そうして、約束の日がやってきた。

実際には数日だったけれど、皆守は千年も待たされたような気分だった。

過ぎてしまえばほんの一瞬だったようにも思う。

現地に至るセスナの機内で、バカみたいにドキドキして、掌の汗を何度もズボンで拭っていた。

殺風景な飛行場に降り立って、そこから車で数時間。

日差しは僅かに南西に下りつつある。

降り立った場所は、どことなく殺風景な緑の景色。

そこかしこに大小さまざまな石が転がっている。

辺りを見渡しながら、何となく落ち着かなくて、懐に手を突っ込み、1本取り出して咥えた。

火をつけて紫煙を立ち上らせた、途端。

 

「―――なあ、それって煙草なのか?」

 

聞き覚えのある声。

忘れるはずもない、あの、心地よい響き。

皆守は煙草を指に移す。

「アロマじゃないんだな」

笑い声。

喉が鳴った。

「覚えてるか、甲太郎」

何を、と頭の中で呟く。

実際には声が出ない。

じゃり、と靴底が砂を踏む音がした。

少し離れた木の影から、足が、腕が覗く、姿が現れていく。

「学名ラバンデュラ・アングスティフォリアまたはオフィキナリス、主だった原産国はイギリス、中枢神経をリラックスさせて、躁鬱やストレス、不眠症なんかに効能を発揮する」

お前が昔、吸ってたヤツだ。

真っ直ぐこちらを向いて立ち、ニコリと微笑んだ。

黒く艶やかな髪、日に焼けた肌、逞しい体躯と、それらにそぐわない優しい面立ち。

吊り目がちな目元に、正午の日差しを受けた瞳の色は、レッド。

少し前に見かけたときは、スコープで隠れていた顔も、今日は露になっている。

前髪が風を受けてサラサラと揺れていた。

背丈は相変わらず、同じか、少し負けているみたいだった。

呆然と立ち尽くしている皆守の前で、おどけた調子で会釈をしてみせる。

「そういえば、自己紹介がまだだったな」

煙草の灰がボロリと落ちた。

「俺は、玖隆晃」

そんな事は知っている。

「ロゼッタ協会所属のトレジャーハンター様さ、この業界じゃお前の先輩で、兄弟子でもある、俺も親父に仕込まれたクチだから」

18歳の玖隆があれほど博識だった理由を今更のように理解した。

「色々と分からない事も多いだろうから、何でも訊いてくれて構わないぜ、いつかの恩返しだ」

バカ言うな、と思う。

(恩を返されるほどの事を、俺は何もしちゃいないだろうが)

むしろ、礼を言わねばならない。

あの頃彷徨っていた闇の中から連れ出してくれたのは、間違いなく、今目の前にある輝きだった。

酷く焦がれて追い求めた。

そのためだけに、こんなところまでやってきた。

姿が近づいてくる。

靴底が土を踏んで、砂利を踏んで、一歩、また一歩と近づいてくる。

最後に残されていた距離を、呆気ないほど容易く、あれほど遠く、思い返せば果てしなく見えた道程を、軽やかな足取りで。

「よろしく」

差し出された手は随分立派になっていた。

「仲良くしてください」

微笑みかけてくる玖隆に―――皆守は、フッと瞳を閉じた。

そのまま肺の中を新鮮な空気で満たしていく。

つい先ほどまで早鐘のように鳴り響いていた鼓動が、今は凪の穏やかさで心音を刻んでいる。

心地良く吹き抜ける風と、目の前にある気配。

瞼を開けても、もう、玖隆の姿は消えたりしない。

繰り返し見続けた夢の延長なんかじゃない。

歓喜が、興奮が、全身に沸き起こる。

堪えきれず、なみなみ注がれた想いを吐き出す代わりに、指先の煙草をひと吹きした。

何を話そう、何から言ってやろうかと、散々考えていたはずなのに、陳腐な言葉しか浮かんでこない自分がバカらしくて笑えた。

「お前に一つだけ、忠告しておく事がある」

何だ、の声を聞きつつ、ポケットから取り出した簡易灰皿で火をもみ消す。

ポケットに戻す動作の延長で腕を伸ばし、玖隆のシャツを捕まえた。

(捕まえた)

ようやく掴んだ。

この手で、再び。

あの時と同じ瞬間を迎えるまで、十年近くかかった。

(二度と離すものか)

確かな感触を引き寄せる勢いのまま、唇を重ねて―――漏れてくる吐息も全て奪うように、深く、深く口付ける。

これまで交わしたどのキスも、あの日と、そして今のキスには及ばない。

離れていた距離や時間を一息に埋めるような、熱烈なキス。

ようやく解放されて、僅かに息を乱した玖隆の目の奥を見詰めながら、皆守は泣き笑いの表情で懇願する。

「もう二度と、俺を置いていくな、二度と1人で―――飛んでいくんじゃない」

わかった、の声。

優しい微笑みに、思わず視界を濁らせながら、皆守は掴んだシャツの襟元に顔をうずめていた。

 

「甲太郎が追いかけてくるなんて思いもよらなかった」

「フン、どうせそんなことだろうと思ってたぜ」

薄情なお前のことなどお見通しだと、苦笑いを浮かべる玖隆に追い討ちをかけて、皆守は舌打ちをもらす。

「大方、お前はお前で達者にやれよとか、そういう調子のいい事でも考えていたんだろうが」

「心理学まで勉強したのか、凄いなあ」

「バカ、お前の性格を知っていればな、これくらいは、予想の範疇なんだよ」

並んで歩く二人の間に、十年の時が横たわっていると、とても思えない。

すっかり以前の調子を取り戻したように見えて、実はお互い少しずつ浮き足立っている気がする―――錯覚だろうか?

今度の遺跡調査はかなり大掛かりに行われるらしく、他数名のハンターやバディとの合同作業になると、依頼書には記してあった。

遺跡の近くに簡易施設を組んで拠点を設置し、数日かけて行う予定で、玖隆は新たに派遣されてくる自身の専属バディを迎える名目で待っていた、と、とってつけたような説明を聞かされた。

早速二人きりになれない不満を露にする皆守に対して、あえて突っ込んだ理由を聞いてこない、玖隆の狡さが傍らに立つ仏頂面の機嫌をますます悪化させていく。

(流石に、会ってすぐってのは、ないだろ)

それに、これでも一児の父親なんだぞと、内心牽制をかけておく。

最も再会を果たした地点で、皆守の暴走はある程度予想の範囲にあるけれど。

「何だよ」

「別に?」

視線に気付いて眉間を寄せた皆守に、玖隆は首を振り返す。

「そういやお前」

「ん?」

「俺がお前の親父さんの弟子になってたこと、随分前から知ってたそうだな」

「うん」

悪びれもせず、こいつめと、皆守の眉間の皺が深くなる。

「それともう一つ」

「何ですか」

「アリアってのは、どういうことだ」

ビクリと肩が震えて、振り返った玖隆は急にペラペラとまくし立てた。

「アレだろ、オペラやオラトリオなんかの、大規模かつ多数の曲の組み合わせで作られてる楽曲の、叙情的だったり、旋律的な独唱曲なんかにつけられる名称の」

「能書きはいい、俺が聞いているのは、女の子の名前だ」

「へえ、甲太郎、俺というものがありながら、一人前に女がいるのか?」

「晃」

「―――わかってるよ」

しかし、どこから話そうか。

すっかり怖い顔になっている皆守をちらと伺い、玖隆はため息を漏らす。

色々、あったのだ。

お互い様だろうが、屋上での別れから、とても長い年月が流れた。

あの日の夕陽の色は鮮明に覚えているけれど、すでに俺たちは、あの頃と同じではない。

「そうだな」

それでも、皆守には話しておかなければならないだろう。

どれほど、苦痛を伴う過去だとしても。

まだ過去になりきれていない思い出だとしても。

そして―――

「この仕事が終わったら、今までの事、全部話すよ」

だから甲太郎、お前も。

「俺に会うまで、どこで何をしていたのか、全部話せよ?」

皆守は少し黙り込んでから、「おう」と低い声で返事をした。

笑い返した玖隆の頬を、柔らかな風が撫でて、抜けていった。

「さて、基地が見えてきたぞ」

今歩いている場所は、さまざまな種類の雑草が無造作に生え乱れている雑木林のような場所で、その中に、目を凝らしてようやく判るほど紛れ込んだモスグリーンの布地が僅かに覗いている。

「他の奴等にもお前を紹介しないとなあ」

「晃」

「あのさ、仕事の時は、コードネームで呼んでくれる?公私のけじめはきっちりつける、それがプロってもんだぜ」

「そんな事は分かっている、プラヴァー、それより」

「何か変な感じだな、お前にコードネームで呼ばれると、ちょっとした違和感だ」

「どっちなんだよ、そんなことより」

「そうだ、お前のコードネーム、まだ聞いてないぜ」

「―――スナイプだ、それより晃」

「スナイプ?!」

「聞け」

声を上げた玖隆の、腕を掴んで引き留めて、皆守は改めて真っ直ぐ目を見詰める。

「さっきの話」

「何だ?」

「女なんていない」

「は?」

「お前だけだ」

喉元でチェーンに通した金環が光っている。

「冗談でも、一応、断っておく、俺にはお前しかいない、俺の全部を預けられるのは、お前だけだ」

玖隆の目が、僅かに見開かれた。

「はっきり言わせて貰えばな、今だって、かなり堪えてやっているんだ、散々待たせやがって、だが仕事に私情は持ち込まない、それ位わかっている、だから俺も、この仕事が終わるまで、これ以上はしないでいてやる」

「これ以上、って」

「分かるだろう?」

咄嗟に後退りをしようとした玖隆の腕を捕まえて、強引に引き寄せる。

「キスなら、挨拶だからな」

唇を重ねようとして、振り払われた。

「お、お前のは、挨拶じゃないだろ!」

「当たり前だ」

「ふてぶてしさが増したんじゃないのか、スナイプ、俺の知ってるお前は、もう少し恥じらいがあったぞ」

「これだけ歳を食えば面の皮なんか厚くなって当然だ、お前こそ、何を今更、処女みたいな事言いやがって」

「俺はな、ある意味処女なんだよ!」

「へえ、そいつは―――」

うっかり洩らした失言に、ハッと息を呑む。

「楽しみだ」

ぺろりと唇を舐めた皆守の仕草を見て、玖隆は青ざめていた。

(悪い冗談と言ってくれ、頼むから)

不意に、騒ぎを聞きつけた誰かが、テントから玖隆を呼んでいた。

声にビクリと身をすくめて、再び皆守を見ると、何食わぬ様子で煙草に火をつけている。

離れていた間の長い年月が、色々と磨きをかけてしまったようだ、いい意味でも、悪い意味でも。

ため息を漏らして歩き出した玖隆に続いて、皆守も足を運ぶ。

コンビの未来に横たわる、玖隆にとっては不吉な影に、当事者は言い様のない感情を抱きながら、僅かに肩を落としたのだった。

 

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