遠い記憶を巡る。
離れて久しい、けれど今尚忘れることの無い姿を想う。
煙草を吹かしていた唇を、そのまま左の薬指の付け根に押し当てた。
嵌めっぱなしの、華奢な金環。
彫られた文字と対になる、翼の片方を与えてくれた男。
どれほどの時を経ても、どれほどの距離に隔たれていようとも、途切れる事など無かった。
心の隙間に灯された炎は、時に強く、時に微かに移ろいながら、それでも輝き続けている。
想いを保ち続ける事が困難に思えた時も、確かにあったけれど、今は。
「晃」
こうして一人きり、何度名前を呼んだだろうか。
いつか返される声を望んで。
振り返って微笑む、笑顔を求めて。
一途な自分が時折滑稽に思えてしまうほど―――欲せずにいられない。
すでに再会だけが望みの全てではなくなってしまっていたが、皆守は、最近、以前よりも頻繁に、天香時代の記憶をなぞって、物思いに耽る事が多くなっていた。
「今、何してる、晃」
誰もいない部屋。
外から昼間の日差しが差し込み、風は涼しい。
窓枠の傍に佇む横顔を、時折カーテンが撫でるように掠めていく。
現在滞在中の、借用している研究室内で、皆守は、水代博士が戻るのを待っていた。
無事卒業論文が受理された報告に訪れたのだった。
教授の内定は判定A+、手放しの賛辞まで頂いた。
授業参加日数も足りているから、後は大学に行かずとも、時期が来れば自動的に卒業認定と証書が下される。
漸く、卒業できる。
これを機に、皆守は、以前の約束を果たそうと考えていた。
(まだ、あまり気乗りはしないけどな)
電話口の反応は、予想通りというか、実にそっけないものだった。
それでも、博士がどうしてもと望んでいたから、皆守は、彼を連れて近々帰国すると、両親に告げていた。
どのみち卒業後は一度日本へ帰って諸々の手続きを済ませなければならなかったし、ならばついでに立ち寄るのも悪くないだろうと、そう自分に言い聞かせて決断したのだった。
腹を括ってみたら存外にあっけなく、むしろ今までのわだかまりを不思議に思う。
これきり両親と繋がりが切れるわけでもないし、生きている以上、肉親関係は解消できない。
いや、死んだって、結局真理だけはどう足掻いても変えようが無いのだ。
けれど、それでも、自分は、皆守甲太郎以外の何者でもない。
胸を張って言えるし、全肯定してくれる存在がいるからこそ、確固たる自信が持てる。
水代博士と出会って得たものだった。
いや、幸運は、すでに数年前から始まっていた。
(俺は本当に運がいい)
人生で二度も、生き方を変えるような出会いに恵まれた。
狭い世界で喘ぐように生きていた頃には感じ得なかった充足感、そして、自由。
何も知らなかった自分が、無知ゆえに、ただ衝動的に踏み潰してきた、たくさんの人や想い。
彼等に報いる事など、何一つできはしないだろうから、せめてこれからは、二度と振り返らず、死に物狂いで飛び続けようと決めていた。
誰も知らない、まだ見ぬ明日を、焦がれた翼と並び立ち、共に羽ばたくために―――
「なんて、な」
呟いて、煙草を咥える。
紫煙で肺を満たし、フウと噴出したその途端、部屋の扉が開かれた。
「皆守君!」
「博士」
慌てて、胸ポケットから簡易灰皿を取り出して、煙草の火をもみ消して突っ込み、煙を手で散らす。
一連の仕草の間、水代博士は猛烈な勢いで、部屋の中央の簡易応接セットから荷物をどけてまわっていた。
皆守もすぐに駆け寄り、作業を手伝う。
あらかた空間ができたところで、座るように促されて、腰を下ろした皆守と向かい合うように、博士もクッションにドスンと尻を沈ませる。
「さて皆守君、今から僕は、君に、とても重要な話をしなくてはならない」
「はい、博士」
「その前に、君はどうしてここにいたのかな?」
「えッ」
現在の水代の滞在場所は、ある博物館が所有する施設の一角だ。
皆守は、館員にアポイントを取ってからここを訪れ、部屋に通された地点で、博士は不在だった。
「今日は、ご報告があって、来させていただきました」
そうして用件を簡単に説明する。
水代は、最初、目を丸くして、それから頬を上気させ、まるで欲しかったおもちゃを買い与えられた子供のように、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「それは素晴らしい、皆守君、今日はお祝いだ、この街で最高のレストランに行って、一緒にディナーを楽しもう、いいね?」
「はい、有難うございます」
「やっぱり君は、僕が見込んだとおりの若者だった、うん、君にはまだまだ教えたいことがたくさんある、頑張ってついてきなさい、毎日は、更に忙しく、また楽しくなるぞ」
「俺も楽しみです」
「そうだね、僕も楽しみだ」
ニコニコしながら、大きな掌でおもむろに頭を撫でられて、ほんの僅か当惑してしまった。
皆守の様子に、水代博士は違う部分ではたと気がついたらしく、急いで座りなおすと、再び表情をきりりと引き締めた。
「そうだ、皆守君、僕も君に話さなければならないことがある、しかもかなり重要な話だ」
「はい」
「その前に、僕は君に聞いておかなくちゃならない」
「何でしょうか」
珍しく神妙な水代の様子に、皆守はふと思う。
(いったい何事だ?)
博士の性質は一般の尺度で量れないと、長年の付き合いでそれなりに理解もしていた。
けれど、今のような顔は、これまでに見た事がない。
シリアスな場面でもユーモアを忘れない博士が、至極真面目一途に振舞っているというのは、失礼とは思うが、どこか少し異様だった。
そして不安と同時に―――僅かな予感が身の内に沸き起こりつつあるのを感じる。
何故だろう。
「これから僕が話す事柄に関して―――もし、君に、その気が起こり得なかったとして」
「はい」
「僕の言葉全てを忘れると、約束してくれるか?」
「は?」
一体どういう意味だろう。
水代は真剣な表情を崩そうとしない。
「ひょっとしたら君の生命に関わる事だ、だから、慎重に決めて欲しい、けれど決断は今この場で頼む、すまないが、あまり時間が無いのだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください、生命って」
「言葉の通りだ」
それ以上説明するつもりはないと、水代は口を結び、態度で示した。
ただじっと―――皆守を、祈るような眼差しで見詰めている。
(参ったな)
咄嗟に答える気にもなれず、考え込もうとしたけれど、すでに心は決まっていた。
今更、あえて関わらないという選択肢を選ぶはずも無い、まして水代がもたらすものならば、尚更。
「わかりました」
答えを待っていたかのように、博士はパッと瞳を輝かせた。
「有難う、信じていたよ、皆守君!」
「それで博士、お話というのは」
「うん、まあ、順を追って説明する必要があるからね、長くなるけれど、頑張って聞いて欲しい」
そうして、次に聞こえてきた言葉に、皆守は息を呑む。
「ロゼッタ協会というものが存在する」
(なッ?!)
「これは、決して表の歴史に現れることのない、非公式の国際組織であり、遺跡からもたらされる様々な恩恵の獲得と保護を目的とした―――」
この時を、どれほど待ち望んだだろうか。
微かに輝く蜘蛛の一糸。
渇望し続けた先端が、今漸く見えた。
この手の中に降りてきた。
掌を握り締める。
汗ばんで、ぬるついた表面を、更に強く、強く握りながら、一言一句聞き漏らさないように身を入れて耳を傾ける。
水代博士はかつてロゼッタ協会所属ハンターの専属バディとして活動してきた経歴を持ち、現役を退いた今も、同組織からの依頼を頻繁に引き受けているらしい。
(それなら、俺は、知らずにアイツと関わっていたって事か)
いや、直接玖隆と結びついていたわけではないと思い直す。
迂闊に喜ぶのは危険だ、焦らされた分、まだ距離があると知ったら、酷く落ち込んでしまうかもしれない。
けれど皆守の杞憂は、その後の水代博士の発言によって、あっさり打ち砕かれてしまった。
「この組織に所属する、僕の息子、名前を晃というのだが」
晃。
意識が一瞬真っ白に染まる。
「ああ、ちゃんと話しておいたほうがいいね、水代晃、でも、組織内では玖隆晃と名乗っている、僕の息子だと知る人間も、協会の内外を含めてほんの一握りしかいない」
玖隆晃。
くりゅうあきら。
(聞き間違いじゃ、ないよな)
―――今の想いを、どう現せばいいのだろう。
遠くなりかける意識を懸命に留めて、皆守は話の続きに聞き入った。
「少しだけ自慢させてもらうと、晃は僕とカナに似て実に優秀な息子でね、業界ではトップクラスの実力を誇るハンターなのだよ、実際、協会内部で集計しているランキングがあるのだが、これは、仕事の内容などによって点が割り振られるという、まあ悪趣味な趣向なんだけどね、でもやる気を奮発させるには悪く無い仕掛けだ、そのランキングで、数年前からトップの座を独占し続けているんだ」
(やっぱりな)
驚くより当然という満足感。
かつて自分の知る彼も、とても優秀な人間だった。
(知っているさ、あいつなら、それくらいやってのけるだろう)
鼓動が全力疾走した後のように早い。
耳の奥まで、ドクン、ドクンと鳴り響いている。
口の中にたまった唾を飲み込んで、握り締めた両掌は、汗ですっかりぬめっていた。
(晃)
今、遠い記憶の果てに薄れ掛けていた、夕陽の中の後姿が、鮮やかに甦りつつあった。
「けれどね、皆守君」
「は、はい」
「その息子に、今度専属の相棒を持たせようとする話が持ち上がっていてだね」
咄嗟に立ち上がってしまった。
直後にハッと水代の視線に気がついて、慌ててソファに座りなおした。
「す、すみません」
「いや―――どうやら君は、僕が思う以上に、すでに僕の話に興味を持ってくれているようだね」
「ええ、まあ」
水代博士の話す玖隆晃が、あの玖隆晃ならば。
(当然だ)
皆守自身にも大いに関係ある、いや、自らの問題と誇張して明言してもいい。
「ならば、早速本題に入ってしまおう」
水代博士は卓上に身を乗り出してきた。
「今件は晃も乗り気でないらしい、聞き分けのいいあの子にしては珍しいことだよ、だから、僕は、父親として、愛する息子のために、君を本部に推させてもらった」
「え?」
「本部が指定した人間と、君を競わせて、より優秀であった方に晃の専属を任せようと、そういう話になったのだよ」
再び息を呑む。
まさか、馬鹿な、そんな話がと、思考が激しく渦を巻く。
「ずっと以前、君の事を晃に話した時にね」
再びガツンとショックが襲う。
(あいつ、すでに俺のことを知っていた?)
「あの子も、君の成長が楽しみだと、そう言っていたのだよ」
水代博士の楽しげな声が響く。
ショックの連続で、皆守は、半ば茫然自失としかけていた。
「なのに、あの子は真面目すぎるんだ、嫌なら嫌とはっきり言えばいいのに、指令だからとやむを得ず従おうとして」
「専属、という話ですか」
「そうだよ、僕はね、皆守君、本当は君には僕の後を継いでもらいたいと、いや、以前はそんな風にも考えたりしていたんだ」
そういえば、かつて水代が、自分の息子にはそのつもりがないようなんだとぼやいていたのを思い出す。
「でも、僕は、それ以上に息子の、晃の役に立ちたい」
僅かに瞳を眇める、博士は、今ここにいない息子に想いを馳せている。
「僕じゃ歳をとりすぎていて、とてもじゃないがあの子のバディは務まらない、でも君は違う、君ならば、若く、力もある、何より僕が見込んだ君だ、僕は、君に、皆守君に、ぜひとも晃の助けになって欲しいと、そう思っているんだ」
「貴方の息子の玖隆晃氏の、専属バディ、ですか?」
「うん、僕の眼鏡にかなった君なら、安心して息子を任せられる、僕の仕込んだ君ならば」
「俺に博士の代わりが務まるとは、到底思えませんが」
「ハハハ、僕もそんな気ないさ、もっと幼稚な理由だよ、可愛い息子に自分の見立てた服を着せたいのとそう変わらない心理さ」
それで、どうだろうか?
父親から頼まれた。
玖隆の父から、直々に。
(何てことだ)
皆守は言葉に迷い、逡巡する。
(俺は、何と言えばいいんだろう)
答えなら決まっている、それ以外考えられない。
想いもただひとつ、けれど、あまりに多くの言葉で形成されていて、簡単に表現できない。
再会したら何を言おうかと考えていた。
それともまず殴るべきなのか、抱きしめるべきだろうか―――口付けを、交わすべきなのだろうか。
(いや)
まだ早い。
再び自身を戒める。
(願いを叶えるための、最後の試練って訳だな)
なかなか焦らしてくれるじゃないか、けれど、それだけの価値はある。
(少なくとも、俺は)
動転している場合じゃない。
追いかけて、追いついて、捕まえたら、一緒に飛ぶと決めていた。
その一念でひたすら翼を鍛えてきた、まだ完璧では無いけれど、後れを取らない程度には飛べる自信がある。
彼の広い背中を見送る事しかできなかった、あの頃から、時間は確実に流れている。
「わかりました」
ひとつ息を吐いて、大きく吸い込んで、それから、静かに返答した。
「その話、お受けします」
「皆守君!」
水代博士は飛び上がらん程に喜んでいた。
皆守もつられて微笑みかけた口元を、けれどすぐに引き締める。
(まだ笑えない)
再会を果たすまで―――その姿を、捉えるまでは。
(待ってろよ、晃)
そっと薬指のリングに触れた。
かつて胸に灯された炎が、今再び激しく燃え上がり、皆守の決意を煌々と照らし出していた。
(次へ)