件の一件はあっという間に学内に広がり、玖隆はなんだか落ち着かない午後を過ごすことになった。
放課後、尋ねてきてくれた七瀬と暫し話し込み、貴重な情報を入手する。
この歳でこれだけの知識を持っている、彼女の勤勉さは賞賛に値すると思う。
聞いた内容を手短にまとめて端末に入力し終えた頃、皆守が現れて、誘われて彼と帰路を共にしていた。
通りがかったグラウンドの手前で、練習に励む運動部員をつまらなそうに判じる皆守に苦笑いを洩らしていると、突然か細い男子学生の悲鳴が聞こえてきたのだった。
昼のこともあり、二人は慌てて振り返った。
声の主は、取手鎌治だった。
「や、やめろっ、僕に近寄るな、あっちに行けッ」
必死に何かを振り払うような動作をしながら駆けてくる。
呆気に取られて様子を見ていると、取手はこちらに気付いた途端、保健室で会った時のような暗い表情を浮かべて、長い両手をだらりと所在無げに下ろしたのだった。
「こんにちは」
その眼差しの淀みに、玖隆の中の何かが再び警報を鳴らす。
「どうしたんだ、取手?何かあったのか?」
皆守の問いかけに、取手は何でもないと答えている。
そんなはずはない。先の異様な光景といい、彼が何かをごまかそうとしている事は明白だ。
それでも、ありがとうと押し切って立ち去ろうとする向こうから、今度は劉と八千穂が現れていた。
「こんなところに集まって、何をしているんだ?」
「カウンセラー、何でお前らが一緒に?」
逆に聞き返す皆守に、八千穂が玄関で出会った旨を告げる。
ついで墓地のことなどまた大声で話すものだから、玖隆は再び困り顔で彼女を見詰めていた。
まったく、本当に、昼間皆守が言った言葉は事実かもしれない。
嘆息紛れに諦めていると、急に取手が頭痛を訴えてきた。
「あ、頭が、痛い」
「どうしたの、取手クンッ」
「保健室へ行くか?私の肩に手を」
「―――いえ、大丈夫です」
そうは言っているけれど、全然そのように見えない。
「取手クン―――どこか具合が悪いの?」
八千穂が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「具合が悪くなったら、いつでも遠慮なくあたし達に言ってよ」
その一言に、取手がどこか醒めた眼差しを向けた。
「君達では、僕を救うことはできないよ」
「え―――?」
「ルイ先生でさえ僕を救えないんだ、君達が、救えるわけがない」
どういう意味なのだろう。
唖然とする玖隆達に、取手は、詳しい事は劉に聞けばいいとだけ残して去っていってしまった。
所在無げな背中がまるで蜃気楼のようで、不安に見送る玖隆の隣で八千穂が溜息を漏らしている。
あんなに苦しそうだったのに、差し出された手を拒む理由はなんなのだろう。
一体どうしてそんなに頑なでいる?
救えないとは、一体、どういう意味なんだ―――
「取手の心の闇の大半は、あの墓地に由来している事が分かっている」
気まずい雰囲気の中、劉は、本人の了解も得たことだしと前置きしてから説明してくれた。
取手鎌治の、暗い過去を。
「あの子は姉を亡くしているんだ」
淡々と語られる、重く辛い記憶の欠片。
思い出を侵すほどの深いトラウマ。
愛する姉を失い、存在していた事実すら奪った心の闇。
覚えのある感触に、遠い記憶がずきりと痛む。
玖隆は、自分でも気づかないうちに胸の辺りに触れていた。
どれだけ嘆こうと過去は戻ってはこない。
ましてや傷口など人それぞれに違うものなのだから、今ここで軽々しく比較するわけには行かないだろう。
(それでも)
玖隆は思う。
自分は、多分少しだけ―――取手の気持ちが、わかる。
隣で八千穂が悲しそうな顔をしていた。いい子だ。
「でも、墓地に関する何かが取手君の心の傷になっているなら、それを解く鍵は墓地にあるのかも」
「墓地?そういやさっきもそんなような事を言っていたな?」
「昨日の夜、墓地の墓石の下に人が通れそうな穴を見つけたんです」
「ほう」
その先に、取手の心を侵す何かが潜んでいるんじゃないのか。
振り返って同意を求められて、玖隆も頷き返していた。
先の様子は尋常でない。
昼の怪異といい、多分、何らかの繋がりがあるのだろう。
その先に同じく遺跡という符号が現れているのだとすれば、向かう価値はあると、半ば確信めいた思いが浮かんでいた。
どの道行く先であるのだし、探索中に彼の思い出に繋がる何かを見つけ出せるかもしれない。
干からびた手の少女と、取手鎌治の心の傷。
まるで気味の悪い符号のようで、悪寒がぞわぞわと背筋を這い登ってくるようだった。
「―――俺は、お前の勘だけで振り回されるなんてゴメンだからな」
黙って話を聞いていた皆守が、急にそっぽを向いて煙を吐き出す。
「皆守クン」
「あいつの問題は俺達がどうしようと、あいつ自身でしか解決できないさ、取手の過去に何があろうと、どんな傷を抱えていようと、他人には所詮関係ない話だ」
心の傷なんてものは、誰にだってある。
皆守は言う。
「別に奴だけが特別ってわけじゃない、そんなもの、誰の力も借りずに自分自身で乗り越えていくべきことだろう?」
どこか嫌悪すら漂わせて、何故そんな事を急に言い出すのだろう。
何か言いかける八千穂より先に、玖隆は言葉を発していた。
「それは、分かるけれど」
皆守が振り返る。
「でも、自分ひとりの力で乗り越えられない傷だって、あるじゃないか」
「玖隆クン」
八千穂が驚いたように見詰めている。劉も、こちらを見ている。
言うつもりもなかったような事が、勝手に口をついて飛び出してくる。
それはまるで、あの頃の―――
ラベンダーがほのかに香った。
まるであざ笑うかのように、皆守はフンと鼻を鳴らしていた。
「それじゃ、聞くがな、お前は取手みたいな人間をこの先もいちいち助けていくつもりかよ、そんな事は出来ないだろ?だったら、余計な首を突っ込まないことだ」
一気にまくし立てられて、それでも玖隆は皆守から目を背けようとはしない。
確かに、人は、完全に他人を理解することなんて出来ないだろう。
でも、傷を、痛みを分かち合うことくらいなら出来る。
一人で背負いきれない重みで押しつぶされそうな誰かに、肩を貸す事は決して偽善なんかじゃない。
その時感じる喜びや、感謝は、紛れもない真実のはずだ。
「なんで―――」
「何だ」
「なんで、お前はそんな事を言うんだ」
「俺は現実の話をしている、理想や、感情で、何か救えるなら、取手みたいな奴はとっくにいなくなっているはずだ」
「手を伸ばせないほどの重傷だってあるじゃないか、そんな時、傷を見つけ出すのは思いやる感情だ、理想とか、そういう話じゃないだろう?他人に指し伸ばす手に、何の理由が必要なんだ」
「気休めに傷口を舐めてやった所でその後どうする?心の傷は体のものとは違う、他人には治せないんだ、お前がどれほどの手を尽くした所で、何が変えられる」
「そんな事俺は考えていない、ただ、俺は―――」
こんな感情は、もしかしたら欺瞞であるのかもしれない。
うぬぼれ、驕り高ぶっているだけなのかもしれない。
それでも、俺は。
「―――放っておけないんだよ」
聞こえないほどの声に、皆守の舌打ちが続く。
「これだけ言っても分からないとはな」
直後に背中を向けられた。
「取手の事は、放っておけ」
「なんでそんな薄情なこと言うのッ」
語気を荒くした八千穂が聞くに堪えないといった様子で割り込んできた。
「クラスは違うけど、取手クンは同じ学校に通う、同じ学年の友達じゃない!」
「俺は嫌いなんだよ―――悲劇の主人公ぶる奴も、偽善者ぶってる奴もな」
「皆守クンが行かなくても、私達は行くよッ」
指先が玖隆の制服の裾をきゅっと握り締める。
「私も玖隆クンと同じ、放っておけないもん!」
皆守は何も言わない。
ただ、アロマの香りだけが風に乗って届く。
「―――私は、全能でもないし、神の癒しの御手を持っているわけじゃない」
黙っていた劉が不意に口を開いた。
玖隆と八千穂だけ、彼女を振り返る。
「けれど、だから思うのさ、同じ位置にいる君達ならば、あの子も私に話してくれないことを話せるかもしれない、閉ざされた扉を開く鍵は案外―――近くに転がっているのかもしれない」
「そう思うのなら、勝手にやれ、ただし、俺を巻き込むな」
言い捨てるようにそれだけ残して、皆守は去っていく。
「皆守クンッ」
「じゃあな」
いまや全ての言葉を拒絶して、西日に照らされた姿がどんどん遠ざかっていった。
玖隆は、背中を目で追いながら、なんともいえない心境で立ち尽くしていた。
長く伸びていく影がどこか寂しげに見えたせいかもしれない。
皆守こそ、どうしてあれほど頑なに否定するのだろうと、さっきからそればかり気にかかっている。
(お前こそ、俺の事なんて放っておけばいいじゃないか、皆守―――)
八千穂と話し込んでいる劉の、会話は殆ど聞き取れなかったが、彼女もどうやら調査に協力してくれるつもりのようだった。
「気をつけて行くんだ、くれぐれも、無理だけはするんじゃない」
最後に念を押されて、玖隆は八千穂と一緒に頷き返していた。
夜が深けたら、すぐに調査を開始しよう。
世界を茜色に染め上げる陽光の燃えさしが、そろそろ西の果てに差し掛かろうとしていた。
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