天香学園の屋上は、ここを訪れてからずっと玖隆にとって一番のお気に入りスポットになっている。
空が近いのがいいし、何より風が心地よい。
最近はめっきり冷え込んできたから、迂闊に長時間のんびりとはしていられないのだけれど、それでも学園の中では一番気の利いた場所だ。
皆守と一緒にごろごろ、のんびりしていると、至福のひと時が味わえる。
「おーッ」
蝶番を軋ませて屋外に出た途端、差し込む強い西日に手をかざしながら、歓声を上げていた。
日の光だけはどこも平等に降り注ぐ。
辺境の村や、排ガスまみれの都市、歴史ある建造物、最新鋭のビル郡、海の上や、山の中でも、同じように輝く。
人生の中で何度夕陽を見ただろうと思う。
時に父と、時に母と、時にスクールの同期と眺め、そして、あの人とも眺めた。
感傷的な思い出は、大半が夜の闇か、このオレンジの光とともにあったような気がする。
(歴史は夜作られる、ってか)
状況に感化されて、いささかロマンチストを気取っているのかもしれないと、玖隆は苦笑を洩らしていた。
縁のフェンスに腕をかけて、皆守は見渡す風景に瞳を細くしている。
「日が傾くのも随分と早くなってきたな」
隣に玖隆も同じように腕をかけた。
「そうだな」
「お前が転校してきてからもう三ヶ月、何だかあっという間だな」
「確かに」
9月末にここを訪れて、それからずっと、まるで嵐のように難事の連続だった。
たくさんの人と出会ったし、まだ知らないヤツもいるだろう。
色々なものを見て、聞いて、体験して、その結果多くのものがこの身の内に蓄えられた。
それは知識であり、経験であり、そして、感情であり。
玖隆は横を向いて皆守を眺める。
パイプの先を煙らせて、整った横顔の、目元は珍しくはっきりとした光をたたえていた。
「そうか、もう十二月か」
呟きを聞きながら、玖隆は腕の上に頬を乗せた。
こうして何度こいつを見ただろう。
俺の隣には皆守。
振り返ると、いつでもすぐ傍にいた。
それは、初めこそ殆ど意識していなかったものの、今でははっきりと感じる事ができる。
―――多分、俺は見張られているのだろう。
何のために、などと、今更野暮ったいことなど言わない。
けれど、皆守の心積もりがどうであれ、玖隆の腹の内は決まっている。
最初から揺らがない、真実を知って、苦しむ事はあっても、事実だけはいつもそのままにある。
「お前はまあ、卒業する事が目的でここにいるんじゃないことはわかってるが」
無事、卒業できたとして。
そんな例えをするのかと、玖隆は少しだけ笑う。
「その先は何か、考えている事があるのか?」
「甲太郎」
皆守が振り返った。
「お前さ、誰に物言ってるんだよ」
玖隆は、片腕を伸ばしてその額を指先でピシリと弾いた。
「いっつも見てたろ?格好いい俺の姿を」
「―――ああ」
「あれ以外の何になれっていうんだ、俺はむしろ、お前の身の振り方を聞きたいよ」
「どういう意味だ」
「卒業できるのか?」
直後にゴチンと殴られて、いってえと不満の声を上げる。
皆守はまた景色を眺めながら、余計なお世話だとパイプを咥えなおしていた。
「まあ、お前はすでに天職ってのを見つけてるのかもしれないな、そうか、世界を股にかけてお宝捜し、か」
口の端が不意にフッと緩む。
「なんていうか、楽しそうだよな、そういうのも」
玖隆は再び腕に頬を乗せて、相変わらずじっと夕陽に照らされた横顔を眺め続けていた。
そうして、笑う。
「楽しそうか?」
「ああ」
「そうか」
なら、いいと続けて呟いた。
重荷や苦しみになるような使命感なんていらない。そんなもん、クソ喰らえだ。
俺はいつでも俺らしく、俺の望みを叶えるためだけに生きる。
あの人のもたらしてくれたものは、俺にとって身に余る代物なんかじゃない。
楽しければ、気持ちよければ、それで全部チャラだ。
皆守がちらりとこちらを振り返った。
「なあ、晃」
「うん?」
「―――その、前から聞いてみたいと思っていたんだが」
幾分ためらいがちな口調に、玖隆は黙って様子を伺う。
「お前が、首からぶら下げてるモン」
風が微かに髪を揺らした。
「それ、何だ」
差し込む夕日がまぶしい。
それだけでは無い理由で瞳を細くしながら、燃えるように赤い奥で光がユラユラと揺れている。
皆守は視線を反らそうとしない。
じっと窺われて、そのうち、んーとのん気な声が玖隆の口から漏れていた。
「気になるか?」
暫らく黙り込んで、皆守はいいやと答える。
「嫌なら―――話さなくていい」
「そうだな」
不意にフェンスを両手で掴むと、そのままううんと伸びをして、指先が襟元のホックを外しにかかった。
下に着ているシャツのボタンを外し、ちらりと覗いた鎖骨のラインに皆守は密かに釘付けになる。
チャリ、と音がして、シャツと首の間から金色の鎖と、通された二つのリングが姿を現した。
キラキラ光る表面には―――何か、文字のようなものが掘り込まれてある。
玖隆は首の後ろに手を回して、鎖を外す。
掌に落とされたそこからリングのひとつを抜き取って、皆守に差し出した。
「ちょっと嵌めてみろ」
「不躾に何だ」
「いいから、ホラ」
指先に取ったリングはやけに華奢で、案の定皆守の指には嵌らない。
「人差し指はどうだ?」
「いや」
「小指」
「大きすぎる」
「薬指は?嵌るか」
「無理だ」
「そうか」
返されたリングを再び鎖に通して、玖隆は首に付け直した。
シャツのボタンを留めて、襟のホックも元に戻す。
一連の動作を終了させて、またフェンスに凭れるので、皆守は何となく手持ち無沙汰な様子で立ち尽くしていた。
振り返った玖隆が、微かに笑う。
「アレな、俺の宝物」
「宝物?」
「そう、命の次に大切な、俺の―――生きる証」
こんな風に笑える自分が、玖隆には信じられなかった。
記憶が蘇るたび、まだ心は血を流すというのに。
(けど)
誰かが囁く。
―――計るなら、丁度いいかもしれない。
それは、俺も、お前にも。
(ちょっと重いか?)
皆守も再びフェンスに腕を乗せて凭れかかっていた。
二人で見下ろす夕暮れの冬景色。
目を刺す輝きが眩しくて、端のほうにじわじわと滲み出している紺青に胸の奥を焦がしながら、寒々しい風がむき出しのコンクリートの上を駆け抜けていく。
今夜も遺跡に潜る事になる。
次のフロアの最後には、きっと神鳳が待っているのだろう。けれど。
(このまま突っ走って、上がりに到着したら)
その時俺は。
俺たちは。
「なあ、晃」
「ん?」
「―――お前にとって未来ってのは、明るいもんなのか?」
玖隆は振り返らずに答える。
「もちろんだ」
「そうか」
気配が、穏やかに笑ったようだった。
「お前がそういうと、本当にそうなんじゃないかって気になってくる、本当に―――おかしな奴だよ」
少し風が強くなってきたようだ。
寒い。
「甲太郎」
そろそろ寮に戻ろうと、声をかける間もなく、不意に肩を抱き寄せられていた。
僅かに驚いて振り返ったその先、皆守が、漆黒の瞳を瞬きもせず玖隆に向けていた。
「なあ、晃」
じっと見詰められて、思わず言葉を失う。
息苦しい沈黙の果てに、かすれそうなほど小さな声が、囁いていた。
「―――キス、してもいいか?」
玖隆は無言で皆守を見詰めていた。
今、まさに燃え尽きようとしている太陽の残滓が、瞳の色を深紅に染め上げている。
元々赤い色の瞳だからこその色だ、まるで紅玉のように鮮やかに輝く。
もっと奥を覗き込むようにと、皆守の瞳が炎のような気配を漂わせていた。
吐息すら聞こえない。
時間が止まったような錯覚を覚える。
不意に、風が吹いて、背の高い木立のざわめきを屋上まで運んできた。
玖隆の喉が微かに震えていた。
「フッ」
笑う。
「フフ、フフフッ、ハハハハハ!」
つい声に出して笑って、笑いながら訳がわからなくなっていた。
皆守は怪訝な顔をして、それがだんだん後悔に変わっていく様子に気づいて、玖隆は慌てて笑うのをやめた。
まだ疼く腹の虫をグッと堪えて、今度は真面目な顔で、ちゃんと皆守を見つめかえす。
「まさか男に口説かれるとは思わなかったな」
皆守は何も言わない。
ただ、視線だけ、玖隆の本音を探り損ねているようで、ユラユラと揺れ続けている。
「キス、したいのか?」
「―――ああ」
「俺と?」
ふいに他所を向かれそうになって、慌てて顔を覗き込んだ。
不満や、不安や、恐れがごっちゃになった全部を、より深い感情が包み込んでいて、そんな強い眼差しを向けられて正直面食らっている。
―――キスをするのは構わない。それくらい、挨拶代わりにいくらだってできる。
お望みとあれば老若男女構わず、憎くても、嫌でも、敵や、仇とだって、仮に利害が絡めば甘んじて受け入れるだろう。
―――けど。
玖隆は瞳を細めていた。
言葉に出来ない感情が、後からあふれ出して止まない。
けれど、これは何だ、何なんだ。
恋、では無い、愛とも違う。憐憫や、情欲なんかじゃ決してない。
ただ、押し寄せて、満ちてくる想い。
(こんなものは知らないぞ)
動揺している自分にむしろ動揺してしまう。
皆守は喉から手が出るほど欲しい何かを、懸命に堪えているようだった。
肩に触れる掌が熱い。
昂ぶっている鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。揺さぶられて、こちらまで心拍数が上がっているようだった。
玖隆は暫らく黙り込んで、不意に、微かに微笑んでいた。
「構わないよ」
けど、と皆守の髪に触れる。
「友達のキスしか、今はやれない」
まだ、俺は本当のお前を知らない。知らないでいて欲しいとお前が望む以上、俺は、知らない。
「知らない相手と、恋人のキスはできないから」
皆守の表情が僅かに歪んだ。
玖隆は構わず、頭を引き寄せ、唇でそっと額に触れた。
―――離れて、赤い顔で呆然としている皆守に、玖隆はまた笑いかける。
「本番は、まだお預けな」
そのままくるりと踵を返して、数歩先まで歩いた。
「甲太郎」
振り返った姿は逆行でまるで影法師のようだった。
もう、日は中ほどまで地平の果てに沈んでしまった。
「そろそろ帰ろう、いい加減、夜になっちまう」
「―――ああ」
僅かに戸惑う足先が、やがて、いつものように玖隆の隣に並ぶ。
歩き出すと皆守も同じ歩幅でついてくる。
校舎を出るまで一言も言葉を交わさなかった。
ほとんど闇色に染め上げられた廊下を抜けて、昇降口から外に出ると、辺りはもうすっかり夜の景色に塗り替えられていた。
天空で白い一等星がチカチカと淡い光をこぼしている。
「甲太郎」
振り返った皆守が何だと聞き返した。
「俺、ちょっと野暮用ができたから、お前先に帰ってくれないか」
「野暮用?」
「ああ、悪いんだけど」
「―――そうか、わかった」
どことなく名残惜しげに、ふらりと歩き出した背中が、途中で振り返って玖隆を呼んだ。
「晃ァ!」
なぜか胸が苦しくて、逆に進みかけていた玖隆は首だけ振り返る。
「今夜も、行くんだろう?」
「ああ」
「後で連絡をくれ、俺も行く」
「わかった」
「それと」
ひとつ間を置いて、視線が急にもどかしいような気配を浮かべた。
「―――寒いから、早く戻れ、風邪ひくぞ」
何処か照れの混じったその仕草に、玖隆はフッと優しく微笑み返す。
ぶっきらぼうで、照れ屋で、頑固で、素直じゃないくせに、やたら心根の優しい男。
彼の声が届くたび、甘くて痛い、訳のわからない感情が心の水面を揺らす。
「ありがとう」
そして駆け出していく姿を―――皆守はずっと目で追っていた。
闇の果てに消えて見えなくなるまで立ち尽くして、影はようやく踵を返した。
踏み出すたび、心と、体がバラバラに裂けていくような気がする。本当に欲しかったのは、キスなんかじゃない。
肌を切り裂くような木枯らしが、離れていく二人の間を強く吹き抜けていった。
(次へ)