有難うとしな垂れかかられて、悪い気はしない。
俺はやっぱり男なんだなあと思う。つくづく、彼女との出会いが遅すぎた事に後悔しきり、だ。
「やっぱり晃くんはあたしの見込んだ人だわ」
「それはどうも」
「実は、あたしね」
ふくよかな胸がぐいと腕から脇腹にかけて押し付けられて、濡れた瞳の双樹が見上げてくる。
玖隆は優しく緋色の髪を撫でてやった。
彼女はまるで子猫のように無邪気に瞳を細くして、肩に頬を摺り寄せてきた。
「どうしても振り向かせたい人がいるの」
「へえ」
「でも、このあたしの魅力をもってしても、全ッ然手応えなし、その人はちっともこっちを見てはくれない」
ぎゅっと腕をつねられて、玖隆はイテテと声を洩らす。
すねた眼差しがまた魅力的で、優しく見下ろしていると彼女はますますむくれた顔をしてみせる。
「双樹の魅力で振り向かないだなんて、不感症なんじゃないのか、そいつは」
「あたしもそう思うわ、もう、本当に意地が悪いんだから」
邪道だとは、わかっているのよ。
囁く口調は熱っぽい。もしも本気になってしまったらと、そんな予感すら一瞬よぎる。
―――現状において、それは決して起りえないことなのだけれど。
「その人が他の誰かに、それがたとえ、同性であったとしても、誰かに心奪われる事を想像するだけで怖いの、あたしは、そのためには―――例え邪道だとわかっていても、これを使うつもりよ」
「そう」
「絶対逃がさないんだから」
「それはそれは、恐ろしい話だ」
「ウフフ、そうよ、あたしが本気を出せば、誰であろうとひとたまりもないんだから」
スルリと絡みつく肢体を抱き寄せて、直後にここは真昼の教室なのだと思い出していた。
ふと周りを見回すと、今にも涎をたらしそうな腑抜けた男の顔が幾つもこちらを見ている。
女生徒達もチラチラ様子を伺っているようだった。
「双樹」
「イヤ」
「―――咲重」
溜息交じりの玖隆を見上げて、赤い唇がウフフと微笑む。
「これのお礼、後で何か用意しておくわね」
「ああ、嬉しいよ」
名残惜しく離れて、彼女は長い髪をふわりと躍らせながら、それじゃまたねと教室を出て行った。
色香にすっかり魅了されていた少年少女たちは一様にハーッと溜息を漏らす。
直後に、数人の男子生徒たちが一斉に、前傾姿勢で飛び出していった。
「やれやれ」
一体どこへ行くつもりなのやら。彼女の色香は、この歳の男には多少濃度が高すぎるか?
(なら、俺は不感症か、参ったな)
苦笑いしながら教室を後にした。
あの雰囲気の中じゃとてもいたたまれないし、それにもう一つ、用事が残っている。
途中の売店で惣菜パンを購入して、紙袋を片手にぶらぶらと歩く。
向かった先は保健室だった。
「失礼します」
丁寧に挨拶をしたけれど、見渡した室内には誰もいなかった。
ただ、ベッドの一つにカーテンが引かれていて、玖隆はドアをきちんと閉めると、そのまま傍まで歩いていって、そっと中を覗いてみた。
「よお」
「居たな、この無精者」
のん気にアロマを吹かしながら、横顔でニヤリと笑う皆守に、玖隆はやれやれとベッドの端に腰を下ろした。
袋の中からカレーパンを取り出して手渡すと、むっくり起き上がった姿が袋を破いてうまそうに食べ始める。
玖隆もその隣で同じくカレーパンにかじりついていた。
「お前さあ、ものぐさも度が過ぎると、友達なくすぞ」
「うるせえ、余計なお世話だ」
大和はどうしたと聞かれて、とりあえず瑞麗先生に任せてきたと詳細を報告する。
皆守は何か考え込むように閉口して、パンを平らげたあと、油で汚れた指を舐めながら、なあと呼びかけてきた。
「お前は、さ」
「ん?」
「大切なものを無くした事が、あるか?」
振り返ると、彼はこちらを見ていなかった。
まるで明後日の方角に向かって、緩々と紫煙を立ち上らせている。
何処か感傷的な、それでいてまるでそっけない仕草がかえってわざとらしくて、玖隆はそのまま後ろ向きに、ベッドの上に倒れ込む。
ぼすんと鈍い音と一緒に、皆守の足が背中にあたっていた。
「そうだなあ」
そのまま残りを食べきって、同じ様に指を舐めて、濡れた先を制服のズボンにこすり付けた。
皆守の手が玖隆の髪に触れて、そのまま指でつまんだり、撫でたり、くぐらせたりして遊んでいる。
感触がくすぐったくて、玖隆は目を閉じながら少しだけ笑った。
時折肌に触れる、彼の指先がやけに熱かった。
「大切なものはたくさんあるんだけどなあ」
でも、と呟く。
シャツの中で、リングが滑り落ちていく。
「失くしたものも、あるなあ」
―――鈍感なフリをして言葉に出してみても、まだ胸の奥が鋭く痛むようだった。
あれから随分時間が過ぎたのに。
俺はまだ、あの日の思い出を引きずって生きている。祈りも、願いも、生きる意義すら、苦痛と共にこの身に刻み込んだ、あの日からずっと。
「そうか―――意外だな」
「何が」
「お前って、何となくそういう深刻なものとは無縁のような気がしてたよ」
「失礼な」
目を開くと、すぐ傍に皆守の顔が見えた。
そのまま近づいてくる彼の顔面をガシッと掌で押さえて、起き上がると、肩越しに首だけ振り返る。
「キスはしないって言っただろう?」
「友情のキスなら、構わなかったはずだ」
「ああ、そうだよ」
「―――口は」
「ダメだ」
Auf die Wange Wohlgefallenと呟いて、離した掌で額をパシンと叩く。
「それは何だ」
「俺の母国語、それより甲太郎、どうして急にそんな話をするんだ?」
お前は―――とは、玖隆には訊けない。
夕薙の一件でナイーブになっているのかもしれないけれど、それ以外の理由があるような気がする。
無くしてしまった宝物。
それがなんだったのか、皆守は知らないし、玖隆も知らない。
俺達はまだ秘密を抱えたままだ。
一番後のお楽しみは―――パンドラの箱の底で燻っている。
真実が明らかになる時、きっと俺達は。
「いや、悪かったな」
問いかけには答えずに、皆守はパイプを咥えなおしていた。
「別に大したことじゃない、忘れてくれ」
ベッドに横になり、目を閉じるので、今度は玖隆から何となしに手を伸ばして髪に触れた。
皆守の髪は猫ッ毛で柔らかくて、指先をくすぐるように絡み付いてくる。それをほぐして、手櫛で梳いていると、不意に腕を掴まれていた。
「晃」
そのままアロマを除けて、手の甲、指先、掌と、キスを繰り返していく。
開いた瞳と鉢合わせになって、玖隆は苦笑してしまった。
「ずるいよ、甲太郎」
「どっちが」
「俺に何を望んでるんだ」
「―――望みなんてない」
「ならその手を離してくれ、昼休みが終わる前に、俺は教室に戻るから」
皆守は手を離さない。
仕方ないなと呟いて、空いているほうの手で彼の前髪をさらりと除けた。
露になった額の上に、唇でそっと触れる。
閉じた目の上にもキスを落として、起き上がると、最後にもう一度だけ髪を撫でた。
今度はスルリと手が離れていく。
皆守は、まだきっと満たされてはいないのだろう。
それでも今は多少満足できたのかと、苦い気分のままでベッドサイドから立ち上がっていた。
「じゃあな」
告げながらカーテンをくぐると、入れ替わりに養護教諭と取手が保健室に入ってくる。
なんてタイミングだ。
玖隆は再び苦笑いを浮かべていた。
「あれ、あっちゃん」
「よお、鎌治、それに、ルイ先生」
「どうしたんだい、こんな所で、もしかして、怪我でもしたのかい」
「違う、取手、用があったのは玖隆じゃないのだろう?」
呆れた口調の瑞麗に肩をすくめて見せると、背後の仕切りに気づいた取手も困り顔で微笑んでいた。
「そうか」
「まったく、世話の焼ける相棒でね、じゃあ、俺はもう行くから」
「うん」
「ああ、そうだ玖隆、君に頼み事があるのだが―――」
たわいもない会話の合間に夕薙の容態などを聞いて、保健室を出た玖隆は、扉をきっちりと閉めた。
皆守は最後まで会話に割り込んでこなかった。
眠っていたわけじゃないだろう。話し声は聞こえていたはずだ。
きっと、カーテンの裏側で、俺の言葉を、息を潜めて聞いていた。
あいつはいつもそうだ。耳をそばだて、気配を消して、いつでも俺の事を探っている。
そういえば転校初日からそうだったよなあと、数ヶ月前の出来事がまるで遠い昔のように思えて、思わず小さな声が漏れる。
「多分―――もうすぐ、だもんな」
予想以上に寂しい含みを帯びる声に、自嘲的な笑みが漏れる。
目に映る風景の全てを焼き付けるように、しっかりと前を向いて、学生服姿のハンターは午睡にまどろむ校内を確かな足取りで歩き出していた。
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