廊下の最果て、たどり着いた先は、倉庫の前だった。

鴉室がどこへ行ったものかと、きょろきょろと周囲を見回していると、不意に背後に気配が生まれた。

直後に視界が何かで覆われる。

「だーれだッ、なんつってな」

耳元で聞き覚えのある声が囁いた。鴉室だ。玖隆は両目を布のようなもので覆われていた。

「おっと、動くなよ?顔を見られると面倒なんでね、目隠しさせてもらうぜ、どうやら追ってきたのは君一人か、中々いい勘をしているじゃないか」

ここを抜け出すまで、ちょっとだけ付き合ってもらうだのふざけた事を言っているので、気を抜いた隙に思い切り足を蹴り上げる。

確かな感触と、鈍い呻き声の後で、視界がフッと晴れた。

「み、鳩尾に」

振り返りながら飛びのくと、鴉室は腹を抱えてうずくまっていた。

顔をしかめて、ひどく辛そうに起き上がってくる。

「くォらァ何すんじゃい!ったく、イテテ、なんつう馬鹿力だ」

玖隆は油断なく鴉室を睨みつけながら、手足に意識を漲らせた。

「あんたこそ、一体どういうつもりだ」

「何?」

「こんな昼日中に校舎内に現れやがって、一体何を考えて」

「そいつが、校内で目撃されたって言う不審者か」

唐突に響いた声に、鴉室と一緒に振り返る。

廊下を、いつのまにかすぐ傍まで皆守が歩いてきていた。

玖隆を一瞥して離れていろと顎をしゃくる。

「後は、俺が引き受ける」

「おー、君はあの時の無気力高校生君」

「ん?何だ、あの時のオッサンじゃねえか」

鴉室がムッと顔をしかめた。

―――なんだか、妙だ。

「何してんだよ、こんな日中の校内で、人目に付かないようにどっかに潜んで調査するだの何だの言ってなかったか?」

「いや、そうなんだが」

調べたい場所があったから、生徒が別のことに気を取られている間に潜入操作していたのだと、自称探偵はやけに素直に目的を明かした。ついでにツチノコ騒動の発端も彼であるらしい。

よりによって何故その噂なのかと、玖隆は呆れてしまう。皆守も同意見のようだった。

もっとも、鴉室自身もこれほどの大騒動に発展するとは思っていなかったらしい。

皆守は面倒臭そうに顔をしかめて、パイプの先を揺らしながら早く逃げろと鴉室に言った。

「見逃してくれんのか?」

「別に、オッサンが捕まろうが捕まるまいが、俺には関係のない話だ、それに生徒会や教師連中に事情聴取されるのもかったるい事この上ないしな」

お前もそれで構わないだろうと、玖隆を振り返る。

今回ばかりはいたしかたないだろう。

聞きたい事は山積みだけれど、目的がはっきりしない以上、彼がこちらの問いかけに素直に応じるとは思えない。

それに、もし本当に失踪事件を追っているのだとしたら、生徒会や教員の前に突き出せば彼の仕事を妨害することにもなりかねない。その結果、こちらに余波が及んでは、本末転倒というものだ。

自分が一番に考えるべき事は依頼の達成であって、学園の治安を守ることではない。

玖隆はわかったと頷き返した。

皆守が、少し意外そうな顔をした。

「へえ、話がわかるじゃないか、俺はてっきり反対するもんだと思っていたがな」

「いやーうんうん、そうか、君たちそんなに俺の事が好きだったのか」

鴉室は調子よく頷いている。

「じゃ、諸君、縁があったらまた会おう、またな、ベイビー」

放免とわかった途端さっさと逃げていく姿を眺めて、皆守はとんだトラブルメーカーだ何だとぼやいて眉間にしわを寄せていた。

「ただでさえ、肥後をそそのかしたって言う謎の男の件でゴタゴタしている時に」

その一言がやけに引っかかる。

くるりと振り返った皆守は、それじゃ俺はもう行くぞとそっけなく告げて立ち去ろうとした。

「今日は早退することにしたんだ、じゃあな」

「ああ、また」

明日な、と言って片手を上げた玖隆を見て、皆守はまた妙な顔をする。

―――お前、本当におかしいぜ?そういやさっきから気になってたんだが、教室に戻る前にそこの鏡で身なりを整えた方がいい、転んだみたいに頭がボサボサだ」

指差した方を見て、玖隆は鏡に近づいていった。

おかしいというなら、皆守だってさっきから十分様子が変だ。

俺に下がっていろなどと言うし、急に他人めいた接し方をするし。

鴉室も、同じように顔見知りのはずの俺と皆守とで、態度が全然違っていた。

何故だ?

とりあえず鏡を覗き込んで、衣服の乱れを直そうとして、玖隆はそのままはたと動きを止めていた。

「あれ?」

―――どうして鏡に七瀬が映っているのだろう。

暫らくじっと姿を見て、顔の両脇に手で触れると何か固い感触がする。

鏡の中の七瀬は眼鏡のフレームに触れていた。

頬に触れて、髪に触れると、鏡の七瀬も同じように動く。

耳元の微かな気配に触れると、それはピアスだった。

見下ろして、胸元のセーラーカラーとリボン、リボン止め、その下のスカートと、更にそこから伸びる足を確認して、もう一度鏡を見て、頭の中が真っ白になっていた。

「な、な、な、何で?どうして?」

「どうしたんだよ、変な顔して」

鏡の向こうで皆守が不思議そうにしている。

玖隆は頬をつねってみた。

「おい、何やってるんだ?」

七瀬の馴染みの口癖を真似てみる。

胸に触れて、ギュッと握り締めて、柔らかな感触に慌てて手を離した。

「お、おいッ、何やってんだよ!」

背後から皆守の、焦ったような声が聞こえてきた。

「さっきのオッサンに怪我でもさせられたのか?おい、七瀬!」

玖隆は―――七瀬の姿で、慌てて皆守を振り返っていた。

こうして改めて向き合ってみると、いつもは殆ど同位置に来るはずの視線がかなり高い位置にある。

皆守もこちらを見下ろすようにしていた。

何をどう説明すればいいのか、それよりも、今の状況は一体何ごとなのか。

まるでわからなくて、おろおろと彼の顔を凝視する。

「七瀬?」

「こ、甲太郎、俺」

「は?」

皆守が怪訝な表情を浮かべた。

「甲太郎、どうしよう、何だよこれ、俺、俺」

「何言ってるんだお前、一体どうしちまったんだ?」

「俺、七瀬じゃないのに、七瀬だよ、どうなってるんだ?何でこんな」

―――大丈夫かお前?ノイローゼだのストレスだの、そういう話なら瑞麗にでも相談しろよ」

どこか迷惑そうに、皆守はさっさと背中を向けてしまった。

「これからは不審者には気をつけろよ、じゃあな」

呼び止めることもできずに、そのまま遠ざかっていく背中を呆然と見送りながら、何気なく触れたポケットの中で何かが音を立てた。

取り出してみると、それは鍵だった。

「七瀬が管理しているもの、か」

もう一度振り返って鏡を覗いてみる。

そこに映っているのは、やはり玖隆晃でなく、七瀬月魅の姿だった。

全身を隅々まで見回して、やがて大きく溜息が漏れていた。

これから―――俺は一体、どうすればいいんだろうか。

暫らく途方に暮れて、それでも、玖隆はおもむろに顔を上げる。

ここでこうして立ち尽くしていても仕方ないだろう。

とにかく打開策を考えなければ。

今自分がこうなっているという事は、もしかして俺の体は七瀬が使っているのかもしれない。

(原因はさっきぶつかったショックか?正気かよ)

俄かには信じられない、いや、信じたくない現実だけれど、現実に起こってしまった以上、嘘だ夢だと騒ぎ立てても仕方ないだろう。

戸惑っている暇は無い、とにかく行動あるのみだ。

的確な状況把握と素早い対応は、優秀な宝捜し屋の必須スキルといえる。

先ほど皆守が保健教諭の名前を口走っていた事を思い出して、玖隆はとりあえず瑞麗に会ってみようと、華奢な両足で再び床を蹴って駆けた。

 

「入りたまえ」

扉を開くとすぐ、衝立の向こうから声が聞こえた。

「玖隆だろう?」

玖隆は顔を覗かせる。

椅子に腰掛けた瑞麗が、くるりと振り返って僅かに怪訝な表情を浮かべた。

「おや?七瀬か、間違えてすまなかった、おかしいな―――確かに、玖隆の気を感じたのに」

「気?」

ゴクリ。喉が鳴る。

彼女は俺の正体をあっけなく見破った。

これならば、なにか助けになってもらえるかもしれない。

玖隆は傍の椅子に腰掛けて、正面から瑞麗を見詰めた。

「ルイ先生、あの」

「何だね?」

「俺、玖隆晃です」

―――それは、どういう意味だね」

「お話しても信じてもらえないかもしれませんが、さっき廊下で七瀬さんとぶつかったとき、体が入れ替わってしまったようなんです」

我ながら馬鹿らしい状況説明だと呆れる。彼女は信じてくれるだろうか?

パイプの先から紫煙を昇らせて、保険教諭はフウと溜息を吐いた。

「体が入れ替わった?」

「はい」

「では、七瀬の姿を持つ君は、玖隆晃だというのか?」

「はい」

「なるほど」

瑞麗は、今は七瀬である玖隆の姿を眺めて、しきりに納得している。

「では、私が感じた玖隆の気は勘違いではなかったということか、ふむ、とても興味深い現象だ」

中国の、道教の教えを元に、気の概念の説明を始める。

どうやら信じてもらえたらしい。

彼女の器量の深さに、改めて感心すら覚えるようだ。

聞かされた基に考えるなら、玖隆と七瀬はぶつかった瞬間、この状況が起こりうる何らかの条件を満たして、魂魄だけが漂離、そして互いの体に入り込んでしまったというのが事の真相らしい。

「西洋では、霊は肉体を超越した存在で、肉体とはその霊の器でしかないと解釈されている、洋の西と東だけでも霊と肉の概念は様々だが、共通して言える事は、霊と肉は結びついたまま永久不変では無いということだろう」

「それじゃあ」

「ああ、君に起っている事は興味深い現象ではあるが、理解不能な現象ではない」

パイプをひと吸いして、保険教諭は頼もしい表情で微笑を浮かべる。

「だからこそ、逆に言えば君達の体が元に戻ることも可能だと私は思っている訳だ、私の言っていることがわかるかな?七瀬、いや、玖隆」

玖隆は思わず瑞麗の手を取っていた。

すべやかで綺麗な手だ。長い爪も綺麗に整えられている。

「有難うございます、ルイ先生、感謝します」

―――何だかおかしな感じだな、同性にそんな眼差しを向けられるのも」

俄かに困惑したように、瑞麗は、いかん、何を言っているんだ私はと軽く首を振った。

「ふむ、まずは君の体と入れ替わった七瀬に会ってみる事だ、入れ替わったときと同じ方法を試せば、あるいは元に戻れるかもしれない」

それはまた激しくぶつかり合うということだ。

玖隆は少しだけ、七瀬の身体を心配した。

「探している間に彼女もここに来るかもしれないが、そうしたらすぐに知らせるから安心したまえ、それと、もう一つ」

「何ですか?」

「この事はあまり、人には話さないほうがいい」

君を、狙っているものがこの学園にいるようだからな。

玖隆は思わず閉口していた。

どうにも―――天香学園を訪れてから立て続けに起こった事件で、知り合った人々は自分の素性に感づいているような節がある。

彼女といい、黒塚といい、そして、七瀬といい、きちんと説明もしていないのに、こちらの事情を察しているような物言いをする事がままあった。

あれだけ派手に活動していては、気付くなというほうが無理なことなのだろうか。ひょっとして。

これからはもっと気をつけなくてはと思いつつ、瑞麗の助言を真摯に受け止めた。

「君が何故狙われなければならないのか、その理由はあえて聞かないが」

前振りをして煙草を燻らす。

「君の身体を借りているものが七瀬だとわかれば、今まで様子を見ていた者たちも襲い掛かってこないとは限らない、彼女のためにも、私と君だけの秘密にしておいたほうがいいだろう」

「はい」

「とにかく、早く七瀬を探し出したまえ、それと何か変化があったら、いつでもここに来るといい」

「わかりました」

「では、再見」

玖隆は一礼して保健室を後にした。

瑞麗との対話は、非常に有意義な結果をもたらしてくれた。

これで、多くの事がわかり、同時に混迷していた道も開けたように思う。

とにかく早く、七瀬を見つけ出さなければ。全てはそれからだ。

「七瀬」

今の彼女を思って、ようやく心配するゆとりが生まれた。

七瀬はきっと、俺と同じようにどこかで不安でいるに違いない。

「今行くからな」

もし彼女が人目をはばかって隠れるとしたら、一番可能性が高いのは図書室だろうとあたりをつけて、玖隆は三度廊下を駆け出していた。

 

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