「―――あら」
蝶番の軋む音と、艶っぽい声に、給水等の傍で影は瞼を上げる。
昼食の後の定位置。ここには、青空と風以外何もない。
「一人なの?」
「どういう意味だ」
「あの人が一緒じゃなくて、残念っていう意味よ、あなたなんかに用事は無いわ」
フンと鼻を鳴らして、また寝入ろうとする影を見て、女は笑う。
「ここはいつでも気持ちいいわね」
「何の用だ」
「あなたに用事は無いって、さっき言ったでしょう」
踵の高いヒールを鳴らして、フェンスにしなやかな肢体がゆったりと凭れかかった。
「中はあいつのせいで息苦しくてたまらないから、あたしも外に出てきただけよ」
「そいつに関しちゃ、同感だな」
「ウフフ」
影の口元が、急に不快気に歪む。
「―――残り、三人、か」
「あの人にとってはね」
「フン、あいつにとっても、だろ?お前達は怒っているんじゃないのか」
女はウフフと笑った。
「さあ、どうかしら」
緋色の髪が風に揺れる。
「少なくともあの方は、あなたの仕事振りに感心していられるわ」
影が、少しだけ顔を俯けた。
「休暇中だっていうのに、随分熱心な事じゃない」
「フン」
「ターゲットの言動及び思想の監視、傍観者に徹して、あなたはよくやってるわ」
「ああ」
「懐深く潜り込んで、あの人の事、きっと今では誰より理解しているのじゃなくて?」
女はねえ、と影に呼びかけた。
「今も、望みは変わらないの?」
吹いてきた風に前髪を散らされて、瞳を隠した影がフッと笑う。
「―――俺に望みなんてないさ、もう随分昔から」
「そうかしら?あなたはここに来たときから、ずっと何かを探しているように見えているのだけど」
「そんなものはない」
「フフフ、本当に、素直になれないのね」
―――ほのかに立ち上る、嗅ぎ慣れた花の香りに、ゆっくり双眸を閉じていた。
9月末から連なる思い出はどれも光に満ちていて、その全てがやがて痛いだけの枷に変わってしまうのだと、耐え難い苦悩が、心を、体を、苛んでいる。
流れる血は止まらず、憂鬱は、いつだってこの身の傍らに。
絶望の底をさまよい続けて、今では魂まで無くしてしまった。
柔らかい気配に、女が傍に近づいてきた事を知る。
「最近、あなたの香りが強いわ」
「―――だから何だ」
「昼間、彼に会った時、同じ香りがしていたの」
影は答えない。
「移り香するほど傍にいるのね」
「なけなしの使命感ってヤツだ」
「それだけなのかしら?」
クスリと、気に触る笑い方に、強い眼差しが顔を上げる。
女は気にも留めず、相変わらず同じ瞳で影を見詰めていた。
それはまるで強がる子供をあやすような―――
「ねえ」
女は優しく囁きかける。
「いつまで羊のフリをし続けるつもり?」
影は、咥えた金属の端を、強く噛む。
「あなたが繋ぎとめておけないというのなら、私が奪ってもいいのかしら?」
はたと視線を定めて、やがて影はムッスリと女を睨みつけた。
「ダメだ」
意味深な表情で、女はからかうような笑みを浮かべる。
「フフ、困った人」
スッと日差しが遮られて、ヒールの音がゆっくり扉へ遠ざかっていく。
「―――対象と常に行動を共にし、その言動を見張れ、障害になるようであれば勅命をもってこれを排除せよ」
影の両肩がピクリと揺れた。
「それが、あの方があなたに与えた使命だけれど」
緋色の髪がふわりと揺れて、女は振り返った。
「でも、今はきっと、もっと違う事を望んでいるんだわ、私達も、あの方も、あなたも」
「何の事だ」
「答なら、とっくに見つかっているのでしょう?」
蝶番が軋む。
「そうだ」
扉に消える間際、再び柔らかな微笑が影に向けられた。
「それが、足りなくなったらいつでも言ってちょうだい、あなたが望めばいくらでも与えてあげるから」
「―――ああ」
「でも、本当に欲しいものは私では無理、だからそれはあの人におねだりしなさい」
彼ならきっと、全部あなたにくれる。
赤色がちらりと視界の端を掠めて、錆び付いた扉はそのまま閉じてしまった。
影は暫らくその場に凭れ、そして、深いため息を一つ落としていた。
「言いたいだけ、言いやがって」
あの闇の底から解き放たれたからだろうか。本来の気質は、ああいう女だったのか。
(以前はもっと、違う感じだったんだがな)
けれど、今の彼女のほうが魅力的であることくらい、自分にもわかる。
紙巻の先端に火をつけなおして、影は空を仰いだ。
雲ひとつない青空。
思い描く姿はいつの間にか遠い面影から、この頃いつも傍らにある見慣れた姿に変わっていた。
瞳がすうと細くなる。
「そんな事はわかってるんだよ」
伸ばしかけた片腕は、直後に力なく墜落していく。
「けど、俺がそれを望むわけにはいかないんだ」
―――まだ。
「欲しいものはいつだって、俺の手の届かないところにある」
寂しい横顔を甘い花の香りが撫でていた。
過ぎ去った日々と、生まれいずる過去。どれも、痛みと苦しみしかもたらしてはくれない。
どうして時は流れるのだろうか。どうして、日々は過ぎ去ってしまうのだろう。
どうして、このままでいる事ができないのか。
胸をよぎる強い憧憬に、影は瞳を閉じて、金属の端を強く、強く噛み締めていた。
「あのブドウはすっぱいんだと、そう思わせてくれよ、なあ」
答なら、とっくの昔に。
けれどすがる事などできない。望みなど―――願っても、居場所などどこにもないのだし。
不意に立ち上がった姿は日差しに彩られて、影でなくなる。
けれどこれは嘘とエゴが結んだ虚像だ。本当の自分は、まだひび割れた砂漠の中を彷徨い続けている。
真実は、到底あいつには見せられない。
偽りの安らぎでもいい。一時、慰めてくれるのなら、何だって。
ふらりと爪先を踏み出しながら、このままどこかへいなくなってしまいたかった。
出会わなければよかったと思う以上に、出会えた奇跡に胸が苦しい。
あの、温かな、居心地のいい隣に、永遠に陣取っていられたらいいのに。
けれど、それすら裏切る日が、多分―――もうすぐ、やってくる。
屋上の扉を抜けて、影は、再び羊の皮を目深にかぶりなおしていた。
正午過ぎ、マミーズにて。
案内された席についていた先客を見て、玖隆は苦笑していた。
「よう、甲太郎」
玖隆の姿を見た皆守も、とりあえず案内をした舞草に文句をつけたものの、すぐに向かいの席を勧めてくれた。
本当に素直になれない奴だ。そんな事じゃ、これからどれ程苦労するか、わかったものじゃない。
(貧乏くじばっかり引くところなんか、俺と似てるよなあ)
笑っていると何をヘラヘラしているんだと怪訝な様子で睨まれた。
「別に」
「フン、まあいいさ」
再びスプーンでカレーをすくう姿を眺めながら、玖隆はコップの水で喉を潤す。
「なあ、晃」
「うん?」
「お前、カレーの隠し味、何が一番好きだ?」
「また唐突だな、そうだな、乳製品系、ヨーグルトとか、牛乳なんか結構好きだな、ショウガやにんにくなんかも結構いけると思うぞ」
「おっ、なかなか言うじゃないか、まあ、カレーの種類によって、隠し味は変えたほうがいいと思うが」
「それに関しちゃ同感だな、野菜やチキンのカレーは、ルウがまろやかな方が美味い」
「ビーフは苦めか」
「辛くてもいいかもな、ポークなんかは辛味が強いほうが好みだ」
「一端の口、利きやがって」
笑い合っていると、玖隆の注文したカレーが運ばれてきた。
それを見て、皆守はまた少し笑い、何だ、やっぱりお前もカレーなのかと親しみの篭った台詞と視線を玖隆に投げかけてくる。
「どうりで、お前と飯食ってると、なんか落ち着くはずだな」
「俺はここに来てカレーの消費率が異様に上がった、いい迷惑だ」
「ぬかせ、俺は強制なんかしてないぜ」
冷めないうちに食えよの声に促されるようにして、スプーンですくって、一口頬張る。
インドのカリーと、マミーズのカレーとでは全然具合が違うけれど、これはこれでうまいと思う。
何より慣れ親しんだ味だ。
この風味が舌の上で広がるたび、正面で同じようにカレーを食べる皆守の姿を思い出してしまうほどに。
「こういうのは、日本ではおふくろの味とか言うんだったな?」
「それは多分、違うと思うぜ」
すっかり空になった皿を脇に押しのけて、皆守はアロマに火をつけていた。
片付けに来た舞草にコーヒーを注文している。
「あ、ついでに俺にも」
「紅茶か?」
「違う、ミルク、辛いもん食ってるときは、胃に優しいものをっていうのがうちの母さんの教えだ」
「母さん、ねえ」
やれやれと皆守は呟き、舞草はニコッと笑って厨房の方へ歩いていった。
何かおかしな事を言っただろうか?
食事をする玖隆を眺めながら、皆守はゆったりとアロマを愉しみ、合間にコーヒーを飲む。
ぬるい冬の正午過ぎ。店内に差し込む日差しは暖かい。
「―――なあ、晃」
「ん?」
顔を上げた玖隆に、皆守は何か言いかけて、不意に口を閉ざしていた。
「いや」
背けられた横顔に感じるものがあって、玖隆は暫らくその表情を窺い続ける。
時々、こうして、言葉を自分の内側で消去して、皆守は何を考えているのだろう。
それは自分の知っている事であり、気づいている事であり、また全然違う事のような気もする。
ただ、彼が何かを欲しがっている―――それは、出会ってすぐに感じていた事だけれど、実際何なのかまでは、まだわからない。
けれど皆守はずっと切望しているものがあって、そのために傷つき、苦しんでいるのだろうと、最近はそこまで理解が深まっていた。
(ただそれは、俺が与えられるものなのか)
それは、やはりわからない。
誰かに何かを施してやれるほど大した人間でないと思うけど、してやれる事があるなら、してやりたいと思う。
特に、皆守には。
こんな事を考える自分はどうかしている。
昼間の事といい、最近こいつを意識しすぎなんじゃないのか、俺は。
考え込んでいると、晃?と顔を覗き込まれた。
「えっ」
「お前、何ボーっとしてんだよ、カレーが冷めちまうぞ」
「あ、ああ、そうだな」
慌ててスプーンを握りなおして、食事をする間、結局皆守は最後まで何も話そうとはしなかった。
黙々とカレーを平らげて、ミルクを飲み干し、さて、と顔を上げると、それじゃあ行こうかとテーブルの反対側で姿が立ち上がった。
「ご馳走さん」
「ありがとうございましたーッ」
相変わらず元気な声に送られて、二人はマミーズを後にした。
「さて、と」
通路の途中に立って、皆守が不意に振り返る。
「ここを真っ直ぐ行けば校舎、曲がれば温室だ、晃、お前どうするんだ?」
「どうって」
「白岐に呼ばれてるんだろう?」
ああ、と相槌を打ちながら、玖隆は僅かに逡巡する。
温室では、今頃白岐が咲き誇った花を愛でているのだろう。
淡い光とむせるような緑の中に佇む美少女の姿は、とても神秘的に違いない。
「―――いや」
玖隆は苦笑いを浮かべていた。
「いいよ、白岐さんにはまた今度、花を見せてもらいに行くから」
「そうか?」
皆守に意外そうな顔をされて、こちらも困ったように眉を寄せる。
特に何があるというわけでもないけれど、このまま彼を見送ってしまうのは何となく心残りのような気分がしていただけなのだが。
「まあ、お前の勝手だしな」
皆守はやれやれとアロマの煙を昇らせながら、くるりと踵を返して歩き出す。
「それじゃ戻るか、あー、次も自習だったら楽なんだがなあ」
「学生の本分は勉学だろうが」
「誰も彼もが一緒だと思うんじゃねえよ、人間個性が大切だぜ」
「お前の場合は、ただの不精だろう」
「言ってくれるな、そもそも勉強をするつもりの無いヤツが」
何だと、と笑い合って、二人で連れ立って歩いていく。
この道が、ずっと続いていればいいのにと、そんならしくもない感傷が、玖隆の胸をよぎっていた。
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