ダルイ、ダルイと皆守の台詞にもいい加減飽きているのだが。

けれど、案の定ダルイと言いながら現れた友人は、玖隆に伝言だけ残してさっさと姿を消してしまった。

保健室から寮へ、あの後いったん戻っていたらしい。

出てくるときに夕薙の姿を見かけたなどと白々しい台詞に、内心やれやれと溜息交じりの苦笑を漏らす。

どうせ容態を見に行ったのだろう。相変わらず律儀で面倒見のいい男だ。

こういうところは皆守の美点だと思う。

普段ぶっきらぼうな物言いや態度で誤解されがちだけれど、あいつの本質は真面目で、非常に潔癖な、心の温かい優しい男だ。そうそうお目にかかることの出来ない、磨けば光る原石だと思う。

ただちょっとわがままで、いじけやすい体質なんだよな。

歩きながら玖隆は考える。

皆守はいつも堪らなく何かを欲していて、そして多分彼は、俺の中にその片鱗を見出しかけているのだろう。

でなければ、男にキスなんてねだるわけがない。

そういう趣味があるわけではなさそうだし、冗談や、友愛が発展しすぎた末の倒錯の類でもないようだった。

ならなんだ。あいつが俺に欲しがっているものは何なんだ。それは、俺が思っているようなものなのか?

屋上での一件以来、皆守はかなり積極的にそれを前面に押し出してくるようになった。

だからといって今の関係が急変するわけでもないけれど、まだ多少戸惑ってしまう事がある。

さっきだって、拒まなければ、あいつはどこまでも俺を求めていただろう。多分、キスだけじゃなくて。

わかるからこそ、尚わからない。未明の最たるものは、他でもない俺自身の感情だ。

野郎と愛情交じりのキスなんて、正直ぞっとしないけれど、相手が皆守ならば、それが許せてしまいそうな気がする。あいつが望めば、俺はどこまでも俺自身を差し出してしまいそうな気がする。

望みなら最初から一つきりで、けれど最近はもう一つ、欲しいものが出来てしまったけれど、願いの先にたどり着く場所を、俺たちはまだ見極めていない。

「俺にできる事は」

皆守は言った。

「アロマを吸いながら、お前を見守るくらいだがな」

天香学園を訪れたその日から、常に傍らにいた、花の香りのする何処か秘密めいた彼の姿。

想いは同じだと信じたくても、それを妨げる深く暗い何かが俺達の間に横たわっている。

願いは何だ?望みは?

襟元を探って、チェーンとそれに連なる思い出の残滓に指先で触れる。

こんな小さな輪っか一つで願いが叶うなんて思っちゃいない。それでも、俺にとっては何物にも代えがたい、祈りの象徴みたいなものなんだ。

皆守には宝物だと話した。

その意味を、あいつはいつか理解してくれるだろうか。

皆守自身の口から彼の言葉を訊くまで、真実は永久に闇の中だ。

けれど、その時が来たら。

俺は?

お前は?

俺たちは―――

未来は暗闇であり、また光に満ちているようにも思う。

先の事は誰にもわからない。

混沌の中、望む先を目指して、闇雲に探り続けている。

何が欲しい?何を望む?

お前の欲しいもの。俺の欲しいもの。生きている限り、望みは続く。願いは続く。

人一倍傷つきやすくて、生きる事に不器用すぎるあいつと、いつか飛び立ってしまう渡り鳥。

ここで紡いだ、柔らかで頼りない想いの糸。

途切れる事は無いと信じたい。いや、信じている。けれど。

―――こんなものが、一体この先どれ程増えていくのだろうか。

「きっついなあ」

玖隆は一人、苦笑と共に呟いていた。

廊下を歩く速度は大分速い。

皆守がつないだ伝言は、瑞麗教諭が玖隆を呼んでいるということだった。

角を曲がった所で、聞き覚えのある声がまるで今朝のリプレイのように耳に飛び込んできた。

「おい、もっと、こっちに来いッ」

「ぼ、僕に何か用ですか?」

立ち止まって様子を伺ってみると、そう離れた場所の出来事でもないようだった。

言い争う声の後で、別棟へ移動する廊下のある方角から誰かが駆けてくる。

遠めに見えた姿は響で、彼は玖隆の姿を確認すると、僅かに足を止めて、後続の足音に身体をビクンと震わせて、そのまま背後に回られて、隠れられてしまった。

驚いて立ち尽くす玖隆の前に、今朝の三人組の男子生徒たちが、再びこぞって登場した。

「あ!玖隆晃ッ」

「何ィ」

彼らは忌々しげに舌打ちを洩らしていた。

まったく、本当にどうしようもない奴らだ。

同級生を苛めている暇があるなら、女の子でも口説いていたほうがよほど楽しいだろう。

こんな事に情熱を傾ける、彼らの気持ちがまるでわからない。

呆れた眼差しを向ける玖隆に、少年の一人が再び愛想笑いと共にヘコヘコと腰を折る。

「す、すんません、玖隆先輩、俺らはじゃあこれで」

「オイ、ちょっと待てよッ」

立ち去ろうとした二人を、一人が急に引きとめた。

驚く彼らと対照的に、彼一人だけが玖隆に抜かりなく、根性の悪い視線を向けていた。

何だ、多少気骨はあるんじゃないか。

どうするのかと窺っていると、こいつ、本当に噂どおりの奴なのかよと、彼は自身の価値観に疑問を抱き始めたようだった。

まあ、当然かと玖隆も思う。

一人歩きした噂にろくなものは無い。尾ひれ背びれに胸びれまでついて、実際より誇張されている事が殆どだ。

その点を疑った事に関しては、彼を評価していいと思う。

けれど、噂には、その大元になる原因がどこかしらに残されている事も事実だ。

少年達はニヤニヤ笑いながら、いつの間にか玖隆の周囲を取り囲んでいた。

「こいつの面見てみろよ、俺には、この転校生がそんなにスゲェ奴だとは、どうしても思えないんだけどよ」

「確かにそうだな」

「だろ?」

背後に立っていた響を突き飛ばして、少年の一人が恫喝する。

「あっちいってろッ」

「ヘヘヘ、てめえは後でたっぷり遊んでやるからな、まずはこいつだぜ、転校生」

玖隆はやれやれと後頭部に手をやった。

「おい、転校生、この野郎、ハッタリかましてくれやがって」

その腕を掴もうとした男子生徒は、直後に目を丸く見開いていた。

「えっ」

他の二人も訳がわからないといった表情で、呆然としたまま立ち尽くしている。

彼は、確かに玖隆の腕を捕らえたはずなのに。

今、男子生徒の腕は、逆に玖隆にひねり上げられていた。

「あ―――いて、いてててて!」

一呼吸置いて苦しみだした仲間に、他の二人は多少狼狽している。

こんなもんか。

玖隆は溜息を漏らす。動作が遅すぎて話しにならない。俺を誰だと思ってるんだ。

(オッドアイの悪魔、玖隆晃だぞ)

フフンと鼻で笑うと、幾らか身を引いた男子生徒たちは、それでもまだ気丈にそいつを離せ、痛い目見たくなかったら金目の物を置いていけと、玖隆を睨みつけている。

「頑張るもんだ」

微笑むと、片方がカッと顔を赤くして、そのまま拳を振りかぶっていた。

避けるか、今捕まえているこいつを縦にしようか、瞬時に判断しようとした、その時だった。

「何してんすか、センパイ?」

男子生徒たちはハッと振り返る。

玖隆も、目の前の拳の向かう先が迷って下ろされるのを確認してから、声のした方へ振り返っていた。

「夷澤じゃないか」

好戦的な表情で、ニヤニヤと笑いながら近づいてくる―――夷澤凍也は、すぐ傍まで来て立ち止まると、眼鏡のフレームをくいと指で押し上げた。

「随分楽しそうな事をやってるじゃないっすか、オレも混ぜてくださいよ」

玖隆は苦笑して、逆に楽しそうだったかと聞き返してしまった。

「オレも、こういうアホそうな連中をいたぶるのは好きですよ」

「いたぶってないんだけどなあ、むしろ、絡まれていたというか」

「センパイがっすか?ハア、お前ら本気でアホだな」

こりゃ矯正が必要かもしんねえなあと、夷澤は何の前触れもなしにすぐ傍の男子生徒に強烈なジャブをお見舞いした。

「グアッ」

その場にいた誰もが瞠目する。

背後で息を呑んだ響の気配を感じながら、玖隆もまた顔をしかめていた。

顔面を強打された彼は、そのままぐったりと崩れ落ちていた。

「野郎、いきなり何をッ」

直後にその彼も腹部に一発喰らって座り込む。同時に、胃液のようなものを大量に床に嘔吐した。

汚ねえなあと、夷澤はその姿をまるで汚物を見るような目で眺めている。

「さて、センパイ?」

ちょいちょいと指先で合図して、捕まえているそいつもよこせと、レンズの奥の目が凶悪な色を帯びた。

男子生徒がヒッと喉を引き攣らせる。

「あんたがやらないってなら、俺がゴミ掃除してあげますよ、何、こんなもん、練習台にだってなりゃしねえ、おまけにこんなに汚しやがって」

うずくまった生徒をつま先で蹴る。

「て、てめえ」

男子生徒はそれでもまだ、必死の形相で抵抗を試みようとしていた。

「こんな事して、ただで済むと」

「思ってるに決まってるだろ、バカかお前」

勢いよくもう一度殴りつける。続けて二度、三度。

「クッ、クククッ」

飛び散る返り血に、夷澤は笑っている。

まるで正気でないその姿に、見かねて玖隆は彼の名前を呼んでいた。

「夷澤!」

はたと止まった両腕が、そのままふらりと身体を起こして振り返る。

彼の足元には、すでにボロボロになった男子生徒の姿が、か細い呻き声を洩らしながらもがき苦しんでいた。殴られ続けた顔面は見る影もない。歯も、数本砕かれているようだった。

玖隆の腕に捕らえられたままの男子生徒がヒュウと喉を鳴らしていた。制服の背中を、華奢な指がぎゅっと掴む感触がする。

「いい加減にしろ」

「何すか、センパイ?オレのやり方に文句がありそうなその態度は」

―――そいつはもう、立つこともできないじゃないか」

「だから何スか?」

「無抵抗の相手が一方的にやられるのは、好きじゃない」

「はあ、あんたの好みなんて関係ないでしょ?こいつらゴミッすよ、ゴミ哀れんでどうするんスか」

とんだ慈善家ですねと、嘲るような表情が軽く眼鏡のフレームを押し上げた。

レンズとその指先に血液が付着している。彼自身気づいて、ひどく不快そうに顔をゆがめていた。

「クソ、レンズが汚れた、あーあー制服もだ、せっかく昨日クリーニングから返ってきたばかりなのに」

お前らクリーニング代払えよと言いながら、ポケットからめがね用のクリーナーを取り出しているので、玖隆はその隙に掴んでいた腕をパッと手放していた。

「ん?」

眼鏡を外した夷澤がこちらに顔を向ける。

開放されてすぐ男子生徒はそのまま逃げ出そうとして、しゃがみこんでいる二人に視線を向けると、僅かに逡巡してから夷澤の足元の一人を引きずって駆け出していた。もう一人も何とか立ち上がり、彼を助けて一緒に逃げていく。

「ああっ」

夷澤は慌てて眼鏡をかけなおしたが、タッチの差で、彼らはすでに姿を消した後だった。

悔しそうに舌打ちを洩らした狂犬は、振り返って今度は玖隆に向かってその牙を剥いてきた。

「センパイのせいで、逃げられちまったじゃないっすか!」

「そうだな」

「冗談じゃないっすよ、これからもっと楽しもうと思ってたのに」

「どうだっていいだろ、あれならサンドバック殴ってるのとそう変わりないじゃないか、だったらサンドバックを殴れよ、その方が廊下も汚れないし、訓練にも向いてる」

「あのねえ、オレは、そんなつもりでやってたわけじゃないんすけど」

「じゃあなんだ、お前はあいつらを痛めつけたかったわけか?」

「そうっすよ」

悪びれない様子で、夷澤は血の付着した拳を取り出したハンカチでぬぐう。

「だって当然でしょ、ああいうクソ共こそ、最高の遊び道具じゃないっすか、校内環境の改善だって言えば、どれだけ殴ろうがお咎めなしなんだ、あーあ、せっかくいい気晴らしになると思ってたのに」

残念だなあとぼやいて、夷澤は不意にそうだと瞳を輝かせていた。

「代わりに、センパイに俺の相手をしてもらおうかなあ」

「い、夷澤くんッ」

「ん?何だ、お前、響じゃねえか」

玖隆の背後に姿を認めて、そこにいたのかと今更のような台詞を洩らした夷澤に、響はオドオドと視線を足元に落とす。

「何だ、じゃあもしかして、先にお前が絡まれてたんだな?」

「う、うん」

「なるほどね、ま、アンタがいきなり喧嘩売られるなんて、わけないとは思っちゃいましたが」

得意げにフフンと笑う。彼はすぐ状況を察したらしい。

「なら、これもついでと思って、受けてやってくださいよ、センパイ」

拳を構えなおす。

夷澤の姿に、響が再びやめてよと震える声を上げていた。

「うるさいな、口出しするなよッ」

お前、邪魔だからあっちに行ってろと、シッシと片手で追い払うような仕草をする。

「実は、アンタの事が目ざわりだったんすよ」

玖隆はやむを得ないかと少しずつ体勢を移行し始めていた。

彼とは恐らく、あの遺跡で交戦する事になるだろうから、その時まで無駄な争いは極力避けたかったのだが。

「どいつもこいつも、玖隆、玖隆って」

―――夷澤に、引くつもりは無いらしい。

「や、やめてよ、夷澤くん!」

響が叫んだ。

玖隆は構えを取る。

「へえ、それがセンパイ流ッすか?見ない構えですね」

「うちの本宅の構えのアレンジだからな」

「本宅?ふうん、まあ何だっていいや、それじゃそろそろ行きますよ、センパイ?」

夷澤が片足を踏み出してきた。ジャブだ、恐らく上段。玖隆は受身と共に迎撃の姿勢に移る。

「たっぷりとオレの拳を味わいなッ―――

「止めてよおおおおおお!」

絶叫と共に、まるで衝撃波のような甲高い音が二人の鼓膜を襲い―――

「うくっ?」

「み、耳がッ」

とっさに耳を覆って屈み込んだ二人の傍で、窓ガラスが盛大に砕けて飛び散っていた。

続けてパン、パンと、廊下に面した全てのガラスが次々に砕けて辺りに散乱する。

呆然と立ち尽くす玖隆と夷澤のすぐ傍で、ああ、と小さい声が聞こえた。

「響?」

視線の先、響は、顔を真っ青にして、口元を押さえながらぶるぶると全身を震わせていた。

「ああ、ぼ、僕は、僕は、また」

「また?」

夷澤が眼鏡を押し上げる。

直後に、響は悲鳴とも泣き声ともつかない声を張り上げながら、その場から一気に逃げ出してしまった。

まさか。

姿を見送りながら、夷澤は不意にぽつりと呟く。

「あいつが?」

直後にク、ククと、肩を震わせて忍び笑いを洩らしていた。

何かの異様な気配に、玖隆はハッと振り返っていた。

「面白くなってきたぜ」

後輩はもう、下克上に興味がなくなってしまったらしい。

そのまま踵を返して歩き出す姿に、なんともいえない気分が胸の奥でわだかまっていた。

多分、この事をさして神鳳は夷澤を危険だといったのだろう。

彼の真に厄介な部分は、力に固執するあの性分と、彼の中に潜む、正体のわからない何か。

彼は元々ああいうタイプの人種だったのだろうか。それとも、件の呪いによって心の拠り所を奪われ、その結果あのような思考をするようになってしまったのだろうか。

理由はわからないけれど、とにかく今、再び一人に戻った。

見渡す景色は惨憺たる様だ。

ここへまた、騒ぎを聞きつけた境が現れたら、今度は何を言いつけられるものかわかったものじゃない。

まだ釈然としていないけれど、とにかく保健室へ向かおうと、玖隆は歩き出していた。

ガラスの合間に鮮血と歯が落ちている。

目に留めて、また少し顔をしかめると、そのまま階段を降りていった。

角を曲がる直前、廊下の向こうから教員や生徒達の騒ぐ声がわずかに聞こえていた。

 

次へ