「その辺にある椅子を使え」
開いたままのドアから入り込んで、広い卓上に荷物を下しながら、皆守は適当な椅子を顎で指し示す。
作業用に貸与された屋内は40人ほど収容できる程度の広さがあり、やはりどこか日本の学校の教室のような雰囲気がある。
アリアは古ぼけたクッションの敷かれた椅子にちょこんと腰を下ろし、あちこち興味深そうに眺め回していた。
姿を確認して、皆守も、持ってきた書類の仕分けを始める。
「暫くすれば博士は戻られるだろう、それまで、ここにいるといい、先に言っておくが、その辺の紙の束や本には触るなよ」
部屋には大きな机が二つ、本棚が五つ、中央に簡易応接セットのような物も置かれてあるにはあるのだが、ソファも机も山のように積み上げられた書籍や紙などですっかり埋もれている。
窓は外に面した壁面に全部で5つほどあるのだろうが、内3つは本棚の後ろに隠れてしまっていた。
上下に分割されたガラス戸の、下半分を押し上げて開く仕組みになっていて、引かれた薄い遮光カーテンが微かに吹き込む風で時折ふわふわと揺れている。
天井には扇風機と一体型になった照明が全部で3つ。
部屋の壁は全体的にくすんだ色の板張りで、しっかりした造りではあるけれど、過ぎた年月を感じさせる。
アリアは本棚の傍らに置かれた椅子に腰掛けていて、皆守がいる机からは少し距離があった。
二つの机は互いに向かい合うような形で部屋の両端に設置されている。
どちらが使うと明確に決めているわけでもないけれど、アリアの傍にある机は、水代博士が主に使用しているものだ。
本棚もとても大きくて、そこに専門書籍が隙間無く詰め込まれているので、総重量はとんでもないことになっているだろう。
立ったままで作業もなんだなと、椅子に腰掛けると、アリアがぴょこんと椅子から飛び降りて近づいてくる。
顔を上げて様子を眺めていた皆守を時折意識しながら、今度はすぐ傍の椅子に座りなおして、改めてこちらをじっと見詰め返してきた。
「あの」
子供特有の、少し高くて鼻にかかった声で呼ばれる。
響きそのものは悪くない声だ。
「何だ」
「お名前は、なんといいますか?」
そういえば自分は名乗ってなかったなと皆守は思い至る。
「皆守、皆守甲太郎だ」
「みなかみさんですか」
皆守は苦笑した。
「そうだよ」
「では、みなかみさん」
「ん?」
「みなかみさんは何をしているんですか?」
仕事だよ、とそっけなく答えてから、何となく言い直した。
「博士の、アルの手伝いをしているんだ」
「こうこがく?」
よく知っているなという思いが過ぎる。
「そうだ」
「みなかみさんはこうこがくがくしゃなんですか?」
「違う」
自分の言葉に、皆守は、改めて自身を思い返して、薄く笑みを浮かべた。
「まだ学者じゃない、卵だ、それに、俺は学者になるつもりは無い」
「みなかみさんは、たまご?」
わからないだろうなと胸の中で呟く。
「アルのようには、ならないんだよ」
「どうして?」
「本当にやりたいことじゃないからさ」
ほんとうの、やりたいこと。
アリアの言葉は稚い。
皆守は手元の書類を整えながら、やれやれとため息を漏らす。
「じゃあ、みなかみさんのほんとうにやりたいことって、なんですか?」
「バディ、いや、技師かな」
「ぎし?」
「古い建物を調べたり、その方法を教えたり手伝ったりする仕事だよ」
「誰に教えるんですか?」
「そういった仕事専門に働いている人たちにさ」
よくわからないらしく、小さな首を傾げている。
皆守は卓上の紙束に目を向けて、傍の本を引き寄せると、付箋の貼ってあるページを開いた。
「アルの、博士の仕事は、こうして部屋で調べ物をすることだろう?俺は、部屋の外に出て、あれこれ調べたり手伝ったりする仕事をしたいんだよ」
返事はない。
皆守は作業を続行する。
暫く沈黙が部屋を満たしていた。
「みなかみさん」
「うん?」
「みなかみさんは、どうしてぎしになりたいんですか?」
ペンを走らせていた手を止めて、アリアを振り返った。
人形のような姿が相変わらずおとなしく椅子に腰掛けて、床まで届かない両足をブラブラさせている。
「そうだな」
質問の回答を期待するような瞳の輝きに負けて、皆守は口を開く。
「約束、したからかな」
「誰とですか?」
「自分とさ」
薬指の金環が光を弾いてキラリと光った。
「随分昔の話だ、多分、アリアが生まれる前の事だろう」
―――脳裏に蘇ってくる、夕陽の赤、触れ合った唇、そして、薄情なあの男の笑顔。
映像としての記憶は随分劣化してしまった。
皆守はもう具体的に玖隆の姿を思い返すことはできない。
不思議な色の双眸と、好ましい雰囲気だけが、強く印象として残っている。
彼の声も、果たしてそうであったか、大分曖昧であやふやだ。
ただ、確固たる玖隆晃の存在像のようなものが自分の内側で確実に形成されていて、それだけはどれほどの月日が流れようとも決して変わることがない。
同時に、抱いた想いもまだ、継続していた。
だからこその現状であり、目指す未来であるのだ。
望むのは、同じ速さで羽ばたける翼。
卒業後の進路を明確に決めているわけではないけれど、現状が継続されるならば、恐らく水代博士の手伝いをして、世界各地を巡ることになるだろう。
たくさんの人に出会うだろうし、さまざまな経験をするに違いない。
その中で、何かしら彼の手がかりをつかめるかもしれないと、半ば祈りに近い期待を抱いていた。
(お前に追いつくその前に、力を蓄えて、置いていかれないくらいにはなってみせる)
天香の屋上で味わったような思いは、二度と御免だった。
日本を飛び出してからも、焦る気持と未熟な現状とのジレンマで、墜落しかけた事もある。
それでも、何とか羽ばたいてきた。
今はもう、玖隆への思慕だけを原動力に進んでいるわけじゃない。
けれど全ての根源はそこにあり、そして、再会こそが願いの最たるものだった。
アリアの瞳は、何故か今は暗いスミレ色をしている。
理由は判らないけれど、懐かしい想いがこみ上げてくるようで、皆守はそっと微笑んでいた。
「昔、俺は、自分ではどうしようもない病気にかかっていた」
「びょうき?」
「そう―――病気だ、酷く性質の悪い、悪質なヤツさ」
多分、今も完治はしていないと思う。
この胸には常に、何かに縋って救われようと願う弱い心が潜んでいる。
「けれど、そこから助けてくれた人がいたんだ」
あっけないほどあっさりと、いつも、強気の笑みを浮かべて、何が起こっても『何でもない』と、障害全部踏み潰して進んで行く強い姿。
「おいしゃさんですか?」
そんなものだよと皆守は笑う。
玖隆は確かに、自分にとっては医者でもあった。
(とんでもなく荒療治の闇医者だけどな)
「助けられた時、俺は、約束した、自分もいつか、この人と同じ場所に立って、同じものを見ることができるようになろう、ってな」
「みなかみさんは、おいしゃさんになりたいんですか?」
「まあ、医者というより、看護士だな、医者の手伝いと、看護士にしかできない仕事をする人だよ」
そうですか、とアリアは呟いて、不意にニッコリ微笑んだ。
その笑顔があまりに唐突で、そして―――誰かを、何かを、髣髴とさせるようで、皆守は咄嗟に言葉に詰まる。
「それはステキですね」
ぴょこんと椅子から飛び降りた姿が、トコトコと近づいてきた。
皆守の腕を引っ張るので、何事かと体を屈めると、頭に手を伸ばそうとする。
(何だ?)
更に体を屈めてやったら、そのまま髪を撫でられた。
「パパがよくこうしてくれます、がんばりやさんのごほうびだよって」
「そうか」
「アリアはいつも一人でおるすばんをしているから、えらいねってこうしてくれます」
「ママも、お仕事をしているのか?」
「アリアにママはいません」
皆守は顔を上げて傍の表情を窺う。
「アリアのママは天使様になってしまいました、でも、アリアの傍でいつも笑っていてくれるよって、パパが教えてくれました、だからアリアは寂しくないです、アリアにはパパも、アルも、カナいるから」
「そうか」
小さな手が離れた。
皆守は上体を起こすと、お返しのようにアリアの頭に掌で触れていた。
「アリアは偉いな」
そっと撫でると、くすぐったそうに肩を竦める。
アリアの様子から、寂しさや悲しみのようなものは僅かも感じられない。
何故か少し救われたような気がして、皆守は繰り返し、何度も頭を撫でてやった。
頬を染めたアリアが「パパみたいです」と言いながら、はしゃいだ様子でクスクス笑う。
(こいつも、チビなりに頑張っているのか)
どうやら水代博士の息子は、随分できた人物のようだ。
そうでなければ、娘であるアリアが、こんなにも真っ直ぐ、純粋に育っているわけがない。
本人の口ぶりから滅多に会えないようだけれど、それでも、愛されていると本人が自覚するほどの愛情を、触れ合える僅かの期間、めいっぱい注がれているのだろう。
少し皮肉な気分になって、皆守は苦笑いを浮かべる。
俺とは正反対だ。
その時不意に、廊下を駆ける足音が近づいてきた。
「アリア!」
開いたままのドアから飛び込んできたのは、水代博士だった。
途端、皆守の脇から、アリアがアルと声を上げて走り寄っていく。
孫娘の姿を見つけた博士は、今までにみた事もないほど顔を上気させて、床に膝をつきながら両腕を大きく広げて名前を呼び、抱きついた姿をしっかりと受け止めた。
「アリア、アリア!こんな所にいたのか、随分探したんだよ!」
「ごめんなさい、アル」
「いいんだ、それより、皆守君と一緒だったのか」
「はい」
「そうか、それは良かった」
アリアを腕に抱き上げて、立ち上がった水代博士は、改めて皆守に視線を向ける。
「すまないな皆守君、有難う、アリアが世話になったようだね」
「いえ」
「君はお礼を言ったね?アリア」
アリアは振り返ってペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます」
皆守は笑顔だけ返した。
「アリア、パパが到着したぞ」
改めて、水代博士から聞かされた途端、亜莉亜の表情がパアッと輝きだす。
「本当?」
「ああ、向こうで君を待っている、すぐに行こう」
「はいっ」
「そういうことだから、皆守君」
はい、と皆守は答えた。
「アリアを連れて行くから、もう少しだけ留守をお願いするよ」
「ええ、どうぞごゆっくり」
「フフ、全く、優秀な弟子を持って僕も鼻が高い、作業があるから今度は早く戻ってくるよ、じゃあ、後でね」
博士が背を向ける直前、抱きかかえられたアリアが、皆守に向かって笑顔で手を振った。
興奮した声と、それに応える穏やかな声が、部屋を出て段々と遠ざかっていく。
急に静かになってしまった室内に、一人取り残されたような気がして、皆守は何となく両腕を上げて背伸びをしていた。
「さて」
目の前の書類の束を一望する。
先ほど甦ってきた記憶の名残だろうか、胸の奥で暖かく力強い感情がふつふつと沸き起こっている。
「やるか」
呟いて、ペンを取った。
どこか予感めいた風が、髪のひとふさを揺らし、通り抜けた。
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