授業終了と同時に雛川教諭に話しかけられて、暫らく彼女と色々話し込んだ。
彼女は熱心な教育者で、おまけに理性的で母性愛に溢れる女性だから、こうして触れ合っていると少しだけ罪悪感のようなものを覚えてしまう。
自分は勉学のためにここにいるわけでは無いから、事情を知ったらきっと失望されてしまうだろう。
見限られるかもしれないことに関してはどうとも思っていなかったけれど、この熱意に溢れた女性に、悲しい顔などさせたくはなかった。
玖隆ははぐらかすつもりで彼女に当たり障りのないことや、随分きわどい質問までしてみたのだけれど、その一つ一つに真摯に答えられて、正直こちらが参ってしまった。
スリーサイズなんて、聞くつもりなど無かったのに。
(でも雛川さんは随分スタイルがいいんだなぁ)
下半身が大きいのは、結構好みだ。
どうでもいい事を考えていると、今度はもっと勉強や学園の事を質問してねと釘を指されてしまった。
お茶を濁そうとしていたのがばれていたらしい。
苦笑しながら頷いていると、教室に夕薙が入ってきた。
「先生、こいつは忠告に素直に従うようなタマじゃないですよ」
「夕薙君、身体の具合はいいの?」
「ええまあ、なんとか、先生の授業を受けたくてね」
「まあ」
「だが、少し遅かったらしい、すいません間に合わなくて」
「あまり無理しないでね」
玖隆は二人の会話を聞いている。
すまなそうにしている夕薙に、雛川は何かと勇気付けるような事を言って励ましていた。
生徒想いの、本当にいい教員だ。
誰彼構わずこうして接することができるのは、彼女の大きな美点だろう。
人というのはどうしても見返りを求めてしまうものだ。
それは、教育者でも変わらない。
自分が教えた分と同等か、それ以上の見返りを教える者達に期待してしまう。
そして、望んでいた見返りが得られない時、大半の人間は対象に関して興味を失う。
玖隆の知っている世界で、彼女のような存在はごく僅かだ。
自分のようなものに対しても、他の生徒に対しても、分け隔てなく平等に振舞ってくれる存在。
それがどれだけ周囲に安心を与えるか、雛川はきっとそんな事をいちいち考えてなどいないだろう。
普遍的であるからこそ、尊い精神だ。
雛川教諭は玖隆と夕薙に、最近噂になっている不審者を見つけたら気をつけるようにと注意だけ残して去っていってしまった。
こんな大男二人捕まえて、それは彼女の方だろうにと、「先生」の後姿に思わず微笑む。
「正に、呪われた学園に咲いた一輪の花だな」
見送る夕薙も同じような心境でいるようだった。
「―――だが」
声が急に強ばったので、玖隆は不意に夕薙を見上げた。
「世の中にはああいう花を手折ろうとする愚かな連中もいる、ただ己の保身と私欲のためだけに、そんな奴らはこの世から根絶やしにされるべき存在だ」
そうは思わないか?
振り返った夕薙の暗い眼差しに、思わず言葉が見つけられない。
「それは、そうかもしれないけれど」
確かに、意見には賛成だ。
けれど。
「そこまで強制的なのは、俺は好きじゃないよ」
夕薙は苦笑していた。
「君もいつか分かるさ、世の中には秩序も道徳も通じない領域があるって事が」
どう返して次の話題を持ち出したものか、反応に困っていると、変な事を聞いてすまないと誤られた。
本当はもっと別の話をするためにここに来たようだ。
もしかすると雛川の授業を受けに来たというのも口実かもしれないと思ったが、その辺りはあえて聞かずにおいた。
「この学園に伝わる怪談で、二番目の光る目という話を聞いた事があるか?」
「いや」
簡単に説明してくれた内容によると、どうやら突如出現した光る目が人を焼き尽くし、実際行方不明者が出ているといった噂がまことしやかに囁かれているらしい。
以前聞いたことのある一つ目の怪談は、一番目のピアノという怪異だった。
八千穂が話してくれたことがあるが、天香学園には九つもの怪談がある。
通常日本の学校の怪談といえば七つが相場らしいから、これは多いほうなのだろう。
あいにくそちら方面の文化にはあまり詳しくないので、実際の所はよく分かっていないのだけれど。
夕薙は怪異自体というより、それを噂する生徒達の反応の方にむしろ興味があるようだった。
「この世に、人を焼き殺す目など存在する訳ないと思わないか?」
「そうだな」
今度は素直に賛同できた。
玖隆自身、この世に「ある」もので説明のつかないものは無いと思っている。
夕薙はその答えに随分満足した様子で、俺達は似ているなと表情が少しだけ和んでいた。
「出来すぎた話だ、一年前、この学園に俺が転校してきてから、今日までに聞いただけでもそういった類の話はかなりある」
「そうなのか」
「ああ、特に、寮の裏手にある墓地に関する話や、学園の歴史に関する話が多い―――君は、もう墓地には行ってみたか?」
玖隆は内心ビクリと身構えて、慎重に夕薙の様子を伺った。
「ああ」
「そうか、何か怪しい物を見つけたか?」
「―――ああ」
こいつはどうしてそんな事を俺に聞くのだろう。
確かに、遺跡に潜ったり、人に言えない様なことなどたくさんあるけれど、日中の学園生活でその片鱗を見せたことなど無い。
それとも気付いていないだけで、どこかでボロを出してしまっているのだろうか。
これが一般の生徒ならば、生徒会を恐れて彼の言葉に耳も貸さないだろう。
改めて、油断ならない男だと思った。
夕薙大和は―――それでも、現地点においては、少なくとも敵では無いと思う。
玖隆の硬い表情に気付いたのか、夕薙も手持ちの情報をいくつか明かしてくれた。
真夜中の墓地で、生徒会の人間が会合を開いていたらしい。
「何故《生徒会》が真夜中の墓地にいるのか」
それは、確かに気になるところだ。
あの遺跡と彼らとは、一体どういう関係があるのだろう。
執行委員は、墓を侵すものを処分するといっていた。
ならばその総括である生徒会も墓守であるということになる。
墓守ならば件の地に眠る何かを守っているに違いない。
けれど、一体何を?
人に危害を加えてまで、これほどまでに大規模な閉鎖空間を構成してまで、隠蔽しなくてはならないものは一体なんだ。
どれ程の秘密が、この足の下に埋まっているというのだろう。
相変わらず分からないことだらけで、苛つく反面、楽しくて仕方が無い。
玖隆は自身の性分に、判らないほど小さく苦笑を洩らしていた。
「下校の鐘の音か」
夕暮れに染まりかけた校内に、チャイムの音が鳴り響いている。
「今日も日が暮れる―――」
窓の方を伺った夕薙は感慨深げだった。
その横顔から、やはり本心を窺い知る事はできない。
「玖隆」
振り返った眼差しが真摯に玖隆を見詰めてくる。
「生きてこの学園を出たければ、誰も信じるな」
僅かに驚いて瞳を見開いた玖隆に、夕薙はそれじゃ、と残して去っていった。
彼は何を知っているというんだ。
今の忠告の意味は、一体どういう事なのだろう。
(今、考えた所で、やっぱり仕方ないのか)
玖隆は首を振って帰り仕度を始めた。
昼休み前に、八千穂に頼まれごとをしていたのだった。
それに、あまり長く校舎にとどまって、生徒会の人間と一戦交えることになっても厄介だ。
「考えたって仕方ない事は、考えない」
まるで言い聞かせるように呟いて、鞄と端末を掴んで教室を後にした。
言いようの無い感情が、胸の奥でわだかまるようだった。
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