ガチャリとノブの回る音に、八千穂は全神経を戦慄かせていた。
今日は部活が無かったから、ラケットを持ってきていない。
給水等の影に隠れて両手を胸の前で組み合わせると、近づいてくる足音に瞳を閉じて祈る。
どうか、こないで―――
「―――明日香ちゃん、無事か?」
聞きなれた声と、気配。
パッと目を開いて、直後に八千穂はなりふり構わず物陰から覗いた玖隆に抱きついていた。
「あーちゃん!」
おっとと軽い声とともに確かな感触が受け止めてくれた。
それだけで安堵して、ぎゅっと抱きつくと、大きな優しい掌がポンポンと背中を優しく叩いてくれる。
「怖かったな、よく我慢したな、明日香ちゃん」
「あ、あーちゃん、あたし、あたしッ」
緊張が解けた途端、反動で涙腺が緩んでしまった。
涙ぐむ八千穂の気の済むまでそうして、頃合を見計らって覗き込んだ玖隆がニッコリと微笑みかけてきた。
「ここにいたのか、生徒手帳は?」
「あ、う、うん、大丈夫、ちゃんと見つけられたよ」
「そうか、なら良かった」
頭を撫でて、それから首をめぐらせる。
暗闇の中で、今の玖隆の瞳はダークグリーンだ。
八千穂は不安な想いのまま、彼のコートの縁をぎゅっと握り締めていた。
振り返った彼の掌が頭を優しく撫でた。
「ねえ、一体どうなっちゃったの?あの人達は何者なの?」
「あれは、多分俺の同業者」
宝捜し屋なの?
八千穂の言葉に玖隆は苦笑いを浮かべる。
「そうだけど、違う、ライバルみたいなものかなあ、まあ色々あるんだよ」
「そっか」
「ここには明日香ちゃんだけか?」
「うん、そう」
答えて、ようやく他の皆の状況に気が回るようだった。
白岐や七瀬、それに皆守などは今頃どうしているのだろうか。
「皆、大丈夫かなあ」
「生徒会の奴等は阿門以外の安否確認は出来たよ、取手や、七瀬も無事だ」
「白岐サンは?」
「大丈夫、寮にいた」
そっかと呟いて、八千穂はふと気になって玖隆を見上げる。
「あーちゃん」
「何?」
「女子寮に入ったの?」
「うッ」
あは、アハハハハー
白々しい笑いに、いつの間にか恐怖心は薄れて、代わりに溜息が漏れていた。
玖隆だけ、いつもと何も変わらない。
こんなとんでもない状況なのに、普段どおり優しくて、頼もしい。
それが八千穂に日常を思い出させてくれる。
「もう」
膨れるとゴメン、ゴメンと顔の前で拝んでみせた。
「明日香ちゃんの部屋には入ってないから」
「あたしの部屋がどこだか、あーちゃん知らないでしょッ」
「ううん、多分大丈夫だと思うよ、そんなにあちこち見てまわったわけじゃないし、ラケットのある部屋はなかったから」
「ラケットいつもしまってあるもん」
「だッ、大丈夫、だと、思います、ゴメンなさい」
しょうがないなあと脇に手をあてて、八千穂はちょっとだけ笑っていた。
途端、玖隆もニッコリと微笑を浮かべていた。
「明日香ちゃん―――じゃあ俺、そろそろ次の場所に行くよ」
「えッ」
「まだ黒塚と舞草さん、それと、夕薙の姿を見ていないんだ」
八千穂はまた玖隆のコートの縁を捕まえた。
「ま、待ってあーちゃん、あたしも」
「悪いけど、それはちょっと無理だ」
「何でッ」
困り顔の彼にすがりつく。
空には星が出ているけれど、屋上は真っ暗で、北風ばかりがゴウゴウと吹き荒れている。
「ここは見たところあいつらもいないし、多分安全だと思う、校舎の中や外は奴らがわんさか歩き回っているから、だから」
「でもッ」
「ゴメン、明日香ちゃん、不安だろうと思うけど」
玖隆は八千穂の両肩を掌で包むように握り締め、同じ目線まで腰を折ると真っ直ぐに瞳の奥を覗き込んだ。
「俺はずっとここにいる事ができない、それと、君を守って行動できる自信がない」
「―――あたしのこと、信用してくれていないの?」
「違うよ、そうじゃない」
「だったらどうして」
玖隆は困ったまま微笑を浮かべていた。
「明日香ちゃん、明日香ちゃんが遺跡の探索に付き合ってくれたりするのは、本当に助かっているし、心強くも思っている、だけどね―――今は、ちょっとだけ状況が違うんだ」
「どういう、意味?」
ずっと優しげだったダークグリーンの瞳に、俄かに暗い影がよぎる。
不意に口を結んで、玖隆はじっと八千穂を見詰めた。
「あのね」
八千穂は―――何となく聞いてはいけない事を訊いてしまったような気がしていた。
けれど、もう取り消せない。
言いづらそうな口元が、途切れ途切れに言葉をつないでいく。
「あいつらは、人殺しの訓練を受けた特殊部隊なんだ」
途端、純粋な彼女の瞳が大きく見開かれる。
「そして、俺も」
そこに映る自分の姿を確認するようにして、苦い顔のハンターは所在なさげに微笑みを浮かべた。
「―――人殺しの訓練を受けているんだよ」
ハッと口元を押さえる、その仕草に、胸の奥がズキリと痛んでいた。
わかっていた事だけれど、それでもキツイ。
改めて、自分は異分子なのだと自覚させられる。
けれどそれすら甘いのだろうと、玖隆は渇を入れなおしていた。
夢のようなひと時だった。終わりが訪れても、寂しいだけで、悲しくなどない。
コートから離れていく手を見送って、玖隆も八千穂から距離を取った。
そのまま二三歩、後ろへ下がる。
「明日香ちゃんに助けて欲しくなったら、ちゃんと連絡するから」
八千穂は動かない。
動けない、と表現したほうが正確だろう。
綺麗な瞳に雫が浮かんでいるようで、心底申し訳なかった。
こんな顔をさせたくて、突き放したわけではなかったのだけれど。
(ごめんな、明日香ちゃん)
「何かあったら、すぐ連絡してくれ、飛んでくるよ」
「あー、ちゃん」
「ここは寒いだろ、これを使って」
ポンと投げられて、受け取ると、それはカイロだった。
八千穂がハッと顔を上げたときには、すでに玖隆の姿は扉の向こうに消える所だった。
蝶番の軋む音に、慌てて声を上げる。
「あーちゃん!」
隙間が閉まる瞬間、振り返った玖隆は口元に人差し指を当てて、静かに、のジェスチャーをしたまま見えなくなった。
呆然と立ち尽くしていた足元を、木枯らしが攫っていく。
へなへなと座り込んだ途端、八千穂の頬にぬるい感触が伝わり落ちていった。
「あーちゃん」
両手で顔を覆う。
何故だか―――何故だか、悲しくて、涙があふれて止まらない。
「あーちゃんッ」
遠くで発砲音が聞こえた。
ひときわ強い風が髪を揺らして、八千穂は嗚咽を押し殺して泣き続けた。
夜霧の中、浮かび上がるシルエットがある。
相変わらずぬかるんだ土を踏んで、それでも足音は最小限しか聞こえない。
まるで狩をするときの獣のように身を潜めて、気配を殺し、そっと現れた―――玖隆は、暗視ゴーグルに映し出される風景を、慎重に窺う。
高性能のマイクがかすかな音を捉えて、姿は再び闇に溶けた。
そして現れた瞬間―――
「っつ!」
片手で肩を押さえて、もう片方の手に握ったナイフを喉元に押し当てて、身じろぎした姿に、玖隆ははたと動作を止める。
「甲太郎?」
すぐさま拘束を解くと、緊張していた背中が、は、と息を吐き出しながら、恨みがましく振り返っていた。
「晃、お前、確認くらいしろッ」
「悪い悪い、俺もドキドキしてたもんで」
「ハッ、調子のいい事言いやがって、そんなタマかよ」
ホルダにストンとナイフを突っ込みながら、玖隆はすねるなよと苦笑いを浮かべた。
その仕草や表情をじっと窺って、皆守はようやくやれやれと平素の表情を見せていた。
「ようやく来やがったな、何時間待たせるつもりだったんだ」
「なんだ、お前だけ姿が見つからないと思ったら、こんなしけた場所で逢引する魂胆だったのか」
甲太郎のスケベ、と言って笑う玖隆を、僅かに睨みつけて皆守はフンと鼻を鳴らす。
「風邪でもひいたら、お前のせいだぞ、たっぷり看病してもらうからな」
「膝枕で?」
「病人食も付けろ、カレーがいい」
「それは病人食じゃありませんよ、皆守クン」
フフ、と笑い合って、暗闇の中に浮かび上がる互いの瞳をじっと窺う。
皆守の目の奥で、様々な感情がぐるぐると渦を巻いているのがわかる。
残す扉は、あと2枚。
そのうち1枚はすでに開かれているはずだ。
昨夜夷澤の呪縛を打ち砕いた直後から、ずっと。
残る生徒会役員も、あと、二人。
「晃」
吹いてきた風に前髪を揺らされて、隠れた視線を骨張った指先が億劫気に開かせる。
再び目が会うと、玖隆は口の端を吊り上げて―――笑っていた。
「さて、行こうぜ」
ダンスの時間だ。
この派手な舞台にお似合いの、とびきり情熱的で過激なダンスをお披露目してやろう。
皆守の口元にアロマパイプがないので、玖隆は僅かに視線を留める。
気づいた皆守が苦笑いを浮かべて、内ポケットから取り出したそれをおもむろに咥えていた。
代えの紙巻を差し込んで、先端を突き出す。
「火」
「俺がいつでもライターを持っていると思うなよ?」
「無いのか?」
「バカ、あるに決まってる」
取り出したライターで火をつけて、立ち上るラベンダーの香りを、皆守は吸い込んだ。
そしてパイプを手に取り、差し出してくる。
「ホラ」
「何だ?」
「―――お前も吸えよ、宝捜し屋」
「俺にトランキライザーなんて必要ないぜ」
「違う、そうじゃない」
玖隆は苦笑しながらおとなしくパイプを受け取った。
咥えて、先端から立ち上るアロマで肺を満たしていく。
様子をじっと皆守が見ていた。
「サンキュ」
パイプを返して、笑う。
「やっぱりラベンダーは偉大だな、少し気が休まったよ」
「だろう?」
―――全身で沸騰している血潮は、いまだ冷めやらない。
それでも精神はひどく落ち着いていて、やはり覚醒しすぎているようだった。
夜目でも恐ろしくよく見える瞳が、スコープ越しの景色を殊更はっきりと捉える。
いつもの場所はすでに開かれていて、墓石の傍に二人ほど、見張りの兵士が倒れていた。
「あれ?」
近づいて、怪訝に覗き込んだ玖隆の背後で、ザザッと電波の受信音のようなものが聞こえた。
振り返るとどこから取り出したのか、皆守はトランシーバーを耳元に当てている。
「こちらアルファ、ハンターはまだ到達しておりません、オーヴァー」
慣れた調子で淡々と話す。
カチ、と通信を切って、それを地面に放り投げながら、こちらを振り返って笑った。
「お前待ってる間、ヒマつぶしにちょっと、な」
「甲太郎」
玖隆は事情を理解して苦笑いを浮かべる。
「仕方のない奴だ、身分詐称は日本では軽犯罪法で裁かれるんだぞ」
「知るか、お前は公僕でも何でもないだろうが」
「まあ、確かに」
「お前のやってることのほうがよっぽど問題だぜ、銃刀法違反、火薬の大量所有、不法侵入、身分詐称、おまけに」
「ああ、もういいもういい、どうせ俺は犯罪者ですよ」
穴の縁に下げられた金具の強度を確かめて、これで降りちゃおうと、玖隆はロープを引き上げる。
「なあ」
「うん?」
腰のバックルに端を通す姿を眺めて、皆守が僅かに眉を寄せていた。
「―――怪我は、もういいのか?」
「ああ、まあね、ボンドでくっつけておいたから」
「はあ?何だそりゃ、本気でやったのか?」
振り返ったハンターは、ロープの端を再び穴の中に放り込みながら、笑う。
「さすがにそこまで無茶じゃねえよ、大丈夫、気にするな」
「晃」
「さて、と、よい子たちが目を覚ます前に、サンタさんは早々に煙突に入るとしますか」
言われて、はたと気が付いた。
今日は12月23日。
クリスマスイブの前日だ。
穴の中に消えていく玖隆の姿を見送って、皆守は苦笑を洩らす。
「とんでもないサンタだぜ、鉛玉のプレゼントなんて、喜ばれねえぞ」
「甲太郎にはキスをプレゼントしてやるよ」
スルスル降りていく。
最後の一言に、口元が違う種類の笑みを浮かべていた。
「―――ありがとよ、晃」
彼のシルエットが完全に闇の底へ消えるまで待って、その表情が痛ましく歪むのを、冷たい星の輝きだけが見下ろしていた。
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