「君に、これを」
差し出された死反玉という名の宝玉を受け取って、玖隆は真っ直ぐに瑞麗を見詰め返す。
目の前にいるのは、天香学園で暮らす全ての人々の心身の健康を守る、頼もしい養護教諭、劉瑞麗。
占術に長けた勘の鋭い年上の女性でもあり、同時に―――M+M機関のエージェントでもあった。
彼女の口からはっきりそう告げられた瞬間、動揺しながらも、何処か納得する自身に玖隆は気づいていた。
彼女が只者でない事くらい当の昔に気づいていたし、そもそも民間人でこれほど特殊な技能や、独特の考えを持っているという事自体、すでに一般の域を逸脱している。
けれど、それ以上の事はわかりようもなくて、だから事実を理解したときには、正直恐れ入った。
俺なんか転校初日にあっけなく正体を、しかも一般生徒に見抜かれてしまったのに。
経験不足だけは知識や訓練などで補いきれない。俺はまだまだ未熟だなと痛感する。
瑞麗は先に玖隆の素性を教えてくれと願った。
彼女には大恩があるし、何より信頼の置ける人物だと評価している。だから腹を割って全てを明らかにしたのだが、結果その行為が彼女に最後の決断を促したらしい。
「君自身の素性を、君の口から聞きたかっただけなんだ、私の前では本当の事を話して欲しかったから」
君が話してくれた以上、私も話さなければならない事がある、聞いてくれるだろうかと前置きをして、頷いた玖隆に、彼女も自身の正体を明かしてくれた。
ロゼッタの派遣員が来る事は、事前に諜報部から知らされていたらしい。
彼女は、ずっと玖隆の人となりを窺っていた。
仕事に支障を及ぼすような存在であれば、追い出すか秘密裡に処分しろ。
それが上からの命だったという。今、劉瑞麗は親しげに微笑みかけてくる。
「君達と私達は、時としてその命を懸けて熾烈な戦いを繰り広げてきたのだよ―――安心したまえ、私は君と争おうとは思っていない」
「はい」
「生徒会にファントム、そして喪部、この学園に眠る秘宝を巡った戦いも、終局を迎えつつある」
煙管の先の紫煙がフウと揺れた。
それが、誰かを思い出すようで、玖隆の胸の奥がズキリと痛む。
「全ては君、玖隆晃の宝捜し屋としての資質にかかっていると言っても過言では無いと、私は思っている」
「瑞麗先生」
「謙遜をするなよ?君を信じて戦っている者達に失礼だからな」
そうして彼女はフッと笑っていた。
「どうだ、玖隆、君は彼らと戦い、秘宝にたどり着く自信があるかね?」
―――この数ヶ月の出来事がめまぐるしく脳裏に蘇っていた。
玖隆は目を閉じて、息を吸い、それをゆっくり吐き出して、再び瞳を開く。
暗緑色の瞳が、その奥に宿す輝きを強くしていた。
「はい」
無論。
それが俺の最大の望みであり、ここへ来た理由でもあるのだから。
目的を達成するのに、迷いなどいらない。その暇もない。
幾つかの気がかりはあるけれど、俺は歩みを止めたりしない。
力強い答えに、瑞麗も満足したようだった。
静かに頷いて、件の宝玉を手渡してくれた。
「それは、死反玉」
「死反玉?」
「ヒーリング効果があるといわれている、かつて君達宝捜し屋が見つけ出し、我々M+M機関が買い取ったものだ」
我々は表向きでは対立しているが、利害は一致しているのだよと、少し釣り目がちの美女はニコリと玖隆に微笑みかけていた。
「だから、私も君に力を貸そう、何かあったら連絡するといい、できる範囲でならば、助力は惜しまないつもりだ」
「ありがとうございます」
「君のそういう真摯な態度が、何より人の心を開く鍵なのだと、よく覚えていたまえ」
「はい」
夕暮れがかった保健室に、下校の鐘の音が鳴り響く。
「今日も、黄昏がこの学園を包む」
出入り口までついてきて、別れ際に瑞麗は玖隆の目の奥を覗き込んでいた。
「気をつける事だ、夜は、妖や魔の領域、何が起きても不思議ではない」
「はい」
じゃあなと言われて、一礼して、ドアを閉めると同時に、端末がメールの着信を告げる。
中を確認した後、眩しい夕焼けの中を、玖隆は一人寮まで帰っていった。
武器の手入れをしつつ、軽く食事を済ませておく。
今晩八時に双樹と屋内プールで待ち合わせをしていた。先ほどのメールは夕薙からのものだったが、時刻の指定などはなかったので、まあ後でも構わないだろう。
皆守に一声かけておこうかと思って、止めた。
恋人同士じゃあるまいし、どうして双樹と会うのに、皆守に報告しておく必要があるんだ。
瑞麗の言葉を反芻しているうちに、あっという間に時間は過ぎていた。
部屋を出て、歩きながら、彼女の笑顔と声が蘇っていた。
―――君自身の素性を、君の口から聞きたかっただけなんだ、私の前では本当の事を話して欲しかったから―――
「本当の事、か」
真実は喜びだけもたらすとは限らない。
時に、偽っていた事実以上の痛みを伴って、心を傷つける事がある。
「それでも、俺は」
夜風に吹かれながら、襟元を少しだけ開いて、取り出したネックレスを月明かりに照らす。
金の表面を僅かに見詰めて、シャツの内側に大切にしまいなおすと、歩く速度を少しだけ上げた。
刻限丁度。施設の裏口に、鍵はかかっていなかった。
玖隆はそのまま上がり込んでプールサイドへ向かう。
ガラス扉を開くと、水音と、波間にしなやかな肢体が見え隠れしていた。
向かっている先の岸で待って、縁を掴んだ手と、不意に見上げた濡れた姿に、玖隆はニコリと微笑みかけた。
「やあ、双樹」
「晃くん」
「来たよ、どうしたんだ?」
ちょっと待ってと艶っぽい声で答えて、双樹が水から上がってくる。
見事なプロポーションを包み込む水着は随分刺激的なデザインで、そうでなくても魅力的な彼女の姿をますます際立たせるようだ。
触れてみたい衝動を誤魔化すように、ふうと大きく溜息を吐いて見せた。
すぐ感づいた双樹が、蠱惑的な笑みを浮かべていた。
「ウフフ、欲しいの?」
「ああ、喉から手が出そうだ」
「困った人、でもそういう素直な所が好きだわ」
玖隆は周囲を見渡すと、ベンチにかけてあったタオルを取ってきて、両手に持って広げた。
飛び込んできた双樹を受け止めて包み込む。
手を離そうとすると引き止められて、そのまま抱きしめるような格好になってしまった。
「優しいのね、あなたの腕の中って、温かでとても居心地がいいわ」
「そうか?」
「ええ、出来ることなら、私が独占していたいのだけど」
寂しがりの親友の姿が脳裏をよぎっていた。
苦笑する玖隆に、双樹もウフフと微笑みかけてくる。
「あのね、来てもらったのはね、あなたに知っておいて欲しい事があったからなの」
「なんだい?」
「それは<秘宝>へと繋がる封印をとくための<鍵>について」
玖隆の腕に力がこもった事を感じ取って、双樹はコツンと肩に頭を乗せていた。
首筋に吹きかかる吐息が、ひどく熱い。
「あなたが秘宝を手に入れるためなら、なくてはならない物、あなたならきっとその鍵で」
―――この学園を呪いから開放してくれるかもしれない
「そう、思ったの」
濡れた前髪がクシャリと喉に触れて、彼女はすっかり体重を預けてくる。
柔らかな感触と体温、女の匂い。
漆黒の闇に包まれて、二人きりという状況に、殊更理性が飛んでしまいそうだった。
双樹の指先が胸元をなぞる。
ゾクゾクと反応する雄の本能が、本当に喉から手が出そうなほど彼女を欲しているとわかる。
ダメだと玖隆は息を呑む。
何がダメなものか、彼女もそれを望んでいるのなら、ゆだねてしまえと思うけれど、もう一方で誰かがダメだと言い聞かせている。
それはよく知っている声のような気がしていた。
ねえ、と双樹が甘い声で囁いた。
「でも、その話は後でゆっくり、晃くん、今夜は月明かりもキレイだし、一緒に泳がない?」
「生憎―――水着を持ってくるのを忘れたんだ」
「ここにはあたしたちしかいないのよ?」
「一人で裸じゃ、不公平だと思わないか?」
「ウフフ、それなら私が裸になれば、何も問題は無いわよね」
理性が大きく傾いだ。
促されるように、玖隆が制服を脱ぎかけた、その時だった。
「―――イヤだわ」
小さく呟く声に、玖隆もハッと顔をあげる。
プールサイドに忽然と現れた、影。
タオルを脱ぎ捨てて、そっと離れていく双樹の傍で、油断なく様子を伺う。
影は、暗闇に長い鍵爪を光らせていた。
「今、話してもらおうか?鍵の在処をな」
「無粋な人ね、あたし達が楽しんでいるのが見えないの?鍵ならここには無いわ」
ファントムは、殺気だけ漲らせて双樹をじっと見詰めている。
今装備している武器は、コンバットナイフとハンドガン。彼女を守って脱出するくらいなら、多分何とかできると思う。双樹も、戦えないわけではないのだし。
「それに、何であたしが鍵のある場所を知っていると思うのよ」
挑戦的な一言に、目の前のファントムの姿が消えたと思った。
いや、そうではなく、彼はまるで本物の影のようにタイルの上を滑り、次の瞬間には双樹の身体を捕らえていた。
およそ人間では考えられないような動きだ。
玖隆の目でも見極められなかった。クッと奥歯を噛み締める。
「ククク」
ファントムは、双樹の喉元に鍵爪を押し当てて、笑った。
「生徒会室にあった鍵が無くなっていた、持ち出したのはお前だろ?」
「なッ、何であたしが」
「アモンの手から奪い去り、この男に渡すつもりで持ち出したに決まっている、女というのはいつの時代でも男を裏切るものだからな」
双樹は唇を噛み締めている。
真実はどうなのか、玖隆にはわからない。
「鍵はどこだ」
ファントムは繰り返した。
「教えなければ痛い目をみるぞ」
「教えて欲しかったら、あたしを口説き落とすくらいの事はしてごらんなさい?フフフッ」
途端、鍵爪の嵌った腕が、双樹の片腕を掴んでひねりあげる。
「キャアアッ」
「咲重ッ」
「動くな玖隆晃、逆らえば、女の腕がへし折れるぞ」
苦悶の表情でこちらを見詰める双樹に、玖隆は掌を握り締めた。
何も出来ない自分が歯がゆく、また悔しい。
掴んだ腕をますますねじりながら、ファントムは仮面の下の唇を彼女の耳元に寄せて、囁きかける。
「もう一度訊く、鍵はどこだ」
「部屋の鍵なら、水着の胸元よ」
「ふざけるな!」
双樹の悲鳴が屋内に響き渡っていた。
「我は冗談が嫌いだ」
「くッ」
堪らず、胸元のホルダに腕を伸ばそうとした玖隆に、厳しい一喝が響く。
「動くんじゃないッ―――お前も、おかしな事を考えるなよ、能力を使われては厄介だからな」
「何故、あたしの力を?」
「我はファントム、この学園の影に潜み、いつでもお前達を見ていた」
「フン、覗き魔って訳?随分と暗い趣味だこと」
こんな状況にあっても、彼女は屈しようとしない。
改めて気概あふれる女性なのだなと、玖隆は感心していた。双樹は強い眼差しでファントムを睨みつけている。
「鍵の在処なら、喋る気はないわ」
「そうか」
剣呑な響きに、ハッとする。
「―――では、死ぬがいい」
直後に銀の光が一閃して、突き飛ばされた双樹はそのままタイルの上に崩れ落ちていた。
「咲重!」
「うく、あ、きら、くんッ」
両腕をついて荒い呼吸を繰り返す彼女の、脇腹に鮮血の滲む太い筋が走っている。
直後に飛びのいたファントムと入れ替わりで、玖隆は傍らに膝をついて容態を窺っていた。
「咲重、どうしたッ」
「か、体、が」
「ククク、この爪には毒が塗ってある」
ファントムの無機質な声に、一瞬瞠目すると、そのまま傷口に唇を押し当てて、考える間もなく血液を吸いだしていた。
吐き出した幾滴がプールに落ちて、赤い波紋を作りながら消えていく。
「無駄な事を」
玖隆は構わず、それを数回繰り返した。
顔を上げて、鮮血に染まった口元をぐいとぬぐいながら、制服の内側を必死に探る。
指先に硬質な感触を覚えて、引っ張り出すとそれは薬品のアンプルセットだった。
いついかなるときでも、あらゆる状況に対応できるように。
常備している最低限の装備の一つ、そのうちの幾つかを選別して取り出し、調合して応急処置用の消毒薬を作成する。
傷口に塗布すると、そっと双樹を床の上に横たえた。
「咲重、動くな、とりあえずこれで我慢してくれ、すぐにちゃんと治療するから」
「晃くん」
「すまない、守れなくて」
そっと頬に触れて、立ち上がった玖隆は、ハンドガンを抜き出しながらファントムに向かい合う。
「―――どこまでも我に逆らうつもりだな?」
「この落とし前はきっちり付けさせてもらうぞ」
「逆らった事を後悔するがいい」
鋭い鍵爪が振りかぶり、玖隆が銃口を定めた、その瞬間だった。
「後悔するのはお前だ」
威圧的な声と、気配。
同時に振り返った二人の視線の先、プールの入り口に、漆黒の男―――阿門帝等が、まるで夜の闇から抜け出してきたような姿で立っていた。
「やはり現れたか、学園の影に巣食う幻影よ」
「お前は」
「正体を見せてもらおうか」
一歩踏み出す様子を見て、ファントムが一歩後退りをする。
何処か怯えたような気配に、玖隆は僅かにハンドガンの先を下ろしていた。
ファントムは、そのままじわじわと後退していく。
玖隆の隣まで歩いてきた阿門が、足元の双樹をちらと見ると、ファントムの足元に一つの小箱を投げ捨てていた。
「持っていけ」
ファントムは小箱と阿門を交互に見る。
「鍵はくれてやる、さっさとこの場より失せろ」
先ほどより多少顔色は良くなったものの、双樹は相変わらず苦悶の表情を浮かべていた。
小箱を掴むと、ファントムはそのまま大きく飛び上がる―――まるで、人間では無いようなジャンプ力だ。
そのまま天窓を突き破って、嘲るような声が室内に響き渡った。
「愚かな奴め、女の命と鍵を秤にかけたな、後悔するがいい」
玖隆は落ちてくるガラスから双樹を庇うようにして立っていた。
阿門もそうしているようだった。
二人の背中に、細かな破片が幾つも降り注いできた。
「もう、ここに用はない、ついに古の封印がとかれる時が来た、人間どもよ、見ているがいい―――」
声はそのまま夜闇に紛れる。
仰ぎ見た阿門が、墓に向かったかと呟いていた。
「双樹を助けてくれたようだな」
振り返った表情からは、相変わらず好意も、友好的な素振りも感じられない。
「生徒会長として、礼を言わせてもらおう」
「そんな事はどうでもいい、それより解毒薬を早く作らないと、これが何の毒だか」
「案ずるな」
阿門はコートの内側からアンプルを取り出すと、先端を折って抱き起こした双樹の唇にあてた。
「飲め、双樹」
「阿門様」
震える奥へと液体が流れ込み、白い喉がゴクンと上下に動いた。
グッタリと瞳を閉じる彼女を再び横たえて、立ち上がった阿門は再び玖隆に視線を戻す。
「今日の所は、双樹に免じてお前を見逃してやろう」
「阿門」
「俺と戦うその時までに、せいぜい腕を磨いておくんだな」
グッと拳を握り締める。
「では、さらばだ」
コートの裾を翻して、遠ざかっていく姿を見送ると、直後に玖隆は膝を折って双樹を覗き込んでいた。
彼女は気を失ったらしい。
とりあえず身体をタオルで包み、抱きかかえて施設を後にする。
とにかく、傷の手当てをしなければ。
解毒は阿門がおこなってくれたようだが、相変わらず出血がひどい。部屋に戻れば、治療の手段がある。
夕方―――瑞麗が頼りにしてくれと言っていた、言葉が脳裏をよぎっていた。
「いや」
玖隆は寮に足先を定めていた。
この程度なら、俺にも手当てができる。
俺がぼんやりしていたからこんな事になった。なら、その責任は、自分でちゃんと取る。
「咲重、もう少しだけ我慢してくれ」
暗闇の中を進む二つのシルエットは、月明かりを避けるようにして道のりを辿っていった。
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