「そのリングは、俺が、本気で愛した女性に贈るはずだった、婚約指輪の片割れだ」
風が吹いている。
夕陽を映す玖隆の瞳は、まるでいつかの再現のように、焔の輝きを宿す。
「名前をジョーゼットという」
皆守は自らの左手薬指に嵌められたリングに視線を落としていた。
この、小さな金輪。
表面に彫られていた文字は、何かのつづりの片割れのようだった。
おそらく、玖隆の持つものと合わせれば、一つの単語が出来上がるのだろう。
「綺麗で、聡明で、強い人だった、俺より四つ年上のハンターで、俺よりずっと優秀だった」
真紅の奥が揺れている。
そこに映る影に、彼の中でまだ何かの感情が終わっていないことを感じて、皆守は再び視線を落とした。
吹く風は冷たく、肌を切り裂いていく。
まるで、哭いているかのように。
「俺の全てだった、彼女は、本当に、太陽みたいな女性だった」
「晃」
耐え切れず、声を上げた皆守に、玖隆はそっと微笑みかける。
その手をとって、見上げた不安げな瞳に、静かに頷き返した。
「そんな顔するな、今となってはもう―――過去の話だ」
「何故」
「彼女はすでに、この世界にいない」
途端、漆黒の双眸がハッと瞠目する。
「―――死んだ、もう一年も前の事だ」
そうして、深紅の瞳はゆっくりと、夕映えの景色に移った。
「最初の任務先で、同行したバディに裏切られたんだと聞かされた、遺体は墓守の獣に食い荒らされて、装備品でようやく彼女と判別できるような状態だったらしい、俺は、その姿も、彼女の墓がどこにあるのかすら知らないんだ」
掌が微かに震えているようで、強く握ると玖隆は横顔で笑う。
実際は、震えてなどいなかった。
けれど言いようのない思いに、皆守は息を詰める。
抱きしめる事すらできず、ただ呆然と、見ていることしかできなかった。
「バディ、に」
むしろ、皆守の声こそ、震えている。
「うら、ぎ、られたの、か?」
ゴクンと唾を飲み込んで、渇ききった口の隙間から、苦い味の空気を吸い込む。
振り返った玖隆が今度は手をぎゅっと握り返してきた。
空いている方の手で数回肩を叩き、穏やかに微笑みかけてくる。
「そうだ」
「なら、お前は」
「ああ、もし―――遺跡であのまま、お前が死んでいたら、同じ目にあうところだったな」
「晃」
「言っておくが、俺は裏切られたとは、微塵も思っていないぞ?甲太郎」
瞳の奥が俄かに煌きを生み出す。
「お前にとって必要だったんだろう、あの戦いも、嘘も、全部、それとも甲太郎、お前は、俺を裏切ったつもりでいるのか」
「俺は」
「悪いが、お前の考えなんて、知った事じゃない」
「晃」
「俺は裏切られていない、お前が生きて、ここにいてくれることが、その何よりの証だ」
抱きしめたい想いに反して、身体が動いてくれない。
そんな心情を見透かしたように、玖隆はそっと髪を撫でてくれた。
「お前に贈ったリングは、俺の誓いそのものだ」
皆守の表情が、今度は別の意味で僅かに陰る。
「―――その女との、か?」
「違う」
苦笑いを浮かべながら、繋いだ手を離し、玖隆はそのまま首の後ろで円管をいじってチェーンをはずすと、そこからリングを抜き取った。
「お前のリング、よこしてみろ」
皆守も薬指からリングを抜き取る。
「ほら」
合わせた表面に浮かび上がった文字は、「memory」と掘り込まれていた。
「これが、俺の持つ中で最も価値ある宝物」
「memory?」
「―――思い出、過去、記憶、それこそ、明日へ繋ぐ祈りそのものだ」
玖隆は指輪を皆守に返した。
そして、自らのリングも、またチェーンに通して、首から下げる。
「世界の秘密を知る事が、俺の夢」
屋上から望む、遙か彼方まで茜色は去り、天蓋には群青が広がりつつある。
最後の鮮烈な輝きを背景に、玖隆は立っている。
「そして、思い出を繋ぐ事が、ジョーゼットの夢だった―――けれど、それは、今では俺の願いでもある」
「思い出を、繋ぐ」
「そうだ」
風がまた、彼らの服の裾や髪を撫でて吹き抜けていった。
「俺の求める世界の秘密は、先人が刻んだ思い出の残滓だ、そして、ジョーゼットは、その思い出を見つけ出す、つまり、秘宝を探し出すという行為は、先人の記憶を受け取り、それを自らの記憶と共に、更に未来へ繋げていく事だと言っていた」
ロマンティックな考え方だけどな。
照れ笑いのようなものを浮かべて、けれど玖隆の瞳には、揺るがない決意が輝いていた。
「俺も、俺の生きた証を、確かな形で残したい」
広げた掌に視線を落として、そのまま握り締める。
「記憶は、思い出は、何より大切なものだ、そうだろう?甲太郎」
「―――ああ」
「俺は誓ったんだ、どんな記憶だろうと、思い出だろうと、全部背負って生きていく、それが俺の願いであり、トレジャーハントを続ける意義だと」
「晃」
顔を上げた姿が、とてつもなく大きく見えて、皆守は眩しくもないのに瞳を眇めていた。
多分きっと、こいつはこれからも、多くの彷徨える誰かのために手を伸ばし続けるのだろう。
それは生者であれ、死者であれ、変わらない。
記憶という秘宝こそ、玖隆晃の求める、至上の宝。
そしてそれは、彼が生きる間、際限なく続くもの。
抱きしめるより、唇を、身体を重ねるよりずっと深く、今、皆守は玖隆の深淵を覗いている気がしていた。
まだ恋人のキスを交わしただけだというのに―――
今ならわかる。
玖隆の事、これまで以上に、彼という人のもつ、根本的な強さや輝きが。
甘く、優しい感情などでは、とても追いつけない。背中に触れることすらできない。
皆守は俄かに悟ったような気分がして、そしてそれは酷く切なく、残酷な現実を呼び起こしていた。
「甲太郎」
風の向こうから響くような、玖隆の声が静かに聞こえる。
「俺から、全身全霊をかけて、愛情と、祈りを、そのリングに捧げる」
冷たい予感が心に広がる。
「それはお前のものだ」
「晃」
「―――多分、これから、お前が辛いとき、苦しいとき、歩みを止めそうになったとき、俺は側にいることができないだろう、けれど、俺の想いの片割れが、いつでも側にある、それは導だ、お前が今日を思い出すための、そして、俺がお前を思い出すための」
玖隆のリングが星明りを反射して煌いていた。
自分のリングに指先で触れて、皆守は、その存在を確かめる。
「愛しているよ、甲太郎」
それは、泣きたくなるほどに優しく、強い声。
「地球上である限り、空だけは全部繋がっている、だから、何かあったら上を見上げりゃいい、けれどそのどこにも俺の姿を見つけられない時は、そのリングがきっとお前を導いてくれる―――かつての俺がそうだったように、きっと」
そして、別れの言葉。
口の端に微笑を滲ませて、玖隆は片手を差し出した。
「握手、しようぜ」
「―――行くのか?」
「ああ」
見下ろした掌と、結んでしまえばそれで最後なのだと、確信に満ちた風が皆守の前髪を揺らす。
繋ぎたくなかった。
玖隆を、このままずっと引き止めてしまえたらと、女々しい想いが未練たらしく縋る。
世界を拒絶していた俺に、居場所はここだと抱きしめてくれた、力強く優しいぬくもり。
今更、俺はまた、突き放されてしまうのか。
(違う)
―――そうじゃない。
確実で揺るがない想いの火を、あの日玖隆が胸の奥に灯してくれた。
闇夜を照らす、真紅の輝き。
それは、この瞳のように、いつでも真っ直ぐ、煌々と、足元を照らす。
だからもう迷わない。
立ち止まらない。
捨てられるわけでも、断ち切られるわけでもない。
(俺は―――ここから、一人で歩き始めるんだ)
今、ようやく踏み出す。
長くためらっていた一歩を。
(この手を繋いで、離したら)
指先を伸ばす。
差し出されている片手に、掌を重ねる。
強く、強く、想いの全てを握り合う部分から伝え合って、そして―――そっと力を抜いた。
離れていく先を目で追いながら、それぞれ腕を下して、再び視線を交わす。
(晃)
玖隆は不意に、そのまま二、三歩、後へ下がった。
「じゃあな」
風が吹く。
夜の気配を乗せて、別離の風が。
「ああ」
皆守は、微笑んでいた。
胸の痛みは誤魔化しようもないけれど、かつて一度も感じ得なかった清々しい想いが体中に満ちている。
「またな、晃」
また会おう。
きっといつか、必ず。
「またな、甲太郎」
玖隆は瞳を僅かに眇めて、そのまま踵を返すと、ドアへ向かって歩き出した。
皆守は背中をじっと目で追い続ける。
太陽はすでに西へ沈み、果ての群青を追いかけて届いた濃紺の天空で星が瞬き始めていた。
ノブを掴んで、開く手前、もう一度振り返った姿が、ニッと笑って片腕を大きく振り回した。
「おい、甲ちゃん!」
左手にリングを輝かせながら、指先に移したアロマパイプの吸い口を、皆守はゆっくり唇に含む。
「頑張れよッ」
ドアが開いて、その先の漆黒が露出する。
踏み出していく背中に向けて、いつの間にか火の消えていたパイプから、口を離して呼びかける。
「お前こそ、どこかでくたばるんじゃねえぞ、あーちゃん!」
笑い声、そして、扉の閉まる音。
―――本当に、独りきりになってしまった屋上に、風が吹き抜けていく。
「晃」
独白は、もう彼に聞こえないだろう。
「今の俺では無理かもしれない、けれど」
再びパイプを咥えて、今度はちゃんと先端に火をつけた。
緩やかに立ち上る紫煙を肺いっぱいに吸い込んで、その香りの意味が、以前と違っている事に気づく。
右手にとって、掲げた左手を見上げるように、首を後ろに倒した。
星が、近い。
「愛しているよ」
遠ざかっていく、その背中に向けて。
「愛している、晃、また会おう、俺はきっと、お前に追いつくから」
ここではない、どこかで―――
俺達は再び廻り逢う。
今はそのための、ひと時の別れだ。
寂しいけれど、辛くはない。
強く孤高なお前に相応しい、俺も強い人間になって、きっと会いに行くから。
「待っていろよ、晃」
薬指でリングが光った。
漂ってくるラベンダーの香りに、もう少しだけ側にいてくれと、まだ弱い自分に苦笑した。
始まりを告げる予兆のように、チャイムの音が学園中に響き渡る。
この地を駆け抜けた、一陣の風。
彼の旅立ちの餞に。
「またな、相棒」
同時に囁いた言葉を、まだお互いに知らない。
たった三ヶ月、けれど、多くの人の胸に鮮烈な記憶を残した宴は、今ゆっくり幕引きの時を迎えていた。
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