「はーあああァァ」
何だかもう、全然わけが分からない。
変な音程でため息をつきながら、ちょっと気だるい体に鞭打って、プリントの空欄をガシガシ埋めていく。
現代国語の授業が一時間目でなくて本当に良かった。
SHRまでまだ少し時間もあるから、あたしは物凄い勢いでシャープペンシルを走らせていた。
チラッと見ると、皆守も同じ様に背中を丸くして、机にかじりついている。
珍しい光景にクラスメイトたちもチラチラと様子を窺っているみたいだった。
「こういうの、青天の霹靂って言うんだよね」
あたしの隣でプリントを覗き込みながら、八千穂さんがニッコリと笑いかけてくる。
「皆守君もようやくその気になってくれたみたいだね、先生は嬉しいぞッ」
「ぬかせ、誰が先生だ」
こんな状況でも、突っ込みだけは欠かせないらしい。
(業深い性格なんだなあ)
後ちょっとでプリントは終わる。
皆守も、あたしが貸した国語辞典を活用して、ほぼ同じペースで回答を進めているみたいだった。
―――昨日、あたしは約一週間と数日分の支払いを、ひとまとめにして払わされた、感じ。
思い出すのも恥ずかしいようなアレコレ。
貪るように欲しがる皆守に、あたしは望まれるだけ、全部あげた。
こういうのなんて言うんだろうね?『溜まってた』のかな、色々。
世界が何度も真白く染まって、もしかしたら初めてかもしれないけれど、今までに考えられないくらい―――ちょっと、その―――はっきり言って、物凄く気持ち良かった。
あたしも「もっと、もっと」って欲しがっていたような気がする。
あくまで気がするだけだけど―――途中から記憶とか意識の辺りが混沌としているし。
今も、昨晩の事や、皆守の姿を見ただけで、思い出して顔が少し熱い。
何だか奴の背中に今すぐ抱きつきたいんですけど!ううーッ
(ホントあたし、おかしいよ!)
さっさとプリント片付けちゃおうって、最後の問に答えを書き込んでいく。
仕上がった途端、チャイムの音と、教室のドアがガラリと開かれた。
「皆さん、おはようございます、席に着いてください」
周りでバタバタと足音がして、八千穂さんも黒板に向き直っていた。
いつもどおり姿を現した雛川先生の、後から続いて入ってきた姿に、あたしは思わず「あっ」と声を漏らす。
「今日はまた一人、転校生を紹介します」
チョークを持って黒板に名前を書く先生の隣で、男の子は行儀よく立っていた。
昨日と違うのは、天香学園の男子用制服を着用しているのと、装飾品の数が少しだけ減っている。
男の子は、昨日、夕暮の廊下で出会った『彼』だった。
「始めまして」
『喪部銛矢』って書かれた文字の手前で、喪部君は丁寧にお辞儀した。
雛川先生が紹介している間に、教室内を見回していた視線が、あたしにぴたりと止められる。
(うッ)
ぞわりと。
また妙な嫌悪感―――どうしてだろう、気持ち悪い。
「よろしく」
喪部君は指定された席に着いた。
あたしは視線を逸らして、混乱しかけた気持ちを落ち着けようとする。
この人は嫌だ。
理由なんて得にないけれど、強いて言うなら、雰囲気が気に食わない。
一挙手一投足に至る全てが、あたしの中の何かを刺激して、拒絶反応を起こさせる。
理屈じゃないんだ。
皆守の事も、以前は鳥肌が立つほど嫌だったけれど、その時とは明らかに違う『嫌』が喪部君にはある。
(これは、何?)
謎だ。
SHRが終わり、雛川先生が教室を出て、入れ替わりに担当教科の先生が教室に入ってきても、相変わらずあたしはモヤモヤした気分を持て余していた。
皆守のことと喪部君のことが、内側でゴチャゴチャに絡まりあっているみたいだった。
「また転校生だねえ」
「そうだね」
一時間目が終わってすぐ、八千穂さんが話しかけてくる。
「今年に入って三人目だよ、あれ、四人目だったかなあ」
「あんまり人数が多いから、記憶がこんがらがってるの?」
「うん、そゆこと」
笑う八千穂さんに、あたしもニヤリと笑い返した。
(そうか)
考えてみれば、たったひと月の間に2人もの生徒が転入してきた事になるんだ。
(確かに、記憶もこんがらがるかも)
ざわつく教室内で、不意に、音声が凪いだ。
顔を上げたあたしと、釣られて見上げた八千穂さんの視線の先で、近づいてくる喪部君の姿が見えた。
「やあ」
何気ない仕草の挨拶。
けれど、彼はどこか隙がない。
「こんにちは」
とりあえず普通に挨拶を返すと、困惑しているあたしとは裏腹に、八千穂さんは無邪気な様子で「初めましてー」って笑顔を向けていた。
喪部君は一瞬ちらりと視線をやってから、あたしだけを真っ直ぐ見詰めてくる。
「キミ、確か―――玖隆あきら、だね?」
(えッ)
薄い唇にフッと笑みが浮かんだ。
「この学園には他所ではお目にかかれない面白い場所があると聞いたんだが」
久々に、そう、随分久々に、あたしの中でアンテナがピコンと立ち上がる。
(この人)
もしか、しなくても。
「よかったら今度、案内してくれないかい?」
「―――機会が合えば」
「くくくッ」
キミ、悪くないねって、つりあがった唇がますます歪んでみえる。
嫌な笑い方。
八千穂さんの笑顔と全然違う。
(やっぱりこいつ)
ようやくわかった。
どうしてこんなに気持ち悪いのか。
警戒してしまうのか。
その答えが今、明確な単語として、脳裏に浮かび上がってくる。
―――全部この間のフィルの情報提供のお陰だ。
(多分、あたしの推察は、間違っていない)
喪部君はわざとらしく前髪をかき上げていた。
「そのうちゆっくりと話をしよう」
ゆっくりと、ね。
背中を向けて、立ち去っていく姿を、あたしは目で追い続ける。
喪部銛矢、早速いいご挨拶じゃないの。
(上等だわ、そういう事なら、受けてたってあげる)
まさか同年代の人間を送り込んでくるとは思わなかったけどね。
でも、考えようによっては、適切な人選といえない事もない、か。
頭の中が妙に冷え切って、冷静すぎるみたいだ。
傍目にはぼうっとしていたあたしの制服の裾を、隣から伸ばされた指先がつんつんって引っ張っていた。
「ねえ、あーちゃん」
「うん?」
「喪部クンって、なんていうか、ちょっと雰囲気が怖いね」
振り返ったあたしは苦笑いを浮かべる。
「そう、だね」
「―――でも、せっかく同じクラスになったんだから」
仲良くなれればいいなって。
思わず、八千穂さんを見詰めてしまった。
(この人って、なんて)
いい人なんだろう。
八千穂さんは根っこから気のいい、善人なんだ。
疑うってことを知らない―――まるで、咲き誇る大輪のひまわりの花。
「そうだね」
微笑み返すと、八千穂さんの頬がポッと色づく。
それを見てあたしは、僅かな罪悪感に駆られてしまう。
そうだ、そんないい人を、あたしは騙し続けているんだ。
性別を偽って、そのせいで、余計な期待を抱かせて。
(ハッキリと、断っておくべきなんだろうか)
無粋な考えが脳裏を過ぎる。
直後にチャイムが鳴り響いて、八千穂さんが慌てて正面に向き直ったから、あたしも姿勢を正した。
それでも気持ちは全然切り替えられない。
喪部君のこと、八千穂さんのこと。
教科書を開きつつ、苦笑いがもれる。
(今だけは、この時間に集中しよう)
面倒な事はとりあえず、全部後回しにして、あたしは今だけ、勤勉な男子生徒のフリを続けた。
(次へ)