そのまま、大学内の一室に連れてこられて、今に至る。

何故か分からないけれど、水代と離れ難くて、半分くらいは自主的についてきてしまった。

(俺は、バカか)

紅茶を入れてくるよと言い残し、姿を消した水代を待ちながら、様々なものが散乱した室内を適当に見て回っている。

連絡を寄越したアイツは今頃お冠だろうか?

「パトロンが一人、減るかもな」

呟いて笑う。

もとより、いつ追い出されてもおかしくない状況だった。

日本に戻ったところで居場所があるとも思えないし、自分ひとりなら、何とか生活していけるだろう。

堕ちることには慣れている、今更、どれほどの悪環境であっても、さして気にもならない。

(今更、惜しむものなんて、どこにも残っちゃいない)

―――記憶の向こうに今も鮮明に残る、遠い姿が脳裏を過ぎる。

「あんな薄情者、知らないさ」

胸の奥がチリリと疼いて、こみ上げる不快感を誤魔化すように、本棚から適当に抜き取った一冊を開いて目を落とす。

それは、中東に伝わる神話や伝承に関する考察などが記された本だった。

カーテンをタックで押さえて、少しだけ開かれた窓の隙間からは、時折僅かに風が吹き込んでくる。

壁に背を凭れさせて、いつの間にか皆守は読書に集中していた。

文献は非常に興味深く、大学の講義や図書館では知ることのできない内容で満ちている。

聞いた事のない用語や例文も多く記されていた。

貪るように読み続ける鼻先で、不意にふわりと紅茶が香る。

顔を上げると、奥のデスクについて、水代がカップを口元に運んでいた。

「あッ」

慌てて本を閉じる。

気付いた水代が、振り返って皆守の手元を窺い、首を傾げる。

「栞は挟んだのかい?」

「え」

「君は、栞無しでどこまで読んだか判るのか、凄いなあ」

僕なんて栞が無いと、全然わからなくなっちゃうんだよ。

彼の周りを取り囲む本の数冊に、少なく見積もっても10本近い栞が挟みこまれていた。

「面白い箇所とか、何度も読みたくてね、でも、時々抜け落ちちゃうんだ、糊付けしたらいいのかもしれないけれど、そんなことをしたら書物自体が台無しになるだろう?難しい問題だよね、僕らのような読書家のために、誰か解決してくれたら有り難いんだが」

皆守は唖然と黙り込んでしまった。

無視をされたことも、勝手に本を読んだことにも、水代は全くこだわっていない。

それどころか、皆守が読んだ場所を忘れてしまわないのかと感心している。

(何だ、こいつは)

本当に何なんだ、一体。

留学して随分経つけれど、水代のような人物にお目にかかったことがない。

壮年から老年の中間辺りに差し掛かっている外観の彼は、人のよさそうな笑みを始終浮かべたまま、そうだそうだと急いで皆守を手招きした。

近づくと、紅茶だよとカップを勧められる。

「僕は、この世には紅茶の嫌いな人間はいないと信じている、君が僕の常識を覆すタイプでない事を、ただ神に祈りながら淹れたよ」

受け取って口に運ぶと、ほんのり酸味のある暖かな液体が、喉の奥に心地よく流れる。

「どうかな?」

「美味しいです」

そうか、と、再び瞳を輝かせて、水代は満足げにニッコリと笑った。

「皆守君は、いい子だね」

―――胸の奥が震えた。

咄嗟に視線を逸らしても、水代は気にする素振りすらなく「ところで君の専攻は?」と質問してくる。

「歴史学です」

「じゃあ、いずれは僕と同じ、考古学者になるつもりなのかい?」

「ええ、まあ」

本音を言えば、そこまで考えて決めたわけではなかった。

留学先にこの大学を選択したのも、奨学金制度と、学習内容が玖隆の背中を捕まえる切欠になりそうだから、ただそれだけの理由だった。

何かを目指して―――確かにそうかもしれないけれど、純粋な熱意があったとは言いがたい。

明確な価値基準を持たないという点では、自分も、自分を『飼っている』彼等と何も変わらないのだと、不意に思い至っていた。

(俺は)

一体、何のために?

(そんな事―――考えた事も、ない)

深いグリーンの瞳が、黙り込む皆守をじっと見上げている。

(俺はここで、何がしたかったんだろう)

玖隆を追いかけたかったというのは、もしかしたら切欠に過ぎないのかもしれない。

そもそも、それ自体を目標にするには、あまりに曖昧過ぎる。

思いつくままに、まず語学を学び、それから歴史学を専攻するために留学をした。

(それは、何のためだ)

玖隆を欲する自分のため。

では、自分は玖隆の何が欲しかったのか。

愛されたかったのか、もっともっと、たくさん話がしたかったのか。

キスしか許してもらえなかった、彼の体を思うまま貪りたかったのか。

(違う)

そんなことではない。

皆守の瞳に、失われかけていた光が緩やかに蘇り始める。

(俺は、違う望みを抱いていたはずだ)

桜舞うあの日、玖隆がくれたリングに誓った。

多くの人々に背中を押されて―――望んだ道を歩き始めた。

(お前の隣で、同じ風景を見られるようになりたかったんだ)

女神との約束を果たすため、休みなく飛び続ける渡り鳥に追いつけるだけの強靭な翼。

彼の姿に憬れて、狭い世界を飛び出した。

けれど届かない、押し寄せる重圧にあっけなく飲み込まれて、いつしか遠のいてしまった。

ふわりと吹き込んできた風が二人のシャツを揺らす。

カップの中の紅茶は、すっかり冷めてしまったようだ。

皆守は左の薬指の付け根に触れていた。

馴染んだ感触は、今、そこにない。

「皆守君」

「はい」

呼びかけられて、はたと我に返ると、水代が瞳の奥をキラキラと輝かせながら、どこか含みのある表情でこちらを見ていた。

「―――君に、ひとつテストだ」

「は?」

「聞きなさい、人生にこういう場面が何度もある、だから真剣に答えるんだ」

思わず口を閉じた。

皆守を見詰める水代の表情が、急に厳しいものへと変わる。

「想像してごらん、君は駆け出しの考古学者だ、とある文献を調べている内に、ある場所に、大規模な古代の遺跡が残っているかもしれない可能性を突き止めた」

「―――はい」

「けれど、そこは誰も訪れたことの無い未開の土地、しかも、そんな話はこれまで出てきたことがないし、文明らしきものの存在した歴史的可能性すら殆どない、それでも君は、必死で君の見出した可能性を学者仲間たちに説明するんだ、けれど彼等は誰も君の話を荒唐無稽すぎると言って信じてくれない、そもそもその文献自体が間違っているのではないかと言うものさえいる」

さて、君はどうする?

肘を突いて、組んだ手の向こうに鼻から下を隠すような姿勢で、水代の目だけがこちらを見ていた。

急な展開に戸惑いつつ、それでも皆守は状況を脳内で想定していく。

「そう、ですね」

味方は誰一人無く、見出した可能性を信じているのは自分ひとり。

あまりに無力だ、調査や探索を一人きりで行えるなど、到底思えない。

(いや)

そうじゃない。

玖隆なら―――アイツなら、どうするだろうか。

「水代さん」

水代は片方の眉だけクイと持ち上げて質問を促した。

「俺は、自説に確信を持っているんですか?」

「無論、そうでなければ僕らの仕事は続けられない」

年齢や経験なども、勿論大切だけどね。

抑揚の無い声で水代は続ける。

「そういうものは、所詮仕事の効率や成功率を上げる程度のものでしかない、新しい可能性や発見は、まず信じることから始まるんだ」

「そうですか」

「君は、物凄い発見をしたんだよ」

硬い雰囲気がほんの僅か和らいだように感じる。

「実証できたら世紀の大発見になるだろう、君の名前も、功績も、人類が存続する限り語り継がれる事になる、学会にも波紋を起こせるだろうし、何より君の話を聞かなかった奴等の鼻をまとめてあかしてやれるだろう、それだけじゃない、一代で使い切れないほどの富すら築けるかもしれない―――でも、全てはただの可能性、君の頭の中だけのものだ、そして君は考古学者の肩書きこそ持っていても、真実何者にもなってはいない、だから誰も真剣に取り合ってなんかくれないし、どれだけ整合性の取れた資料で説明したとしても、くだらないの一言で一蹴されてしまう」

胸の奥が鈍く痛むようだった。

そういう現実を、皆守はこれまで何度も味わい続けてきた。

もがいても届かない。

足掻いても変わらない。

望んでも、どれほど叫んでも、何一つこの手に掴む事ができない。

(けれど)

それでも―――無くしてはならないものがあるのだと、いつか玖隆が話してくれた。

諦めなければ、望みはいつか、必ず叶うと。

正午のうららかな日差しの差し込む一室、向かい合った水代はさっきまでと違い、何故かとても大きな存在に思えた。

汗ばんだ掌をほんの少し握り締めながら、皆守はグリーンの瞳の醸し出す威圧感に負けずに見詰め返す。

「俺なら―――諦めません」

少し前の自分なら、恐らく語るはずもなかった言葉。

水代と出会って、多分まだ一時間ほどしか経っていない。

「誰一人俺の話を取り合ってくれなくても、誰も手を貸してくれなかったとしても、やれるだけの事をやります」

「大変だよ?」

「わかっています」

「途中で弱音を吐くかもしれない、諦めた方がいいのかもしれない、迷うだろうし、苦しむだろう、何しろ味方はいないんだ、人が独力のみで何かを成し遂げるのは、本当に難しい」

「俺も、そう思います」

自嘲めいた笑みが浮かんでいた。

それは他でもない、今の自分の事だ。

(でも、お前なら、そう選択するだろう?)

ただ一人きり、孤独の雨に打たれても、飛ぶことをやめない。

そんな翼に憬れて、ここまで羽ばたいてきた。

「できることが僅かでも、思うようにいかなくても、それでも」

「何だい?」

「ゼロより、イチなら、可能性はなくならない」

皆守は真っ直ぐ水代を見詰める。

風に揺れて、淡いコロンの香りが漂った。

「可能性が残されているのなら、たどり着けるかもしれない、だから、俺は」

諦めたくないんです。

(そうだ)

諦めたくない。

こんな状況で、今更かもしれないけれど、それでも、これ以上流されてしまいたくない。

(俺にまだ可能性が残っていればいいんだが)

もしかしたら、そう考える事自体、初めてかもしれなかった。

玖隆への想いは、勿論ある。

けれど、それ以上に―――ここまでたどり着いた自分を諦めたくない。

今後も揺れるだろう、流されるだろう、立ち止まってしまうかもしれない、けれど。

(俺は、晃のためじゃない、俺のためにここまで来たんだ)

目の前で淀んでいた何かが晴れ渡っていくようだった。

まとわりつくたくさんの余計なものを、振りほどいて飛び出したいと強く思った。

 

いい風が吹いている。

 

水代が、不意に顔を上げた。

 

「―――合格だよ、皆守君」

「えッ」

そのまま椅子から立ち上がると、皆守の両肩をポンポンと叩いて、人懐っこい笑みが再び浮かんでいた。

「頑張っている君に、ご褒美をあげよう」

(ご褒美?)

何をくれるというのだろう。

再び唖然とする皆守に、水代はウィンクをする。

室内は再び和やかな雰囲気に包まれている。

ガラス越しの日差しは柔らかく、空は青い。

「僕からの贈り物は、可能性だよ、皆守君―――暫く僕の手伝いをしないか?」

水代の言葉は、暫く耳に留まってから、ゆっくりと皆守の胸に浸透していった。

 

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