翌朝。

「あー」

鏡を覗いたら、酷い顔の少年。

(誰よ、バカ)

あたしは顔を洗って、それから玄関のドアが見えないくらい積み上げられたダンボールを見上げた。

「あぁー」

錯乱してたんだなあ。

およそ手の届かない位置まで届いているアレは、根性で放り投げたんだっけ?

おろすのが大変そうで、実際大変だった。

ようやく通行規制が解かれたのはいいんだけど、振り返れば部屋も酷い状態。

初心、なんて文字は、きっとあたしの辞書に書き込まれていないに違いない。

(とにかく、器物破損せずに済んだことだけは、よかったな)

グシャグシャに丸められて湿気たシーツはランドリーに突っ込んでくるとして、制服の皺はもうどうしようもない、諦めよう。

格好を整えて、簡単にベッドメイキングを済ませて、あちこち散らばったアレコレを片付けていたら、とっくに朝のHRの時間を過ぎていた。

まあ、今日ばっかりは仕方ないよね。

もう一度鏡を覗き込んで、寝癖を気持ち程度整えて、カバンの中を確認してから、防寒具を着込んで部屋を出た。

寮の廊下には誰もいない。

もちろん、通学用の通路にも、人の姿は見つけられなかった。

「シャッチョウ出勤だ、お主もワルよのう」

ふざけた調子で呟いた声が、北風に乗って空に飛んでく。

大丈夫みたい。

一晩寝たら、いつものあたしに戻ってる。

朝の光はキラキラ綺麗で、眺めならがのんびり歩いていたら、だんだん楽しさがこみ上げてくるみたいだった。

悩んで泣いて身悶えちゃう、そんなの柄じゃないもんね。

でも、なんだろうコレ、いい匂い。

学校の方から漂ってくるのかな?

少し冷たい風が、柑橘系の甘い香りを、ふわり、ふわりって運んでくる。

温室からかな?

でも、あそこにミカンの木とか、あったっけ?

昇降口から階段を上がって、こっそり教室のドアを開ける。

「こら、玖隆、遅刻だぞ」

「エヘヘ、すいませーん」

クラスの皆に笑われながら、あたし、席に到着。

教壇に立つ先生も、あんまり怒ってないみたいで、助かった。

っていうか何なの?

このみょーに和やかな雰囲気は。

(匂いのせいかな)

外で感じたのと同じ匂いが、教室中にも充満してる。

しかも、さっきよりずっと濃い。

ここまで強い香りだと、かえってぼんやりしちゃうみたい。

あたしとしてはラベンダーの香りのほうがずっと好みなんだけどなあ。

(そういえば、皆守は)

―――いない。

こっそり窺い見たら、あいつの席だけぽつんと空いてた。

ホッとしたんだけど、それ以上にガッカリしたような、妙な気分。

(だ、ダメダメ、皆守の事は、考えない!)

ついでに昨日のことまで思い出しそうになって、慌てて気持ちを切り替える。

今日は、絶対フィルから事情を訊き出さないと。

そういえばフィルの姿も見えないな。

転校翌日に欠席だなんて、いい度胸してるじゃないの。

(まさか、二人が一緒なんてこと、無いよね?)

少しの不安が頭を擡げる。

また振り払って別の事を考える。

そういえば今朝ってご飯食べ損ねた、すっかり忘れてた、でもお腹減ってないな。

お昼はマミーズにしようか、それとも売店で買うかな。

(か、カレーは、食べないもん)

ああもう、そうじゃなくて!

そ、そうだ、お仕事、お仕事。

トト君の一件もひと段落着いたことだし、先のフロアの探索にそろそろ取り掛からないと。

(そういえば)

執行委員って、まだいるんだろうか。

天香遺跡探索開始以来、順番にあたしの前に立ち塞がってきた、生徒会の人達。

取手君、椎名さん、朱堂君、肥後君、真里野殿、墨木君、トト君。

構成員がどの程度いるのかわからないけれど、役員の総数5人っていうのはこの間知った。

生徒会長の阿門君に、書記の神鳳君、副会長補佐の夷澤君。

阿門君との戦闘だけは、これはもうお互いの立場の性質上、回避不能なんだろうと思う。

まだあんまり知らない神鳳君や、夷澤君なんかもそうだ。

まあ、全員男の子だしね。

いざとなったら、ぶっ飛ばす事も、致し方ない。

悪いけど、あたし女の子ですから、男の暴力には断固抵抗させていただきます!

(でも)

フッと脳裏を過ぎる、赤い髪。

双樹さんの事だけは―――辛いなあ。

できれば戦いたくない。

でも双樹さんが同じように考えてくれるかどうか、わからない。

意見が食い違えば、結果あたしたちは戦うことになるんだろうか。

(それは、凄く、イヤなんだけど)

ハア。

ため息が漏れた。

もう一つの懸案は、唯一正体の割れていない副会長の存在。

夷澤君が副会長かと思ったんだけど、それは皆守が全面的に否定していたから、きっと違うんだろう。

じゃあ、誰?

そもそも、男なのか女なのか、それすらわかっていない。

個人的希望をいえば、あたし好みのハンサムがいいんだけど、その辺りどうなんだろう。

皆守が副会長だったりして。

(アッハハ、まさかね)

―――って、その思考は一体どこからやってきたのよ。

(ち、違う違う、皆守は、別に好みじゃないし、確かに格好いいとは思うけど、でも酷い男だし、案外優しいけど、でも隠し事多そうだし、エッチも上手だけど無理強いばっかりしてくるし乱暴だし意地悪だし甘ったれてるしッ)

っあー!

な、な、何考えてるの、あたしッ

ぐるぐるぐるぐるしてる間に、気付けばチャイムの音が鳴り響いていた。

立ち上がって、礼をして、先生が教室から出て行く。

興奮して鼻息の荒くなっているあたしを、隣から八千穂さんが覗き込んできた。

「どうしたの?」

「えッ、あ」

「今朝、遅かったね、寝坊?」

「うん、まあ」

「そっか、昨日は何だか元気がなかったから、今日はお休みかもって思ってたんだ」

気遣ってくれている、声と表情。

あたしは急いでゴメンねって答える。

「大丈夫だよ、もう平気、心配かけてごめんね、ありがとう」

「ううん、いいの」

嬉しそうな笑顔の頬が、不意にぽわっと赤く染まる。

(うっ)

「あたし、あーちゃんが元気でいてくれたら、それでいいんだ、だってあたしはあーちゃんの事が」

「や、八千穂さんッ」

その言葉を言わせてなるものか!

(何を言うつもりか、知らないけれど)

半ば強引に話の腰を折ってみたものの、続く会話の内容を何も考えてなかった。

急いで視界の中を探って、話の種になりそうなものを探す。

ええっと、ええっと―――

「どしたの?」

「い、いや」

アハハ。

(えーっと)

大量に飛び込んできた情報の中で、ふと気付いた。

あれ?

そういえば。

「八千穂さん」

「何?」

「あのさ」

言いかけて、途端、ハッとした。

意識が形をとる前に、いきなり丸ごと消滅してしまう。

(えッ)

本当に一瞬、まるでマジックみたい。

必死になって思い出そうとしてみるけれど、何か思っていた気配が残っているだけで、それが一体なんだったのか、大切な部分がまるで蘇ってこない。

こんな事ってありうるの?

(一体どういう事?)

「なあに、あーちゃん」

「いや、えっとさ」

「どおしたの?さっきから」

「あ、ええっと、アレだよ、何か、アレは、えっと、つまり」

柑橘系の濃厚な香りが、教室内に充満している。

頭の晋が痺れるみたいにぼうっとして、どんどんモノが考えられなくなっていくみたい。

やっぱり、コレのせいなのかな。

気付けば八千穂さんもとろんとした目をして、夢見心地で意思の感じられない笑顔を浮かべている。

周囲をぐるっと見回してみたら、教室にいる全員が、そんな感じになっていた。

むせ返るような甘くて深い香り。

気味の悪い違和感の正体を見極められないうちに、次の始業のチャイムが鳴り響く。

教室のドアを開いて、現れた先生と入れ替わるみたいにして、あたしは教室の外に飛び出していた。

八千穂さんの呼ぶ声が聞こえた気がしたんだけど、構ってなんていられない。

(いけない、このままじゃ)

あたしまで、おかしくなっちゃう―――

急いで廊下の反対側に等間隔で並んでいる窓の一つに駆け寄って、大きく開け放った。

(ダメッ)

同じ香りの風が吹き込んでくる。

ここじゃダメだ、もっと高くて、もっと風のある場所に行かないと。

(屋上に行こう!)

あたしは淀んだ空気の中、走り出していた。

見えている景色はいつもと同じなのに、まるで悪夢の中にいるみたい。

のろのろとしか動かない両足を必死に励まして、廊下を抜けて、階段を登りきる。

錆付いた蝶番をきしませて、大きくドアを開け放った。

大量の風がざっと全身を撫でながら吹き込んできて―――あたしの意識は、ようやくハッキリと覚醒していた。

(うう、やっぱり寒いな)

身を切るような北風に、あえて胸を張って踏み出していく。

防寒具もなしに出て行くような気候じゃないけれど、頭の中が濁っているよりは、ずっといい。

天上の薄い青と、足元にはくすんだ灰色のコンクリート、フェンスの向こうに見える墓地の辺りの森。

その更に向こう、うっすら煙る東京の街並み。

白っぽい太陽。

給水塔の影を踏んだら、低い声が降ってきた。

 

「あきら」

 

直後に動けなくなるあたし。

そろそろ、と見上げると、給水塔の脇に腰掛けている姿を見つける。

「皆守」

声がかすれた。

皆守は、暫くあたしを眺めて、身軽な動作でぴょんと飛び降りてきた。

前を開いた制服のジャケットがふわりと持ち上がって、下がる。

長い両足が見事な着地を決めて、何と言うか、その。

(格好いい)

向かい合ったら、またあの感覚が押し寄せてきた。

急いで視線を逸らそうとしたんだけど、すぐ「おい」って呼び止められてしまった。

「お前もあの匂いから逃げてきたのか」

「えっ」

目が合っちゃった。

真っ黒くて深い瞳、吸い込まれそう。

ドキドキして、顔もちょっと熱いみたい。

(どうしよう)

距離が近づいたら、ふわんとラベンダーが香ってきた。

「あきら」

「な、何?」

「―――捜しているものは」

(エッ)

「捜しているものは、あるか?」

咄嗟に首を傾げそうになったんだけど、すぐ思い至って、あたしは首を縦に振った。

「そうか」

指先でアロマが煙っている。

少し渋い表情の皆守は、小さくため息を漏らす。

そのまま目を眇めて、パイプから昇っている煙をゆっくりと吸い込んだ。

「もし、お前に探す気があるのなら―――俺も手伝ってやる」

(手伝う、って)

皆守は知っているのかな。

あたしが思い出せなくて、なくしてしまった何かの存在。

でも、何で?

ラベンダーの香りを嗅いでいるから、他の匂いが効かないとか?

(まさか)

あたしは皆守をじっと見詰める。

話しをする姿が、どこか少し苦しげに見える。

「見当はついているのか?」

「う、ううん」

「なら、時計台に行くぞ」

「時計台?」

質問する間もくれないで、皆守はさっさと歩き出していた。

あたしは慌てて後から続く。

「み、皆守、時計台って?」

「時計のある台の事だ」

「それくらいわかるって!そうじゃなくて、何でそこなの?」

「―――ついてくればわかる」

さっぱり要領を得ない。

どうしてそんな場所へ行こうとか言い出したんだろう。

(っていうか、何であたしはおとなしく後からついて歩いてるの?)

わからないけれど、それは多分、皆守が妙に確信的だからかもしれない。

口調や動作に迷いがないからだ。

どうして?

胸の奥の方で、ザワザワ、ザワザワ、何かの音が聞こえている。

それは胸のドキドキと一緒になって、あたしの内側によくない形の影を形成していく。

ごちゃ混ぜになった気分のまま、前を行く皆守の背中だけを見詰めていた。

皆守の咥えているラベンダーのパイプの香りが強すぎて、他の匂いはあたしにまで届いてこなかった。

 

次へ