水代博士は、本当にすぐ戻ってきた。

聞けば、久しぶりの親子水入らずだから邪魔しないでおくんだと答えた後で、随分小さな声で「そう、カナに釘を刺されてしまったんだよ」とつまらなそうに真相を明らかにした。

細君も立ち寄りついでに地下の資料室を利用しているらしい。

どちらの人物にも少し興味があったけれど、皆守はおとなしく作業に没頭することを決めた。

いずれ、機会があれば、会うこともあるだろうと思う。

どのみち今は自分の事で手一杯なのだし、どうこうするほど興味がないというのが最大の理由だ。

静かな屋内で、紙の擦れる音と、ペンを走らせる音、物を置いたり、時折資料を取るために動いたりする物音だけが聞こえる。

「皆守君」

「はい」

「地理関連の資料は、どの辺りだったろうか」

「三番目の本棚の上から二段目、中央辺りにあったはずです」

「ああ、見つけたよ、有難う」

「博士」

「なんだね?」

「こちらの地方の古代出土品の一覧ですが、この遺跡と、こちらの遺跡は、ほぼ同年代の建造物と考えても構わないのでしょうか」

「うん?どれ―――ああ、なるほどな、そうだね、その見解で問題ないと思うよ」

「ではこの資料であたってみます」

「そうだね、それが最適だろう」

「わかりました、有難うございます」

机の傍に立ったまま、水代博士が動こうとしないので、書き始めた手を止めて、皆守は顔を上げた。

「何か?」

「うん、いや―――皆守君」

「はい」

「君に、聞きたいんだが」

「何ですか?」

博士のグリーンの瞳が、じっと皆守を見下ろしている。

「皆守君」

「はい」

「君、本国のご両親に、手紙などは書いているのだろうか」

思わず閉口した。

遠い記憶が再び蘇ってくる。

ただし、今度は痛みを伴う、苦く重苦しい思い出だ。

皆守は、海外留学をして以来一度も―――実家に連絡を入れていない。

「いえ」

それだけしか答えられなかった皆守に、水代博士は間を置いて、そうか、と呟いた。

「話し難い事ならば、強制するつもりはないよ、けれど、ボクは君のご両親にとても興味がある」

両親の姿は、玖隆の姿以上に曖昧で思い出せない。

「君さえ構わなければ、少し話を聞かせて欲しいんだ」

皆守は無言で、机の上を眺めていた。

無論、話せない事情など何もない。

面白くないのと、嫌な気分になるだけで、両親と自分の関係はまるで他人事のようだ。

けれど皆守は、話すことにためらいを感じていた。

捨て去ったつもりの過去。

忘れてしまいたい想い。

封印した扉を開くのは、あまりに辛い。

皆守君、と呼ぶ声がした。

次いで、聞こえてきたのは、すまない、という謝罪の言葉だった。

皆守は顔を上げる。

「君にも色々とあるのだろう、それはいつか、君の中で整理がついたときに聞かせてもらうことにするよ、僕は待っているから」

それじゃあ、と踵を返そうとする姿に、意識とはまったく無関係に、勝手に口が開いていた。

「俺は、気づいた時にはすでに一人でした」

水代が振り返る。

皆守は、自ら酷く驚いて、話し続ける言葉や声を、まるで他人のもののように感じていた。

「―――昔から周囲と足並みを揃える事が苦手で、親も頭を悩ませていたようでした、誰とも、何とも馴染む事ができず、どこへ行ってもはぐれ者で、そのうち誰も俺に近づかなくなって」

淡々としている、怒りや憎しみ、嘆きすらもすでに遠い。

皆守の口を借りた誰かが、勝手に過去を暴露している。

「両親すら俺と関わりあう事を避けるようになっていた、彼等は俺を憎み、俺は彼等を憎んで、何故自分達の血を分けた息子がこんな出来損ないであるのか、ぶつけられた嘆きや怒りの全てに反逆した俺は、家を追われました」

そのままずっと関わらずに生きていくつもりだった。

けれど。

「でも、俺には願いができて―――両親に頭を下げて、今こうしているんです」

それは、どこか敗北感が漂う気がする。

けれど紛れも無い事実だから、今のところ反論する術はない。

皆守はまだ学生で、基本的な学費の殆どは負担してもらっているし、名義も借りている状態だ。

反発するのは簡単だけれど、望みに手が届くようになるまで、甘んじて受け入れなければと思っている。

(それが、今の俺だ)

皆守は水代を見上げる。

確かに随分遠くまで来た。

けれど、根っこの部分は繋がったままだ。

思い出すたび、煩わしく、また悔しく思う。

彼等との縁を断ち切ってしまえたら、手など一切借りず、生きていけるようになれたなら。

ずっと黙って聞いていた水代博士が、口を開いた。

「皆守君、それでも、君とご両親の繋がりは、生涯解けることの無いものだよ」

(何?)

博士はそのまま静かに続ける。

「君は、確かに君一人の力までここまで来た、けれど君という存在をこの世に生み出したのは君のご両親であり、それだけは絶対に変えることのできない事実だ、君は、君が望む、望まないに関わらず、君とご両親の繋がりを断ち切ることなどできない、そんなことは、生きている限り不可能なんだ、まずそのことを受け入れなさい」

皆守は唖然とする。

「人は、放っておいても、食事を与えて、適度に心を育ててやれば、勝手に成長するもんだ、そのうちなんでも自分で決めるし、自分で考えて、一番いい選択肢を選べるようになる、植物は、環境さえ整っていれば勝手に育つね?よりよい花を咲かせようとするならば、そうなるよう手助けすることは可能だけれど、本当に花が咲くか否かは、結局植物自体の能力に賭けるよりほかない」

そういうことなのだよと微笑んだ、博士の姿は、相変わらずとても大きい。

「だから君自身に関しては、君が決めればいい、けれど、君とご両親の関係は、君一人で決めてはダメだ」

「それは」

「僕は別に、ご両親と和解しろと言いたいわけじゃないよ」

(えッ)

皆守は再び呆気に取られる。

「君が受け入れられないというならば、それも仕方ないさ、でも僕は、それでも君には両親がいるのだということを忘れて欲しくないんだ、そしてもう一つ」

僕を君のご両親に紹介して欲しい。

今度こそ、皆守は完全に言葉を失ってしまった。

あの両親に水代博士を紹介する、つまり、自分の将来的な夢や希望を開示するなんて、狂気の沙汰だ。

理解を得られないのは当然のこと、否定され、さらには愚弄されるだろう。

そういう人々だった。

いつでも興味があるのは自分達のことだけ。

血を分けた一人息子ですら、体面のためには切り捨てるような人種。

そんな者達に、水代博士を引き合わせるわけにはいかない。

博士は師匠であると同時に、すでに皆守にとって絶対的な尊敬の対象となっていた。

その彼が言葉で嬲られる様など、自分が痛めつけられるよりも、更に我慢がならない。

「それは、できません」

喘ぐように答えた、それが精一杯だった。

「何故かね」

「俺の両親は、貴方が想像する以上に愚鈍だからです、俺は、そんな両親と貴方を会わせるのは、嫌だ」

「君の心象だけでご両親を判断してはいけないよ」

「でも博士」

「君は」

随分変わった。

水代が目を細くする。

「僕と出会った頃より、ずっと逞しくなった、多くの知識を得て博識になったし、人間的にも成長したと思う、僕は君が僕の弟子である事を、心から誇りに思う」

皆守は思わず目を伏せた。

照れ臭いよりも、申し訳ない。

大きな掌がポンと肩を叩く。

「だから僕は、そんな素晴らしい弟子である君を、君のご両親に自慢したいんだ」

「え」

見上げると、水代博士はニコニコと穏やかな笑みを満面に湛えていた。

「君のご両親にも知ってもらいたい、今、君が何をして、どのような評価を受けているのか、君がどれだけ成長したか、それを全部伝えておきたいんだ」

だって僕一人で独占していたらずるいじゃないか。

博士は笑う。

「ご両親の愛が無ければ生まれてこなかった、君という人間を、心から憎めるものか、分かってもらえなくてもいい、迷惑だ、うるさいと、叱られてしまうのも仕方ない、でもね、これは僕のワガママだから」

「ワガママ?」

「そうだよ、僕はね、自慢の可愛い弟子を皆に紹介してまわりたいんだ」

特に、こんなに優秀ならばねと、掌が再び肩をポンポンと叩いた。

「だから君をこの世に生み出してくれたご両親にも是非会って話しておきたい、きっと嬉しく思うだろうから」

「そんなこと、あり得ません」

「こら、皆守君、予断と偏見は、僕らにとって最も気をつけなければいけない行為だと、僕は教えなかったか?」

「けど博士、貴方は何も知らない」

「そうだ、僕は何も知らない、だからこそ会いたいんだ、会っておかねばならぬと、そう思っているんだよ」

皆守は水代博士をじっと見詰めた。

固い決意に揺るがぬ瞳。

この目こそが、皆守を、無意識の内に惹きつけたのだろうと思う。

かつて彼と同じ強さを持った男に焦がれて、狭いケージから飛び出したのだと、今再び思い起こされるようだ。

(晃)

まだ届かない、遠い背中に思う。

別れの日、彼は、背負った過去の全てを皆守に話してくれた。

(なら、俺も、越えなければならないのか)

まだ彼ほどの覚悟は持ち得ないし、迷う気持ちも多分にある、けれど。

「そうですね」

何とか言えた。

「わかりました、それなら、いずれ―――必ず、ご紹介します」

真っ直ぐ水代の目を見ると、まるで子供のような無邪気さで、パッと笑顔を浮かべる。

つられてつい笑ってしまう。

そういえば初めて会ったときにも同じ様なことがあったなと、気付いて更におかしかった。

(結局、この人には言いくるめられてばかりだ)

こんな男の子供というのは、どのような人物なのだろうか。

アリアは素直でひたむきな眼差しを持った少女だった。

皆守は、前より少しだけ、水代博士の息子に興味を抱いていた。

「博士」

「うん?」

「ところで話は変わりますが―――」

先ほどのお孫さんの話、と切り出すと、水代はニヤリと、今度はいたずら小僧のような表情を浮かべる。

「息子の事なら、まだ秘密だよ」

「は?」

「いや、まあ、そのうちちゃんと話してあげるけどね、うん、今は口止めされているから、言えない」

「口止めって、それはどういう」

「ダメダメ、ダメだよ、これ以上はストップだ、僕は叱られたくない、悪いが勘弁してくれ、それより皆守君、仕事だよ、僕らは随分お喋りばかりしてしまったぞ!」

かなり強引な話題転換に、呆気に取られている皆守を残して、水代はそそくさと机に戻ってしまった。

姿を見送ってから、ため息を漏らしつつ、ペンを握りなおした。

(まったく)

こういう場面では、本当に、まるで子供だ。

そういった人柄も彼の愛されるゆえんなのだろうなと、皆守は積み上げた本の陰で密かに笑う。

(まあ、そのうちと言うなら、俺も待つとするか)

資料を覗き込んで、止まっていた作業を再開させる。

脳裏に、何故か玖隆の姿が、今までに無く強い印象を伴って、思い起こされてくるようだった。

 

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