珍しい事に、皆守は午後の授業も全て出席した。

どうしたのだろう?

最近は、午前中は比較的教室に留まるようになっていたけれど、昼食後はまず姿を見かけない。

授業が始まる前か、その途中に抜け出して、何処かへ行ってしまうのが常だった。

(こんな事、もしかして初めてなんじゃないのか?)

色々考えていると、大あくびと共に眠い、眠いとお馴染みの声が近づいてきた。

「よお、晃」

下校の支度も終わったので、鞄片手に立ち上がると、気まずそうな瞳と視線がぶつかる。

「その、ちょっと付き合って欲しいとこがあるんだが、一緒に来てくれるか?」

どこか困り顔の皆守に、玖隆はきょとんとしていた。

またもや、珍しい。

こいつが俺に頼み事をするなんて、一体今日は何の日なんだ。

(これは、何か起こるのかもしれない)

靴の裏表で天気を予想するくらい信憑性のない事を考えながら、とりあえず頷き返した。

すると、今度は皆守がきょとんとして、直後に呆れ顔で苦笑いを浮かべていた。

「お前な、行き先も聞かずに即答するなよ」

「何だよ、確認取らなきゃならんような所に連れて行くつもりだったのか?」

「いや、そういうわけじゃないが」

何処か困ったような顔で、淡々と言い訳めいた説明を始める。

「あー、まったく―――高三にもなって職員室に呼び出し喰らったなんて、格好悪くて人に言えたもんじゃないからな、今までの教師の時には無視していたんだが」

ボリボリと頭を掻く姿を眺めながら、そんなものなのかなと思う。

別に、幾つになっても、どこに呼びだされても、そんなもん恥ずかしくともなんとも無いじゃないか。

それとも恥ずかしいような理由を自覚しているのか。だったら話は別だが。

「俺は、職員室ってのが、どうも苦手でな」

ぽつりと呟いた一言の孕む響きが、思いのほか気になるようだった。

玖隆をそっけなく顎で促して、皆守は歩き始める。

「お前の気が変わらない内に、行くとするか」

やれやれとぼやいて、すぐに玖隆も苦笑いを浮かべていた。

皆守の背中をポンと一度だけ叩く。

そのまま、億劫げな彼の隣を、同じ様にのんびりと歩いた。

 

「うーん」

職員室まであと僅かの距離で、皆守の足はついに止まってしまう。

だんだん速度が落ちていたから、予感はあったけれど、やっぱりなと胸で呟きながら玖隆も立ち止まった。

「付き合ってもらって悪いが、やっぱり行くのは止めておくかな」

「いいのか?」

「何も今更、律儀に出向く事は無いだろう、お前から雛川に、俺は寮に帰ったと伝えておいてくれよ」

彼がどうしてその気になったのか、ようやく納得がいく。

クスリと笑う様子を、不満げな視線が僅かに睨みつけた。

「何だよ」

「いや、別に」

―――とにかく、伝言を頼む、いいか?」

「ああ、わかった」

「悪いな、ここまで来てもらっておきながら」

雛川には適当に誤魔化しておいてくれればいいからと、そのまま立ち去ろうとして、皆守はふとまた足を止めた。

直後に、背後から威圧的な声が辺りの大気を震わせる。

「何をしている」

ハッと振り返った視線の先、そこに立っていた姿は、阿門帝等。

夕暮れの中、まるで大きな影法師のように、無慈悲な瞳でこちらを見ている。

玖隆は僅かに身構えた。

傍で皆守が「阿門」と呟いていた。

「職員室に用か」

ゆったりと近づいてくる。

強烈に存在感を主張する、この学園の支配者、墓守たちの長。

そして、恐らくは―――天香学園遺跡探索活動において、最後の障害となるだろう人物。

彼は、学園の中でも特に異彩を放つ存在だ。

こんな嬰児達の学び舎でおとなしく暮らしてきた人間は、こんな気配を纏えない。

(まともじゃないな)

直後にそれは俺もかと思い直して、玖隆の口の端がつりあがっていた。

阿門は表情を変えない。

不意に、肩をポンと叩かれて、振り返ると皆守は「あとは頼んだぞ」と短く言い残して行ってしまった。

去り際、一瞬だけ阿門の様子を伺って。

視線の動きをすぐ読み取って、直後に心がさざめき立つ。

「玖隆晃」

玖隆の淡い感傷は、たった一声であっけなく吹き飛ばされていた。

「こうして二人きりで話をするのも久し振りだな」

「かもしれないな」

対峙する玖隆は、学生の仮面を脱ぎ捨てて、ハンターの顔で、笑う。

「逢いたかったと、そう言っておいたほうが、可愛げがあるかな?」

「俺も丁度、お前に逢いたかったところだ」

生徒会長として。

阿門は玖隆から視線を外さない。

「俺の忠告も無駄だったな」

相変わらずの鉄面皮からは、感情というものを殆ど感じさせない。

そこにあるのはただ、強い意思に裏づけされた義務感と使命感だけ。

肌がビリビリ震えるようで、僅かに滾るものを感じながら、玖隆は内心呟く。

(堅物め)

ここに来てこの態度というのは、ある意味自然なのかもしれないけれど、それでもつれないじゃないか。

俺は、お前の事、嫌いじゃない。

(もう少しくらい、仲良くしてくれてもいいと思うんだが)

調子のいい事ばかり考える自身に、玖隆は表に出さずに笑った。

「転校生よ、生徒会に逆らってまで墓に入り込むことに何の意味がある、何が望みだ、無知なる探究心か?愚かなる欲望か?それとも、富と栄光か?」

玖隆は口の端を吊り上げる。

「あえて選ぶとするなら、無知なる探究心、かな?」

―――なるほど、それがお前の望みか」

「半分ほどは、そうだ」

残りの半分は他人などに教えてやるつもりもない。

胸のリングが小さく鳴った。

「人は、無知なるがゆえにこの世界のあらゆる事象に説明を求める」

生徒会長の足元から、暗い影が伸びていた。

冬の陽は沈むのが早い。玖隆の影もまるで生き物のように床の上に伸びていく。

「神の啓示や奇跡にさえ、その理由を求めたがる、だが、奇跡は説明できないからこそ奇跡なのだ、無知だからといって、犯していい罪はない、お前が墓に入り、生徒会に逆らい続ける理由はそうではないはずだ」

すっと、片手を伸ばす。

「わからないのなら、その理由を俺が教えてやろう」

玖隆は反射的に制服の内側に手を差し込んでいた。

こんな場所でやりあうほど、こいつもバカじゃないだろうが、用心せずにいられるほど俺も寝惚けちゃいない。

阿門が一瞬だけ笑ったような気がした。

「全ての生物の行動は、ある物に起因している」

ガラス越しの斜光は燃えるような深紅だというのに、彼のコートの輪郭すら黒い。

いや、暗いと言ったほうが正しいか。

そこにいるだけで、あらゆる光を飲み込んでしまう、漆黒の黒。闇の塊。

「お前は人が何故戦うか考えた事があるか?」

「何?」

「遺伝子だ」

やけに冷たい声が廊下に響く。

「遺伝子に組み込まれた殺戮因子が、人を戦いへと駆り立てているのだ」

指先に銃身の感触を確かめながら、玖隆はへえと軽い調子で切り返した。

「つまり、お前の行動も、遺伝子が引き起こしている結果に過ぎない」

「阿門がDNA至上主義だとは知らなかったぜ」

「日頃の暮らしの中でそう感じる事はないか?まるで、身体を構成する遺伝子が、自分に命令しているように感じる事が」

「生憎だが」

ホルダからするりとハンドガンを引き抜く。

それでもまだ制服の内側で、グリップをしっかりと握り締めた。

「俺は俺の望みのままに生きてるつもりなんでね、それが遺伝子だろうが、何だろうが、知った事じゃないさ」

「自分は自分だというのか?自分の行き先は自分の意思が決めると?」

「そうだ」

「だが、運命が、遺伝子と関係がないと何故言い切れる?」

こうは思わないか?

阿門の気配が急に強くなった。

どこからか砂の動くような音が聞こえてきた。この音には覚えがある。

化人創成の間、執行委員や役員達が倒れた直後、彼らの体から響いてきた―――

常備している端末から、かすかな警告音が漏れ出した。

何故だか体の内側が無性に熱い。

「もし、お前の遺伝子情報に、俺に敗北する未来が書き込まれているとしたら、自分は絶対に俺に勝つ事はできないのではないか、と」

熱い。

確実に体温が上昇している。これは、異常だ。

ハンドガンを抜こうとして、突如襲った不整脈に胸元を押さえると、前のめりになった玖隆の姿を眺めて、阿門は冷酷な笑みを浮かべていた。

「俺の力を見せてやろう―――

(まずいッ)

額に浮かぶ脂汗に、奥歯を噛み締めて彼を睨みつける。

その直後―――

「あの、すいません、待ってくださいッ」

玖隆はハッと顔を向ける。

阿門も、怪訝な様子で振り返っていた。

「響?」

廊下の向こうから近づいてくるのは、響五葉の姿だった。

何処か自信に満ちた足取りで、彼は阿門から少し離れた場所で立ち止まると、その細い肩をわずかに上下して深呼吸をする。

淀んだ瞳の色に、玖隆は怪訝なものを感じ取っていた。

「何だ、お前は」

「あの、生徒会長さんですよね?」

「二年生だな、名は」

「ぼ、僕は、う、生まれ変わったん、です!」

両の拳を握り締めて、それでもなお食い下がろうとするのは何故だろう。

以前とまるで様子が違う。

(何があった?)

響は口元に歪んだ微笑を浮かべていた。

「僕は、もう昨日までの僕じゃない―――あなたを倒して、僕が強い事を証明してやるんだ」

「突然現れて、何を言っているのか意味が分からないが、お前が俺を倒すだと?」

呆れ顔の阿門は相手にすらしようとしない。

「お前如き、俺を倒す事などできない、止めておけ」

突き放すような台詞とともに、視線を再び玖隆に戻す。

玖隆は、阿門と響の様子を伺いながら、果たして今の俺が彼を守る事ができるのだろうかと考えていた。

今、体の内側で、体細胞が必死に何かから抗っている。

それは非常に暴力的かつ強制的な、黒の因子。心臓に牙を立てて、玖隆を別のものへと組み替えようとしている。

息を詰め、意識を強く保とうとして、その結果やはりハンドガンを抜こうと思い至る前に、阿門が興ざめした表情で薄い笑いを浮かべていた。

「玖隆、命拾いしたな」

上げていた腕を下ろす。

同時に全身の熱が引き始めて、ようやくまともに息ができた。

「邪魔が入ってしまった、今回は見逃してやろう」

安堵より悔しさで、玖隆は奥歯を噛み締めていた。

ハンドガンをホルダに戻しつつ、胸中で毒づく。

(くそッ)

―――恐らくは、今、かなり危うい場面だったのだろう。

次回の対応とさらなる警戒をよく自身に認識させなければ。

(仲良くなるもへったくれもないぞ、上がりの手前でやられちゃ、お話にならないぜ)

さすが墓守達の長と、彼の実力を認めざるを得ない。

油断無く睨みつける玖隆に、阿門はくるりと背中を向けていた。

「そこの下級生に感謝するんだな」

「阿門」

「また会おう」

厚みのある靴底が、最初の音を廊下に響かせた。

その直後だった。

「待って!」

―――辺りのガラスがいっせいに砕け散る。

玖隆は咄嗟に両耳を押さえ、阿門がハッと振り返った。

オンオンと余韻を残してまだ響く衝撃波の中で、響は両足を踏み縛るように立っていた。

―――今の事は、お前がやったのか?」

足元に散らばったガラスを靴底が踏んで、軋んだ音を立てる。

「なるほど、俺に挑むだけの力を持っているという訳か、だが、その力、生徒会とも違うな?」

どこで身につけたと問いかける阿門に、響は唇を噛んで彼を睨んでいた。

玖隆は彼らの動向を黙って見守る。

「あ、赤ん坊の頃から、僕が大きな声を出すと、夜泣きのたびガラス戸が震えたり、いじめられて泣いて帰る途中、街灯の蛍光灯が破裂したり」

「赤子の頃からだと?」

「そのせいで近所の人や友達もみんな僕の事を怪物、呪われた子だと」

玖隆の胸中に、いつの間にか苦いものがこみ上げていた。

偏見、差別という感情は、得てして人の恐怖心から生まれる。

我々と違う、未知である、それらは、心の奥底に眠る原始の恐れを呼び起こす。

だが、大概は異端に振り分けられてしまった本人自身が最も自己を忌み、現状に苦しんでいるものだ。

それを一方的に非難する事も、擁護する事も、俺にはできない。

難しい問題だな。

知らず溜息が漏れていた。

響の力は誰が悪いわけでもないだろう。

あえて悪を定めようとするなら、彼にこの異端の能力を授けた『天』が悪い。

「大きくなるにつれて、そういった現象が起こる原因がわかってきたんです」

響は言う。

それは、僕の声が原因なのだと。

「どうしてだかわからないけれど、感情が昂ぶると僕の声は高周波を帯びるんです」

「つまり、今のお前の声が、ガラスを割り、蛍光灯を破裂させていたという事か?」

僅かに俯く仕草が、彼がまだ本当の意味で現状を受け入れていない事実を示唆していた。

玖隆はやはり、身構えていた。

守らなくては。

響の心積もりはわからないが、今の彼はあまりにも不安定すぎる。

「先天的な遺伝子異常か」

阿門は彼の力の何たるかを把握したようだった。

「極稀だが、それにより生まれながらにして力を持つ者がいるというが」

「でも僕は―――もうコソコソと隠れて過ごさなくてもいいんですよ」

不意にだらしなく緩んだ響の口元が、嬉しそうにうふふと笑った。

「この僕の力が、必要だと言ってくれた人がいたから」

ふらりと前に踏み出す、足元でガラスが割れる。

「僕の力で多くの人たちが幸せになれる、その人はそう、僕に教えてくれたんです」

「教えてくれた?」

ぐらぐら揺れる響の姿を、阿門は怪訝に眺めていた。

暮れていく夕映えに照らし出された、玖隆と、阿門と、響のシルエットが、やけに長く黒く伸びている。

―――嫌な雰囲気だ。

「誰がそんな事を」

「この学園の救世主、ファントムさんです」

響の言葉に、玖隆はやはりと顔をしかめる。

夷澤を操っていた幻影は、まだこんな形で余波を残していったのか。

他者をけしかけ、俺の行く道を妨害し、墓地の最下部の玄室の鍵を求めていた、奴の望みは何だったんだ。

それは恐らく、俺と同様に秘宝を求めてというわけではなかったのだろう。

では何だ、ファントムの望みは一体何であったのか。

(奴が望んでいたのは)

―――解放、か?

ゾクリと背筋を悪意の塊が抜けていく。玖隆は、足元から漂う何者かの気配を確かに感じ取っていた。

ファントムは一緒にこの学園を変えようと僕に言ってくれたんだと、響は陶酔した表情で語り続ける。

始めてこの力を嫌悪せず、受け入れてくれたのだと。

彼にとってそれはこの上ない喜びであったに違いない。

まるで何かの寓話のような話だ。

ずっと孤独を友として生きてきた、少年に唯一救いの手を伸ばしてくれた者は、悪魔。

おぼれる者はわらをも掴むという、日本の古いことわざが脳裏をよぎる。

人は、誰しも、自己を肯定してくれる誰かの愛を望まずにいられない。

(それは、俺だって同じだ)

果てないこの旅路は常に一人だと、覚悟もできているけれど、それでも暖かな誰かの手を求めてやまない。

荒れ狂う大海にも似た人生という名の標なき道程を、一人きりで彷徨うだけの力は無いのだ。おそらく、誰も。

生れ落ちた瞬間から、人は愛を求め続ける。

「ファントムさんが言うには、その夢を実現するためには生徒会を倒す必要がある、つまり、生徒会長であるあなたを」

彼はらしくない拳を握り締めている。

「だから僕も、この力を使って戦うことにしたんです、ファントムさんやそこにいる玖隆先輩のように―――そうですよね、玖隆先輩?あなたも僕の力を必要としてくれますよね?」

不意に振り向かれて、玖隆は黙り込むと、ふっと表情を曇らせていた。

「いや」

俺の言葉はきっと響を傷つけてしまうだろう。

けれど。

―――お前の力は、いらないよ」

途端、響はサーッと青ざめていた。

肩が小刻みに震えている。

見るに堪えない様子でも、玖隆はあえて瞳を逸らそうとしない。

ここで逃げては、卑怯者だ。

「僕の言っていることは間違っていますか?僕だって、誰かの役に立つ事ができる―――本気の願いなら叶うはずだって、あなたも言ってくれたじゃないですか」

「響」

「あなたまで、僕を否定するのはやめてくださいッ」

不意に、ずっとただ聞いていた阿門が口を開いていた。

「残念だが」

玖隆と響は視線を向ける。

「ファントムは死んだ、もうこの学園に二度と姿を現すことは無いだろう、お前に手を差し伸べてくれる者も、もういない」

「う」

響はいよいよ恐れをあらわにして、首を振りながら僅かに後退りをした。

「嘘だ!」

天井で蛍光管の一つがパンと破裂する。

「そんな事を言って、僕をまたみんなで苛めるつもりなんだッ」

パン、パンと立て続けに蛍光管が破裂していく。

パラパラと破片が降り注ぎ、玖隆は両腕で頭上を覆う。

阿門は動かない。

彼のコートの両肩にも、白色の破片が幾つも散らばっている。

「イヤだッ、僕は、もうあんな思いをしたくないッ、僕は、僕は―――

ああ、あああと全身を震わせて、戦慄く姿に玖隆は本能的な危険を察知していた。

(くッ、これは!)

大粒の涙をたたえた双眸が、不意に玖隆を振り返る。

真っ直ぐ見詰めるまなざしが、悲しい色を浮かべていた。

その目のふちに大量の涙が浮かび、まるで喘ぐように、苦しみながら玖隆に『助けて』と―――

(響?)

思わず、一瞬、心が揺れた、直後に彼の口から声でない、衝撃波のようなものが発せられていた。

下腹にグッと力を込める。

直撃を予感して、一瞬体が強ばった。

―――だが。

「あッ」

何も訪れないぽっかりと空いた間の後に、小さな呟きを聞いて、顔の前で縦のように揃えていた両腕をそっと開くと、そこに広い背中が立ちはだかっていた。

コートの全身にガラスの破片を浴びて、それでも阿門は動じていない。まるでダメージも受けずにどっしりと構えている。

周囲の光景はすっかり廃墟のように変わってしまった。

電球ごと蛍光灯は全て破壊されて、見える範囲の窓ガラスも全壊している。壁にも僅かにひびが入っているようだ。

職員室から混乱を孕んだざわめきが伝わってきた。

恐らく室内に残っていた教職員達が、突然の出来事に慌てふためいているのだろう。枠だけになった窓辺にまだ人影は無い。

この場に自分達しかいなかったことだけが幸いだ。

響はへなへなと、そのままガラスの上に座り込んでいた。

「どうして、僕と玖隆さんの間に」

「言ったはずだ」

喧騒を割って、殊更重厚な声が寒気と共に廊下に響く。

「お前の力では、俺は倒せないと」

「そんな」

「お前の悲劇は、その力を自分で制御できなかった所にある」

「え?」

「他人が否定しようと、力がお前を裏切らなければ人生は違ったはずだ」

玖隆、と声がして、背中越しの視線がちらとこちらを振り返った。

「お前に見せてやろう、人の運命は、遺伝子に支配されている―――その言葉の意味を」

すっと片手を差し出す。

先ほどと同じ動作だ。

玖隆がハッとした途端、響の足元から大量の黒い砂のような何かが吹き上がっていた。

「う、うわ!何ですか、これ!」

砂の中で響は表情を歪ませながら、もがき苦しんでいるようだった。

「く、黒い砂みたいなものが、体の中に、う、うわあ、助けてェ!」

咄嗟に阿門の腕を掴み、玖隆は怒鳴る。

「阿門、やめろッ」

―――心配するな」

やがて、砂を吸収しきった響はそのままグラリと前のめりになっていた。

倒れかける身体を、素早く駆け寄った阿門が抱きとめる。

背中越しの彼が、彼が気を失った事を告げていた。

「だが、すぐに意識を取り戻すだろう、目が覚めたときには生まれ変わっている、もう力に振り回されることは無い」

「阿門、お前は」

一体何なんだ。

先ほど俺に施そうとしていた、それは、今のモノなのか?

そして今まで見てきた、生徒会の魔人達から吹き上がったあの黒い固まりも、お前が施した何かだったのか。

「お前が、墓守達に鎖をつけたのか?」

阿門は答えず立ち上がる。

「この者は俺が教室にでも運んでおこう、さらばだ」

両腕で響を抱えたまま、黒いコートの裾が翻った。

去っていく姿を、玖隆は複雑な思いで見送っていた。

―――業深い鎖を束ね、墓を守る、あの男の本性は一体どのようなものなのだろう。

恐らくは彼がもっとも遺跡に捕らわれているに違いない。それは、わかる。

けれど、阿門自身は現状をどのように考えているのか。

俺に施そうとした何かと、響にした事は、行為自体は同じでも、その趣旨は全く異なるものだ。

ただ冷酷なだけの男かと思っていた。

けれど、阿門はやはり違う。

以前の皆守にも感じた、妙な親近感が深まりつつある事を、自覚せずにいられない。

「やっぱり、仲良くして欲しいかなあ」

所詮分かり合えない間柄だと突っぱねられてしまうだろう。

俺もそうだろうと思う。

けれど。

「俺は、俺だから」

掌を開いて、少し握ってみた。

職員室から聞こえてくる声が徐々に大きくなりつつあるようだった。

そろそろ誰かが恐々と外の様子を伺うだろう。その時、俺一人だけここに立っていたのでは、何かと都合が悪い。

まだ纏まりきれていない考えを無理やり脇へ除けて、玖隆は踵を返して歩き出した。

角を曲がり、校舎の外に出ると、目を刺す夕陽がまぶしい。

冬の外気は肌を凍てつかせるのに、見えている世界はまるで血潮の海のようで、胸の奥が熱く滾る。

―――先ほどからずっと、妙な予感が胸から消えない。

皆守や、阿門、響の事。

いや、神鳳の騒動からこちら、息をつく暇もないじゃないか。

連日連戦の疲労より、アドレナリンの分泌過多で異常に覚醒し過ぎているようだった。

こんな怪我ごときで泣き言を言ってもいられないぞと、脇腹を軽く叩いた。

直後に向こうからあーちゃんと声が聞こえてくる。

「明日香ちゃん」

顔を上げると可愛らしい彼女の姿がニコニコ笑いながら駆けてくる所だった。

途端高揚していた精神が和らいで、玖隆の口元にも優しい笑みが浮かび上がっていた。

「見つけたー!ねえねえ、テスト前だからさ、部活もないし、一緒に帰ろうよ」

「いいよ、マミーズにでも寄ってくか?」

「うんッ」

ぴょこんと腕に飛びついてくる。

仕草に笑うと、八千穂は急に頬を染めてエヘヘと少しだけ身体を離した。

「―――前も、怒られたんだよね」

「うん?」

「女の子なんだからって」

「ああ」

そんな事もあったかと思い出す。

あの時はすぐ後で皆守に酷い目に合わされたんだ。ほんの数日前の出来事なのに、何故だか遠い昔のことのように感じられる。

「ごめんね、あたし、いつもあーちゃんに迷惑かけてばっかりで」

「そんな事ないさ」

北風が玖隆の黒髪を揺らす。

夕陽に染められて、彼の目は綺麗な赤い色をしていた。

「明日香ちゃんに限って、そんな事ありえないよ、俺は迷惑だなんて思ったことは無いよ」

「ホント?」

「ああ、もちろん」

見上げていた八千穂が急に切ない顔をする。

幼い彼女の、突然の女らしい表情に、胸の奥が僅かにざわついた。

けれど、直後に八千穂は照れ笑いを浮かべて、困ったように眉を寄せる。

「アリガト、あーちゃん」

「え?」

「いつでも優しくって、暖かくって―――あたし、あーちゃんのこと、大好きだよッ」

「うん」

俺も明日香ちゃんが好きだよ。

何気なく頭を撫でると、八千穂は泣き笑いみたいな笑顔で微笑んでいた。

そのまま今度は遠慮なく腕にぎゅっとしがみついてくるので、玖隆はゆっくりと歩き出す。

感傷的なのは、この夕陽のせいだろうか。

何も言わない彼女の、触れている部分だけ、いつものように優しい温もりを伝えてくれる。

「あ」

途中で足元がぴたりと止まった。

「どうしたの?」

何か思い出したように制服のポケットに手を突っ込んで、八千穂はあーっと声を上げる。

「やっちゃった!」

「何が」

「生徒手帳!教室に置いてきちゃった、どうしよう!」

玖隆は苦笑いを浮かべていた。

そそっかしいのは相変わらずか。そこが、八千穂の可愛い所でもあるのだけれど。

「どうしたんだよそんなもの、何か使ってたのか?」

「うーん、ちょっと―――どうしよう、もうすぐチャイム鳴っちゃうし」

言う傍から、下校時間を告げる最終勧告の鐘の音が学園内に鳴り響く。

「あアアッ、下校の鐘が鳴っちゃったよ!早く取りに行かないと入り口閉められちゃう、どーしよッ」

「落ち着いて、明日香ちゃん」

「落ち着いてらんないって!ねえあーちゃん、明日香の一生のお願い、聞いてッ」

何の事だかすぐ察しがついて、それ以上聞くまでもなく玖隆は頷いていた。

「わかった、いいよ」

「あのねッ」

「いいから、早く取りに行こう、怒られちゃう前に、な?」

「あーちゃんッ」

有難うと頬を染めて、八千穂はそのまま昇降口に駆け出していた。

後を追おうとして、不意の呼び声に玖隆は立ち止まる。

「よう」

物陰から見知ったヒゲ面が顔を覗かせていた。

「相変わらず女の子には優しいねえ、それがモテる秘訣かい?」

「鴉室さん」

振り返ると、もう八千穂の姿は見えない。

恐らく先に行ってしまったのだろう、早く行かなくてはと、一礼して駆け出そうとした玖隆の腕を、鴉室が捕まえていた。

「何ですか?」

「そう慌てるなよ少年、今日はとっておきの話をしに来たんだ」

「女子寮の調査だったら、お断りしますが」

「つれないなあ、まだ根に持っていたのか、君」

しつこい男は嫌われるぞと、揶揄する様子に溜息を漏らす。

その言葉をそっくりそのまま鴉室に返してやりたい。

「まあまあ、慌てるな、実は君にお別れを言おうと思ってね」

「お別れ?」

玖隆はようやくちゃんと足を止めた。

振り向く様子を見て取って、腕を離しながら鴉室はニヤリと笑う。

「そうさ、大人の事情で、もうサヨナラなんだ」

「そうですか―――

「何だ、君、別れを惜しんでくれているのか?」

鴉室はこちらの反応を待たず、勝手に目頭を押さえて目の前が曇ってきたぜなどと嘯いている。

相変わらず調子のイイ男だ。

「さらば女子寮、さらばテニスコート、さらば―――女子更衣室、そういや君、覚えているか?俺と初めて出会ったときの事を」

「女子寮の裏でしたね、確か」

呆れ気味答えた玖隆に、彼は嬉しそうにそうだよと笑顔を浮かべて頷いた。

泣いたり笑ったり、本当に忙しない。

もっとも、落ち着いている鴉室の姿を見た事がないけれど。

「その時別れ際に俺がなんて言ったか、君、覚えてるか?」

「またな、ベイビーでしょう」

「おお、またまた正解、それじゃラストクエスチョンだ」

―――いつからクイズ形式になったのだろうか?

「俺の正体は、何でしょう?」

玖隆は溜息を漏らす。

「確か―――宇宙探偵、でしたっけ」

「信じてたのか?俺の話を」

鴉室は笑う。

「まったく、変わった奴だな、君は」

「よくそう言われます」

つられてニコリと笑うと、北風が制服の裾を翻して抜けていった。

肌寒い感触が、急に寂しさを呼び起こす。

「だが、そういう相手を信じる心があったからこそ、ここまで来れたのかもしれないな」

「買いかぶりすぎですよ」

「いやいや、なかなかできん事だよ、特に」

俺みたいな胡散臭い人間を信用するのは。

鴉室の瞳が真面目な色に変わる。

「味方はともかく、敵かもしれない人間すら、偏見を持たずに接する、これはなかなか難しい事だ、誰も傷つきたくなどないからね、用心に越したことは無いが、その度合いが難しい」

「鴉室さん」

「だが、君のそういうところを俺は気にいっているんだ―――よろしい、お兄さんのとっておきの秘密を、教えてあげようか」

瑞麗に話は聞いているんだろうと、そうして自称探偵は自身の正体を語り始めた。

ヴァチカン、魔女の鉄槌という異名を持つ異端審問会。

その正式名称を『M+M機関』

カウンセラーが所属している組織と同名の、人ならざるものの脅威を狩る討魔組織。

つまり、鴉室と瑞麗は同業者というわけだ。

只者では無いと思っていたが、と、玖隆は今回も苦笑を禁じえない。

また、本人の口から知らされてしまった。

同じ事が二度も重なってしまっては、同じ裏家業として情報不足が恥ずかしくすらある。

玖隆の正体は、その目的も含めて彼らにとうの昔にばれていたというのに。

けれど、この失態は全部俺自身が原因だ。

目の前の出来事や、敵ではないだろうと勝手な先入観のせいで彼らの素性の洗い出しを後回しにしていた。

まったく、なんて素人さんだ。

軽く嘆息した玖隆の肩を、察したらしい鴉室が笑いながら軽く数回叩く。

「ま、経験不足だけは補いようがないからな、今後は用心する事だ」

「先輩のお言葉、痛み入りますよ」

「そうそう、格好いいだけじゃなくて、実は優しいお兄さんでもあるのだよ」

微妙な表情で微笑む玖隆を小突いて、鴉室は咳払いで誤魔化すと、ともかく、とそこだけ口調を強くする。

「この学園の地下から検出された妖魔反応の調査はまだ完了していないんだがな、本宅の方から撤収命令が出されちまった、詳しい事はわからないが、ヤバい事が起こりつつあるらしい」

「ヤバい事?」

「ああ」

―――少し前からずっと胸の内に漂っていた妙な感覚が、警鐘に変わる。

「俺は、君も早く学園から逃げる事をお勧めするね」

咄嗟に玖隆は校舎を振り返っていた。

それから、寮の方角を眺める。

茜色の景色はまるで原初の海だ。生まれいずる何かの予感に似た、妙に息苦しい、それでいて触れたらはじけてしまいそうな緊張が寒風に混じって頬を撫でる。

鴉室はかすかに笑ったようだった。

「それじゃ、そろそろ俺は行くぜ、あんまり長居するとヤバそうなんでな」

振り返った玖隆の肩を、鴉室はもう一度だけポンと叩いた。

「じゃあな、少年、達者でな」

バーイと上げかけた手を、不意にポケットに突っ込んで、鴉室は最後に二つほど鍵を手渡して、今度こそ背中を向けて駆けて行ってしまう。

手渡された鍵は機関室と警備員室のものだった。

自分にはもう必要ないからと話していた、それらを内ポケットに放り込んで、玖隆は校舎を見上げる。

空は、たなびく雲すら鮮やかだ。もうすぐそこに夜の闇が迫っているのだろう。

彼方に気の早い月と、金星が見える。

M+Mの本宅―――ヴァチカンが動いたという事は、相当重大な何かがこの学園に迫っているに違いない。

ロゼッタからの連絡はまだ何もない。

諜報部は情報を入手し損ねているのか、事実確認に手間取っているのか。

「相変わらず暢気なもんだぜ、ハンターのピンチだってのに」

ちり、と胸元でリングがこすれて、握り締めながら玖隆は苦笑を浮かべていた。

今更、怨み言なんて、栓のない事だろう。

制服の内側に手を突っ込んで、ハンドガンの感触を確認する。

できれば校内でこんなもの抜きたくもないが。

(最終手段だな)

校舎に戻った八千穂がますます気がかりだった。

阿門はもう響を教室に運んでしまった後だろうか、皆守はちゃんと寮に帰ったのか?

Die Vorsehung des Gottes

呟いて、駆け出す。

玖隆の姿はそのまま昇降口の奥へ見えなくなった。

 

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