二人の少女の幻に、喪部銛矢。

相変わらず密度の濃い日常だ。

最近はそれがますます加速度的に押し寄せてくるものだから、溜息だって漏れてしまう。

―――もっとも、疲労が原因ではないから、尚のこと厄介なのだろうけれど。

「あら、こんなところでばったり出会うのも新鮮で悪くは無いわね」

艶やかな声に首を向けると、双樹が微笑んでいた。

「やあ、双樹」

丈の短いスカートからすらりと伸びる、真っ白で肉付きのいい足をすいと踏み出して、黒いヒールの底が硬質な音を立てる。

実に素敵だと、玖隆はニコリと笑っていた。

自分自身の武器をきちんと理解して、それを最大限に活用している女性は好みだ。

八千穂といい、七瀬といい、白岐も、椎名も、雛川も、舞草も、劉も、ここには魅力的な女性が多い。

好色というわけでは無いけれど、玖隆も一応健全な精神と肉体を持った男だから、女性には非常に興味がある。

ただ、一番に優先するのは仕事なわけで、そして往々にしてそういう男は女にもてない。

だからこそ、強い女性に心惹かれてしまうのかもしれないと、それが拙い自己解析の結果だった。

理想は対等である関係。依存するでも、されるでもなく、同じ歩幅で歩いていけるパートナー。

そんなものが簡単に見つかるとも思えないけれど、とりあえず目の前の双樹は非常にそそられるので、友好的な眼差しで近づいてくる姿を待った。

「急がないと授業が始まっちゃうわよ?」

「ありがとう、けど、双樹に出会ったから、いま少し迷ってる」

「ウフフ、仕方の無い人ね、転校生さんは決められた授業なんかに興味は無いのかしら?」

意外に真面目な彼女の性格は、あの晩を境に少しずつ知った。

考えてみれば、唯一人の男に忠誠を誓ったり、そのために命すら投げ出す覚悟を見せる辺り、間違いなく情の深い、優しい女なのだろう。

双樹は墓守の鎖からは外れたけれど、相変わらず生徒会役員、書記としての仕事は勤め上げているらしい。

それが敬愛する阿門の傍にいたいだけなのか、それとも忠義心からくるものなのか、心の奥底までうかがい知ることはできない。

けれど、双樹もまた、玖隆を手助けすると言ってくれた。

学園全体が彼女の香りによって白岐の記憶を消された、数日前の晩の事だ。

遺跡の第8階層奥で交戦して、今回も辛うじて勝利して、その結果、彼女に失われていた思い出が戻った。

その時双樹は、執行委員達の誰も見せなかったような反応をしたのだった。

「あたし、思い出してしまったのね―――ごめんなさい、阿門様」

悲しげに呟かれた言葉。

それが何を意味するのか、玖隆にはまだわからない。

ただ、記憶を取り戻すことで阿門側が何らかの損失を被る―――それは、単純に彼らが守っている遺跡を玖隆が踏破する行為自体にあるのではなく、もっと別の重要な理由がありそうだけれど―――そう、考えることもできる。

いずれにせよ双樹に思い出は戻り、結果として彼女は以前よりずっと魅力的な女性へと変身した。

それだけは間違いのない事実だ。

艶かしい仕草や言葉は以前の通り。けれど、裏に見え隠れする彼女の本質が、たまらなく男の性をくすぐる。

『母性』だろうか。

甘く、懐かしい感覚。すがりつきたくなる奴は多いだろう。

けれど、そんな男達は双樹の理想とはかけ離れている。一蹴されて砕けるのがオチだ。

彼女は見た目以上にタフな女性でもあるのだから。

「やれやれ」

玖隆は困り顔でわざとらしく首を振って見せた。

まあ、奇妙な出来事や、嫌な奴に絡まれた後で彼女に出会えただけ幸運と思うべきか。

「せっかく会えたっていうのに、つれないな、仕方ないから真面目に授業を受けに行くよ、学生の本分は勉強、だろう?」

「ウフフ、そうね、晃って意外と真面目なのね」

「意外は余計だ、知ってるじゃないか」

そうだったわねと赤い唇が微笑んでいた。

双樹との会話は楽しい。

一時だけ、背負い込んだものや、この先に待っているものを忘れさせてくれる。

そして自分が間違いなく男である事を認識させてくれる。もっと早く出会えていたら、と、後悔すら滲む。

それは双樹も同感であるようだった。

見詰め返す瞳の強さが、内に秘めた情熱を物語っている。まるで炎のような女性だ。

―――そういえば、皆守も炎のようなイメージがある。

(何でそこであいつが出て来るんだよ)

こんなときでも思い返してしまう面影に、内心苦笑いをした彼に気づかず、双樹は濡れた眼で玖隆を見詰めていた。

「ところで、気づいているかしら?学園中に嫌な気配が満ちているわ」

「みたいだな」

「これは間違いなくあいつの仕業、まさかここまで大掛かりな手に出るとは思わなかったけど―――

赤い爪先が、胸元をつ、と撫でる。

生徒会役員、書記双樹咲重。

彼女が倒れた今、次に姿を見せるのは恐らく会計委員。

この二人の役職的ポジションは殆ど同じ、書記が来たのなら、次は会計と考えるのはシンプルなロジックだろう。きっと間違いじゃ無い。

「それだけあなたの存在が、生徒会にとって危険だということよ、晃」

玖隆はその手をそっと捕まえた。

「心配してくれているのか?」

「当たり前でしょう」

ありがとうと指先にキスを落とすと、クスリと笑われた。

この程度、挨拶と変わらない。

「あなたがあたしの大切なものを取り戻してくれたから、今は以前よりもはっきりと解かるわ」

あたしはまだ、阿門様のお傍を離れる訳にはいかない―――

そういって、切なく微笑む。彼女の信仰の対象はいまだ揺らがないらしい。

「ねえ、あの方をこの学園に縛り付ける重い鎖が、あなたには想像できて?」

天香学園に潜む闇、遺跡。

地下深く広がる誰かの墓石を守り続ける存在。幼い墓守たち。

長である阿門が一番縛られているのだろうと、それくらい容易に推察できる。

けれど、他人の心の闇まで、理解したようなフリなど出来ない。

痛みや苦しみは分かち合えるけれど、本質的な部分は個人がそれぞれ上手に付き合っていくしかないのだから。

「悪いけど、できないな」

玖隆の髪を、もう片方の掌がそっと撫でた。

柔らかい香りが鼻先をかすめる。

皆守のラベンダーとは違う、濃厚な花の香りだ。ローズ、ジャスミン、そして、リリー

玖隆の瞳の奥に、わからない程度に闇が生まれていた。

「あなたがそんな顔をすることはないわ、ごめんなさい、こんな事を訊いたりして」

双樹の声は優しい。

けれど、素直に両手を伸ばして抱きしめられない自分がいる。

ラベンダーの香りがひどく恋しかった。

「晃って、いい男ね」

ゆっくり髪を撫でていた手が、不意に顎に触れた。

そのまま輪郭をなぞられて、視線の先で双樹が微笑む。

「でも、甘い」

「双樹」

「その甘さが命取りにならないように、傍で見守っていてくれる薄情な瞳が必要かもしれない」

「君の事か?」

「まさか」

香りに紛れて、コロコロと柔らかな笑い声がこぼれる。

「適任者がいるでしょう、もうずっと、あなたのすぐ傍に」

え?と、聞き返す前に端末がメールの受信を告げた。

画面を開く玖隆を見ながら、双樹は微笑んで半歩だけ後ろに下がった。

「可愛いあの子からのメールかしら?あたしはそろそろ行くわね、それじゃあね、晃」

「ああ、双樹もまた」

「今度逢ったときは、咲重って呼んでちょうだい」

そのほうが好みなのと彼女は笑う。

「了解した」

「じゃあね、晃、くん」

意味深な瞳で、ウィンクを残して、緋色の髪がさらりと揺れた。

そのまま去っていく姿を見送って、発信元を確認すると、白岐のアドレスが表示されていた。

「女の勘って時々怖いな」

苦笑しながら内容を確認する。

彼女が温室で世話をしている花が咲いたから、見に来て欲しいと、用件はそれだけだった。

温室と、白岐と、開花したばかりの花。

なんて似合いの光景だろうと、口元に淡い笑みが浮かんだ。

授業の開始を告げるチャイムの音が、廊下に鳴り響く。

「いかん」

すっかり気を奪われていた事を少しだけ照れくさく思いながら、玖隆は足早に教室を目指し、歩き始めた。

 

「あーちゃん!」

休み時間、背後からの奇襲に、玖隆は衝撃でヨロリと前に片足だけ踏み出す。

八千穂が、両腕を首にまわして飛びついてきたのだった。圧し掛かる重みは羽根のように軽いけれど、無邪気なイタズラに苦笑が漏れる。

「明日香ちゃん、女の子なんだから、いきなりこんなことしちゃダメだろう?」

「え?」

直後に顔を真っ赤に染めて、飛びのいた八千穂があたふたと顔の前で手を振りながら「違うの、違うの」と繰り返すのが可愛らしくて、玖隆はニコニコ見詰めていた。

―――背中に触れた胸の感触が、なかなかトキメキを覚えるものだったのだが。

「ご、ごめん、あの、あーちゃん気づいてなかったみたいだから、ちょっとイタズラしたくなって」

「俺は全然構わないけど、明日香ちゃんのファンに苛められそうだなあ」

「あ、あたしのファンなんてッ」

そんなことより、と、鼻息も荒く携帯電話を突きつけてくる。

強引な話題転換についまたフフと笑ってしまった。

八千穂は目のふちまで赤くして、少し困り顔で玖隆を睨んでいる。

「えっとね、白岐サンからメールもらったの」

「白岐から?」

「そう!」

今度はパッと明るい笑顔がはじけた。八千穂は非常に表情豊かだ。見ていて飽きる事がない。

「凄いよね!なんか友達って感じだよね!エヘヘ、嬉しいなあ!」

そのまま興奮ついでに腕を大きく振り回す。

「アッ」

直後。

八千穂の手をすっぽ抜けた携帯電話は、放物線を描いて飛んでいく。

―――おっと」

短い声とともに、気づけばそれは皆守の手の中に納まっていて、二人は唖然としてしまった。

玖隆ですら反応が遅れるほど、突発的な出来事であったのに。速度も、結構出ていたと思う。

おまけに皆守は窓辺に凭れて外の景色を見ていたところだった。

八千穂の携帯電話は、そのまま窓ガラスにぶつかって落下か、もしくは桟にぶつかって大破か―――おそらく、皆守以外がそこにいても、携帯電話の運命は変えられなかっただろう。

手の中で電話をポンポンと弾ませながら、皆守は緩やかな動作で八千穂に投げ返してくる。

「馬鹿、携帯電話なんて振り回すな」

受け止めて、それでも八千穂はきょとんとしていた。

「悪いな、甲太郎」

「ふん、ちゃんと躾けとけ」

憎まれ口を叩いて、また外の景色を眺める彼に、玖隆は困り顔で八千穂を振り返った。

「明日香ちゃん、一応精密機器なんだから、もうちょっと大事に扱わないと」

言葉と裏腹に、全く別の考えが頭の中を廻っている。

「あーちゃんっ」

伸びてきた両腕に首をつかまれて、玖隆の体は八千穂の身長まで引き摺り下ろされていた。

「おっと、どうしたんだ?」

耳元に顔を近づけて、興奮した声が少しくすぐったいように囁きかけてくる。

「今の見た?凄いね、皆守クン、まさかキャッチしてくれるなんて思わなかった」

「ああ、驚いたね」

「あたし、携帯受け止めてくれた皆守クンの手、いつどうやって動いたのか全然見えなかったもんッ」

確かに、と玖隆は頷き返していた。

皆守は、恐らく、普段は自主的に『眠って』いるのだろう。

遺跡探索の時、おぼろげにぼやかしながら本質の端々をちらつかせてくれる事もあるけれど、彼は何か思うところがあって、未だ息を殺し、潜んでいる。

―――より強い痛みが、胸の奥を貫いていた。

這い登ってくる棘のある感傷から、玖隆は無理やり目をそらす。

「ね、あーちゃん、ここは一発、二人で真相を確かめてみない?」

「何するつもりなんだ?」

「うん、あのね」

玖隆の耳元で、さっきより更に小さな八千穂の声が何事か囁く。

直後に、ええっと顔をしかめた彼に、彼女は「いいでしょ」と瞳をキラキラ輝かせていた。

「凄腕のトレジャーハンターにも通用したんだもん、皆守クンにだってバッチリだよ」

「でもなあ」

「面白そうでしょ?」

「それ、明日香ちゃんがやるのか?」

「え?だってえ、明日香女の子だもんッ」

ね?と見詰められて、玖隆はそういうことですかと項垂れる。

まったく、こんなときにだけ慎み深いだなんて、ちょっと詐欺だ。

「ね、ね?お願い、あーちゃん」

―――つい、溜息が漏れる。

可愛い女の子のおねだりに、俺は昔から凄く弱いんだ。

「はいはい」

肩を落として、常備している端末を八千穂に手渡した。

「持ってて」

八千穂が頑張れと小さな声とガッツポーズを作ってみせた。

(嗚呼)

振り返る。

窓辺には皆守の姿。また外を眺めていて、こちらには背中を向けている。

やっぱり嫌だなあと逡巡していると、突然背後に強烈な気配が生まれた。

「っつ?!」

反応する暇もなく。

「あーちゃん、行っけえええ!」

ドンッと強く突き飛ばされて―――

「あァ?」

一瞬、皆守と視線があったような気がした。

だが。

―――何やってんだ、お前は」

スルリとかわされて、傍にあった幾つかの机と椅子を巻き込みながら、玖隆は皆守の手前で突っ伏していた。

背中に椅子が乗っかっている。ぶつけたあちこちが、結構痛い。

「うう」

死して屍、拾うものなし。

「ひどいよ、明日香ちゃん」

恨み声を上げると、頭上から皆守の呆れた溜息と、八千穂のゴメンねの声が降ってきた。

「大丈夫、あーちゃん?」

「ダメ」

「あははは―――ゴメンッ」

グッタリうな垂れたままの玖隆の腕を、誰かがぐいと掴む。この感触は知っている。

乗っている椅子をどけて、立ち上がると傍で皆守がやれやれと眉間を寄せていた。

「ったく、こんなもん怪我じゃねえだろ、しゃんとしろ」

玖隆の制服をパンパンと叩いて、埃を落としてくれる。

少し怒ってもいるようで、苦笑いが浮かんでしまった。

「悪い、甲太郎」

「フン、簡単に乗せられやがって、馬鹿」

怪我した上に叱られて、散々だ。

返す言葉もなくしゅんと項垂れていると、八千穂が痛い?と心配そうに顔を覗き込んできた。

「大丈夫だよ」

彼女の口元が、少しだけホッと緩む。

そんな顔をしてくれるなら、あんな暴挙に出ないでいて欲しかったのだけれど。

「そういや、あの時はあまりに予想外で、完全に不意を付かれたけどな」

急に意地の悪い笑みを浮かべた皆守に、振り返った八千穂は首を傾げていた。

玖隆も、何のことか思い当たらなくて、同じように首を傾げる。

「あの時って?」

「何でもない、単にこいつがアホだって話だ、な、晃?」

アホ?

それは一体、何の話なんだろうか?

「え」

二人できょとんとしていると、皆守は不意に居心地が悪そうに後頭部をガリガリと掻いていた。

「忘れているならもういい、気にするな」

「え、え、何のことあーちゃん?」

「いや、俺にもサッパリ」

この場合、忘れているというより、思い当たる事が多すぎて絞りきれないだけなのだけれど。

玖隆は不意にゲンナリする。

―――そんなに馬鹿ばっかりやってるのか、俺は。

「あ、そうだ!」

思い出した様子で両手をぱちんと叩き合わせて、八千穂は携帯の画面を開いて皆守に見せた。

白岐から届いたメールを読ませているらしい。

「あーちゃんにも来たんでしょ?」

端末を返されて、画面を開いてと急かすので、白岐から送られてきたメールを互いに見せ合った。

本文は殆ど変わらなかったけれど、八千穂に届いた文章は玖隆のものより大分柔らかい印象だ。

女の子同士、だからなのか。

思わず微笑がこぼれた。

八千穂と白岐は、八千穂が思っているよりずっと、親しい間柄になっているようだ。

「ね、あたし昼休みは月魅の話聞く約束しちゃってたから、放課後行くねって返事したんだ、あーちゃんは?用事無いなら、お昼終わってからでも行っておいでよ!」

「そうだな」

一体何の花が咲いたのか。

白岐の事だから、イメージに似合った神秘的な花に違いない。

「なるべく、そうするよ」

「うんッ、白岐サン、きっと喜ぶよッ」

八千穂はまるで自分の事のようにニコニコしている。

「白岐サンが一生懸命育てた花か、それをわざわざ見せてくれるなんて、なんか嬉しいなあ」

「そうだな」

パイプの先端の煙をゆっくり吸い込んで、不意に皆守が遠い眼をしていた。

「あいつが誰かと一緒に温室にいるのなんて、今まで見たことないからな」

「あれ、そういう皆守クンこそ、温室になんて行くの?」

直後に浮かべた微妙な表情に、玖隆の内側で何かがピクリと反応する。

―――以前はな」

意味深な言葉の振りに、玖隆だけ気づいていた。

その場所は、皆守にとって特別な意味を持っているのだろう。

何か―――忘れえぬ残滓というか、思い出の残り香が。

けれど口に出して問いかける行為はためらわれた。何故だろうか。

(瞳の色が、暗いからか?)

―――俺はまだ知らない、何も知らない。

「まあ、昔の話だ、それより昼飯にしようぜ、晃」

パイプを揺らしてニヤリと口の端を吊り上げるので、玖隆も普段と同じように微笑み返していた。

たとえ、どんな真実が待っていようとも。

(俺と皆守の関係に、なんら関わりは無い)

クラスメイトの女子に呼ばれた八千穂が、元気に返事をして駆けて行く。

彼女は他の友人達と昼食を取ることになりそうだ。

皆守が、俺たちも行こうぜと踵を返すので、脇をすり抜けて離れていく背中を見送りながら、玖隆はふと思い立っていた。

さりげなく周囲を確認して、端末を、壊さないように持ちかえる。

全身のバネを収縮させて、皆守が勘付く前に、一気にその背中めがけて踊りかかった。

「なっ」

仰天した声と、確かな感触。

直後にバターンと大きな音がして、教室内の生徒たちが一斉に振り返る。

床に、突っ伏した皆守の姿と、その上に同じように圧し掛かっている玖隆の姿。

「晃ァ、てめえ―――

地獄の底から響くような声に、すぐさまぴょんと飛びのいて、目を丸くしている八千穂に向かってニッコリと親指を立てて笑った。

「ミッションコンプリート!」

―――やったあ!」

嬉しそうに声を上げてジャンプした八千穂に、得意げに胸を張って見せた玖隆は、直後に容赦ない拳の一撃を脳天に叩き込まれていた。

「った!」

「お前のせいで鼻打ったぞ、舌も噛む所だった!くそ、ふざけやがってッ」

「アハハ、悪い悪い、せっかくのハンサムが台無しだな」

顔を覗き込んで、手ぐしでスルリと髪をといた玖隆に、皆守は目を剥いて僅かに顔を赤くすると、その手を振り払った。

床に落ちたパイプを拾い、咥える部分をシャツの端で乱暴にぬぐって、歯の間でガチンと音を立てて噛みつく。

さっさと歩き出した後姿に、玖隆は驚いて、慌てて後を追いかけた。

「お、おい、そんなに怒ることないだろ?悪かったよ!」

皆守は振り返ろうともしない。

返事もしないので、すっかり困惑してしまった。

―――もしかして、大事な部分でもぶつけたのだろうか?

(まさか、あの位置じゃありえねえよ、第一そんな事なら、もっと死ぬほど痛いだろうに)

「なあ、そんなに怒るなよ、悪かったって」

八千穂が心配そうにこちらを見ている。

教室を出る手前、玖隆は彼女にちょっとだけ苦笑いを浮かべて手を振って見せてから、そのまま皆守を追いかけて廊下を小走りに歩き出した。

「なあ、甲太郎」

ラベンダーの香りだけが、前からフワフワと漂ってくる。

「甲太郎って!もしかして皆の前だったから、恥ずかしかったのか?」

皆守の足取りは少しも緩まない。

「返事してくれよ、俺が悪かったってば、少し冗談が過ぎた、謝るからさあ」

いつの間にか階段に差し掛かっていた。

段の途中ほどまで降りた所で、皆守がようやく足を止めたので、玖隆は少しだけホッとしながら隣まで降りていく。

「なあ、こうた」

直後に、一段下から突然振り返られて、玖隆は足を止めていた。

口元のパイプを手に取り、鼻先が触れそうなほどの距離で、黒い瞳がすうと細くなる。

「お前」

その奥で揺れる炎のような何かの感情に、思わず息を呑んでしまった。

屋内で、玖隆の瞳は暗い緑色をしている。

中に映る自分の姿を確認するように、皆守はじいっと玖隆を見詰める。

「くだらないことを、するな」

「わ、悪い」

「人の気も知らないで」

「え?」

玖隆が瞠目した瞬間。

不意に伸ばされた腕が、無造作に首の後ろに回り、そのまま引き寄せられた。

(うわ)

一瞬、皆守の姿しか見えない。

何かされるのかと、心拍数が跳ね上がったのだが―――

 

階段の途中で、そのままぎゅうと抱きしめられて。

 

「うわ、わ、わあああ!」

残りの何段かを、玖隆だけが勢いよく落下していく。

踊り場の壁に激突して、呻いた。

後から軽やかな足取りで降りてきた皆守が、傍に立ってフンと鼻を鳴らしていた。

「これでアイコ、だよな?」

玖隆はヨロヨロと半身だけ起き上がる。

今度はさっきより酷い。

とっさに受身を取れたから何とかなったようなものの、ヘタをしたら捻挫や、骨にヒビくらい入っていたかもしれない。

(鬼だ)

涙目で見上げると、皆守は意地の悪い顔で笑っていた。

半ば嘲り、半ばしてやったりといった様子で。

「俺はあいこじゃないぞッ」

一勝ニ敗だ、それこそ、割に合わないじゃないか。

伸びてきた腕にまた引き起こされながら、恨めしげに睨むと、皆守はどこ吹く風で再びアロマを咥えなおしていた。

「これに懲りたら、二度とおかしな事を考えるんじゃない、さて、飯にするぞ」

―――はい」

これ以上突っかかっても仕方ないだろう。

玖隆は皆守の機嫌が治っただけでよしにしようと、僅かに肩を落としていた。

「あーあ、ったく、やめとけばよかった」

ぼやく玖隆に横顔で笑いながら、皆守の指先が、何かの感触を思い出しているかのように微かにピクリと揺れていた。

 

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