。

僅かに目を眇めて、そのまま、ゆっくり、リングの表面を唇に押し当てた。

「晃」

呟いて、もう一度口付ける。

―――あの夕焼けの中、ただ一度きり触れ合った、彼の唇の感触が蘇ってくる。

(晃、お前に逢いたい)

もう泣き言かと、心のどこかで笑い声が聞こえるようだけれど、知ったことか。

(お前に逢いたいんだ、晃)

そのためなら、どんな事でもしてやろう。

遠ざかっていく背中を見送りながら誓った。

今度は俺が、お前を見つけて、離れていったその手を掴もう。

天香遺跡が崩壊するとき、命がけで俺を連れ出そうとしていた、お前のように。

(まあ、まだまだ俺は半端なままだがな)

口元にふっと笑みが浮かんで、気付けばさっきまでの怒りはどこかへ消えていた。

父親があの様子では、恐らく今週中には追い出されることになるだろう。

どうせ実家にだって、学園卒業とともに寮にいられなくなって、とりあえず戻っていただけだ。

両親は俺と暮らしたくないようだし、俺も、こんな場所にいつまでもいては、気が変になってしまう。

利害の一致という奴だと、遠い目をして笑った。

(そんな風に言ったら)

なあ、晃?

「お前はなんて言って、俺を抱きしめてくれる?」

もう一度リングに口付けて、皆守はそっと目を閉じていた。

 

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