―――人気の無い場所を選んで過ごしていた。
そういうことがだんだん多くなって来ていた。
昼過ぎ。
午後の講義の少し前の時刻。
日当たりのいい、草むらの上に参考書や辞書を放り出しながら、黙々と調べものを続けていた皆守の、俯いた影とは別に、新たな日陰が手元を暗く染める。
「おい、日本人」
顔を上げるとニヤついた姿が視界に飛び込んでくる。
誰だ、こいつは。
「こんなところで何しているんだ」
「勉強だ」
「へえ、熱心な事だな」
今度は一体何だという気分がして、一瞬怪訝に眉をひそめてから、皆守はすぐ視線を手元の文章に戻す。
再び、頭の上から「おい」と呼び声が降ってきた。
「何か、用でもあるのか」
「いいや?お前みたいな貧乏くさい奴に用なんてないさ」
―――この手の輩は、他に何人もいる。
この学園で皆守に自主的に係わり合いを持とうとする人種は、二種類しかいない。
片方は虚栄心を満たすため、言いがかりをつけて貶めようとしてくる者。
もう片方は暇つぶしついでに、下卑た誘いをかけてくる者。
両者に共通しているものは、皆守に対してのあからさまな侮蔑と嘲笑、悪意。
彼らの瞳は総じて冷ややかで、僅かばかりの友好性も感じられない。
今、皆守に話しかけているこの生徒も、そうだった。
だから下を向いたまま対応する。
いつものことだ。
「おい、日本人」
聞き流すのが常だけれど―――慣れる事など、できない。
「お前に用はないが、ただ、お前を見てると何だか憐れでなあ」
(それは誰の事だ)
でっぷり太った体躯、こぎれいな衣装、整えられた髪形。
所詮、小金持ちの子供風情が、名前で進学先を決めたのはお前の方じゃないのか。
「大変だよな、お前、俺達の何十倍も勉強しなきゃ、俺たちに追いつけないんだもんな」
皆守は気にせずペンを走らせる。
ずっと、ずっと以前から、同様の感情は幾らでも味わってきた。
初めは親に否定されて、周囲に否定され、社会に否定されて。
気付けば行き場を失って、全て壊れてしまえばいいと願っていた、この手を掴んで日のあたる場所まで引き上げてくれた、力強く温かな存在。
『彼』の人生にとっては大勢の登場人物の一人にしか過ぎなかったのかもしれないけれど、自分にとっては運命だった。
だから、再び飛び去ってしまった姿を捕まえるためだけに、この身一つで漕ぎ出した。
どれほどの荒波にも耐えてやろうと思っていた。
かつての苦しみと比べれば、そんなものはどれほどの事でもないと思えたから。
けれど。
「なあ、お前さ」
耳障りな声だ。
「何のつもりでここに来たのか知らないけれど、場違いなんじゃないのか?」
皆守は顔を上げた。
生徒は、ニヤニヤといやらしい笑みで口元を歪ませている。
「はっきり言って目障りなんだよ、東洋の黄色いサル、とか言ったらもう古臭いか?けどさ、自分の実力を過信して、必死ですがり付いている姿なんて、見苦しいだけだぜ」
「何だと」
「お前、気持ち悪いぜ」
靴底が傍においてあった辞書をおもむろに踏みつけた。
「少し言葉が喋れるからって、勘違いしてるんだろ」
今度はノートを蹴り飛ばした。
辞書の表面には、くっきりと靴底の跡が残っている。
「お前みたいに能力の無い奴、努力するだけ無駄だって、早く悟ってあの狭い島国に帰れよ」
お前にはあの程度の箱庭がお似合いだ。
生徒は笑っている。
ますます歪んだ顔が、酷く不気味だった。
「日本人が国際進出だなんて、自惚れんなよ、お前なんて俺と違って何の価値も無いんだ、みすぼらしい身なりして、講義を聞いたって何の事だか解ってないんだろ、どうせ、それで努力だけは人並みに怠っていませんって、そんなもん何の価値も無いんだよ、お前みたいに無価値な黄ザルが視界に入ると不愉快だ、さっさと消えろ、日本人」
再び、辞書を蹴りつけて、めくれた項がバラバラと風に煽られて開いたり閉じたりする。
確かに、生徒の言うとおり、皆守が現在生活に困窮している事は事実で、学校に許可を取って外出できる時間帯は殆どアルバイトにいそしんでいた。
洋服ももう半年くらい買っていない。
履いている靴もボロボロで、取れかかったパーマの髪は、自分で切っているからざんばらだった。
胸の内側に、突然、何の前触れも無くどす黒い炎が燃え上がっていた。
今までひた隠しにして堪え続けていた感情が、ついに堰を切って溢れ出しかのようだった。
―――あの、背中に追いつけない。
運命にたどり着けない。
こんなにも努力して、こんなにも足掻いて、自分らしくないことをたくさん我慢して、それこそ、身を削るほどに望み、足掻いているのに、何も見えてこない、何にも届かない。
(俺が、こんなに苦しんでいるっていうのに)
非情な現実が与えてくれたものは、いったい何だ?
ただ一人きり、頼るものも無く、心を折って親に頭を下げてまで、渡ってきた土地で約束されているというチャンスはいつになったら訪れるんだ。
「そんなもん」
ペンを握り締めて、呟いた皆守の声は震えていた。
自分はまだ、あいつほど強くなれない。
あいつほど運命を確信できない。
(所詮、俺なんて)
膝に乗せていたノートや本の類いがバラバラと落ちた。
立ち上がると、生徒は皆守より少しだけ背が低かった。
「そんなもん」
片手にはまだペンを握ったままだ。
見下ろすと、生徒の表情にようやく、僅かな不安が入り混じる。
「な、何だよ」
「お前に言われるまでも無く、解ってるんだよ」
皆守は日本語で話していた。
生徒は、何を言われているのかわからないらしく、怪訝な顔で目ばかりギョロつかせている。
「俺が今している努力にあてが無いなんて事、俺自身が一番よくわかってるんだよ」
「な、何を言っているんだ、ちゃんと喋れよ!」
「ちゃんと喋ってるさ、お前みたいな低能に聞き取れないだけだ」
吐き捨てると気分が良かった。
胸の奥に巻き起こった炎が、よりいっそう激しく噴き上げるようだった。
「コレだけ必死になったって、所詮、ダメなんだ、無理なんだ、俺がここにい続ける理由なんて、多分どこにも無いんだ」
「お、オイッ」
「どうしようもない事がこの世の中にゴロゴロしている事くらい、知ってるんだよ」
「ちゃんとわかる言葉で話せよ、この、日本人!」
「うるさい!」
怒鳴られて、生徒は、瘧のように体を大きく震わせていた。
ヘビに睨まれたカエル宜しく、こちらを凝視する双眸を、ぎらつく瞳で睨み続ける。
「どうせ―――誰にもわからないんだ、お前にも、俺にも、アイツにも!」
「ヒッ」
生徒が少し体を縮こまらせる。
「俺がどれだけ望んだって、結局」
握ったペンを振り上げた。
「なあ、お前に教えてやろうか?」
ようやく理解できる言語で話しかけられて、僅かに弛緩した様子が気配だけで何事かと尋ねてくる。
皆守は笑っていた。
かつて、幾ら人を傷付けても何も感じなかった、あの頃のような表情で。
「永久に消し去る事のできない、絶望ってヤツを」
「や、やめろッ」
上ずった小さな声に、口の端がますますつり上がっていく。
片方の眼球に狙いを定めて、ペン先を振り下ろしてやろうとした、その時だった。
「―――ねえ、そこで何をしてるの!」
咄嗟に振り返った。
皆守の正面で、生徒はぺたんと尻餅をついて、気付いて今度はそちらに目をやると、あたふたと這いずるように逃げ出していた。
無様な姿の、全身ががくがくと震えていて、見下ろしながら皆守は舌打ちをもらす。
すでに混乱状態の生徒からゆっくり視線を移していくと、近づいてくる少女の姿が見えた。
「貴方、今、何をしていたの?」
気の強そうな女生徒は、髪をかきあげながら高圧的な眼差しで見詰めてくる。
その外観から、彼女も小金もちのお嬢さんかと思い、うんざりした気分が先ほどまでの黒い炎をいつの間にか払拭していた。
「別に」
短く吐き捨てて、辺りに散らばった勉強道具を片付け始めた。
今、あの程度の事で、あっさり崩れ落ちてしまった。
(俺の信念や、決意なんて、結局その程度でしかないってわけか)
猛烈に空しい気分がこみ上げてくる。
末端から力が抜け始めていて、しゃがみ込んでノートや本を束ねてトントンと縁を叩いてあわせたら、両肩に重みが圧し掛かってきた。
「ねえ」
耳元を舐るような、緩んだ声。
「今のこと、教授には黙っていて上げる、貴方と口裏を合わせてあげてもいいわ」
その代わり。
女生徒の片手が、胸の辺りを探り、それから股間に触れる。
「東洋人のココって凄いんですってね、こっちの男の子は皆乱暴なばっかりで全然良くないの、だから」
耳朶を噛まれた。
皆守は、じっと両目を閉じていた。
―――結局、こんな状況が俺にはお似合いなのか。
「いいぜ」
どうでもいい。
振り返りながら緩く微笑みかける。
漆黒の双眸から、意志のようなものは殆ど消えかかっていた。
「あんたのしたいようにすればいい、俺でよければ、使えよ」
発情した女を慰めるだけの玩具。
(その程度の価値なら、あるのか)
自分自身の考えに、皆守は冷めた笑いを漏らしていた。
少女の唇が重なってくる。
そういえば、日本で最後に世話になったあの女は元気にしているだろうかと、面影が脳裏を過ぎっていた。
彼女と交わしたキスより、女生徒の唇は、朽ち掛けた果実のような匂いがしていた。
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