時計台に来たのは、今日が初めてだ。
埃っぽい階段を上りきったら、少し広い空間に出た。
奥の方に見える、重厚な木製の扉。
その手前に。
「―――早かったわね」
真紅の髪をかきあげて、ピンヒールの底がコッと音を立てる。
あたしは皆守を追い抜いて、飛び出していた。
「双樹、さんッ」
目が合った途端、双樹さんは寂しげに微笑み返してくる。
ここでの大親友で、あたしの大切なお友達。
美人で親切で優しい、でも双樹さんは生徒会の会計担当。
「あきらくん」
「どうして?」
あたしはまだ、認めたくない。
「どうしてこんな場所にいるの?」
「わかっているでしょう?」
質問に質問で返すなんて、0点だ。
より濃い香りが双樹さんから漂ってくる事に気付いて、あたしは半ば覚悟を決める。
そうなんだ。
やっぱり、無理なんだ。
「もしかして、この匂いって、双樹さんが」
双樹さんの白い指先が、豊満な胸の谷間に差し込まれて、何かをするりと抜き出した。
それは、銀の鎖で吊るされたペンデュラム。
先端は香水入れになっているらしい。
顔の前にかざして、振り子のようにゆっくり揺らし始めた。
「貴方に、少しだけ訊きたい事があるの」
「何?」
さっきまで感じていた柑橘系の香りが、息苦しいほどに漂っている。
頭の芯が、何だか少し、ぼんやり痺れ始めていた。
「古事記に記されてある、木花佐久夜毘売と石長比売のエピソードをご存知?」
知っているような、知らないような。
「確か、邇邇芸命の嫁取りの話じゃなかったっけ、天孫とか、そういう」
仕事に関係ありそうなことは一通り勉強しておいた。
天香遺跡は日本書紀の形式に近いから、そのあたりの文献もいくつかさらって読んである。
双樹さんは満足げにニッコリと微笑み返してくる。
「そうよ、博識ね、あきらくん」
「それと、これと、何の関係があるの」
「邇邇芸命は、二人の女神を妻として与えた父の意向をまるで考えなかった、見た目の醜美、つまり、移ろいやすい表面的なもので判断を下したのよ」
銀色が視線を往復するたび、どんどん意識が曇っていくみたい。
向こう側に見えていた双樹さんの姿が、ぼやけた影みたいに変わり始めていた。
(いけない)
これは、あまり良くない兆候のような気がするんだけど―――
「ねえ、あきらくん」
貴方はどうなのかしら。
(あたし?)
首をかしげる。
双樹さんの声が、どこか遠く感じる。
「その目に映るもののみに価値を見出すのかしら、それとも」
「あたしは」
よくわかんない。
だけど。
「変わることも、変わらないものも、全部ひっくるめて生きてるってことなんじゃないかな」
そりゃ、人の気持ちなんかは変わる。
生きてるんだから、歳だってとるし、時間にはどう足掻いたって勝てない。
そういう風に出来ているんだ、そして、それが『生きる』って事だと思う。
でも、大切な思いや、記憶や、過去だけは、どれだけ時が経とうと、変わることはない。
誰かを好きな気持ちも、例え形は変わっても、在りつづける事はできる。
「価値は、自分で決めるもの、誰かに見出してもらうものじゃない」
だからあたしは生きている。
なんでも全部、自分で決めて、自分で選んで、自分で歩く。
「では貴方は、自分の決定に確固たる自信と誠意を持っていると、断言できる?」
「できる」
「独善的なのかしら、それとも自意識過剰なのかしら?」
「わかんないよ、でも、間違っていたとしても、あたしはあたしの決めた事を後悔しない、少なくともその努力だけはしてるつもり」
「貴方の愛している人が、貴方を裏切っていたと、知ってしまっても?」
「信じることをやめなければ、裏切られる事も、ないんだよ」
―――そう。
「強いのね」
笑い声。
「それなら、貴方はどちらにより価値を置くのかしら、例えば私は?」
「双樹さんは、友達だよ」
「そう、なら―――」
彼は?
(誰の事?)
振り子が揺れている。
柑橘系の香りに混じって、知っているような匂いが鼻先を掠めていた。
「彼の事はどう?あなたにとって、彼は、何?」
「あ、たし、は」
誰?
誰の話をしているんだろう。
あたしは今、誰と話しているんだろう。
だんだんわからない、頭がボウッとする。
世界がぐらぐら揺れて、ここがどこなのか、今何をしているのか、よくわからない。
「貴女は」
わ、たし、は?
「―――天香学園の、女生徒よ」
じょせいと?
「そう、二ヶ月前に転校してきた、貴女は、スカートの似合う、ごく普通の、可愛らしい女の子」
あたし、そうなの?
「ご両親は外国で生活していて、貴女は寮暮らし、少しやんちゃが過ぎるから、体には怪我がたくさんあるけれど、でもそれを全部受け止めて、愛してくれる恋人がいる」
あたしに、こいびと。
「成績はいいわね、運動神経もいい、あなたの名前は九龍あきら」
目が回る。
ぐるぐる、ぐるぐる、世界が回る。
渦の中心で揺れながら、あたしは、ごく普通の女の子で、ちょっと傷だらけだけど、全部愛してくれる恋人がいて、スカートがよく似合って、それで。
「くろう、あきら」
それがあたしの名前。
「恋人の名前は」
こいびと、は―――
いきなり、怒鳴り声が聞こえた。
ぐらりと視界がぶれて、足元がもつれて、倒れる。
ぶつかったのに痛くなかった。
急に口を塞がれて、息ができない。
鼻先に香る、花の匂い。
ああ、これ、ラベンダーだ。
ラベンダーの強い匂いが、さっきまで感じていた匂いを全部打ち消していく。
窒息しそうなくらい、深く呼吸を止められて、ようやく解放されて、必死で吸い込んだら肺の中がラベンダーの香りで一杯になった。
咽るあたしの傍らで、何かが空を切って、香りを拡散させている。
いつの間にかしゃがみ込んでいて、のろのろした動作で見上げたら、傍に肩で息をしている皆守と、少し離れた場所に驚いた表情の双樹さん。
あたしの錯覚かもしれないけれど―――双樹さんは、ちょっと楽しげにも見えた。
「やめろ」
皆守の低い声。
何か考え込むように顎に指で触れていた双樹さんの、真っ赤なルージュを引いた唇の端が、ヒュってつり上がる。
「そう」
ふわりと髪をかき上げて。
「あの話、反故にするというのね?」
―――あの話?
ふと差し出された手に、あたしは皆守を見上げてから、つかまった。
持ち上げられて、そのまま、引き寄せられる。
胸元に顔面からぶつかって、また鼻がちょっとだけ痛かった。
皆守の腕が背中に回って、あたしの体を抱いていた。
「いいのかしら?」
双樹さんの声。
抱く腕に力が籠もるのがわかる。
「そう」
ラベンダーの香りを吸い込みながら、あたしは何とか振り返った。
直後に双樹さんと目が合って、凄く優しい眼差しが微笑みかけてくる。
「それなら、今だけ、貴方の愛情に免じて引いてあげる」
愛情?
「それが阿門様のご意思でもあるし、それに」
あきらくんとは、いずれあの場所で会うのだから。
口調は穏やかだけど、ゆるぎない意志を感じさせる姿に、あたしは何も言えなかった。
ただ一つだけ、わかったこと。
それは、双樹さんとの戦闘はやっぱり避けようがないんだっていう、痛い現実。
「じゃあね、あきらくん」
ウィンクして、ヒールの靴底がくるりと踵を返した。
そのままコツコツと歩き去っていく姿を見送ることしかできない。
苦しくて、切なくて、声をかけたかったんだけど、何を言えばいいのか分からなかった。
少しだけ項垂れたあたしの体を、皆守がギュって抱き寄せていた。
あったかくて、少しだけ落ち着く。
(でも)
「あきら」
顔を上げて見上げた皆守は、眉間に皺を寄せて少し厳しい顔をしている。
何だか泣きそうに見えて、あたしは思わず頬に手を伸ばして触れた。
皆守は何も言わない。
ただ、あたしのおでこにキスをして「行くぞ」って言うから、腕から抜け出して歩き始める。
目の前にある、時計台の扉。
ノブを回してみたら、施錠はされていない。
開いたドアの隙間から暖かな空気が流れ出してきて、そして―――
「玖隆さん」
部屋の中に立っていた、白岐さんの姿を見つけて、あたしはようやく、自分が何を忘れていたのか、思い出していた。
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