雨は、人の心を陰鬱にすると、何かで読むか聞くかした気がする。
窓の外は案外大降りで、止む気配も無い。
四時間目の授業は自習になってしまったので、このまま夜に控えて眠ろうかとも考えていた。
始業の鐘の音と共に配られたプリントはあっという間に終わらせてしまって、もうやることもない。
玖隆は肩から上を机の上にだらりと乗せて、ぼんやりと教室の風景を眺めている。
9月に訪れてからこちら、もう随分と見慣れた景色だ。
同じ色の制服、同じ日々の繰り返し、そんな中、濃紺の内側に未来への期待と不安を詰め込んだ大人の缶詰達はたわいもない話で盛り上がっている。
内容はまたしてもファントムの事のようだった。
雛川教員の警告は、やはり無意味だったというわけか。
まあ、もっとも玖隆だって好奇心を止める術は持ち合わせていないのだし、ましてや惰性の日々をすでに三年もこの学園で過ごしてきた人間ばかりなら仕方ないかとも思う。
「ね、あーちゃんはどう思う?」
「うん?」
プリントと睨みあっていた八千穂が、フウと溜息を漏らして振り返った。
「ファントムってほんとに何者なんだろ、誰かのイタズラ?正義の味方?それとも、本物の幻影なのかな」
「うーん」
玖隆はもっと他の事を考えていた。
今朝方、雛川に連れられて屋上に上がった際、彼女の不安な心情の吐露を受けて、思わず素性を明かしてしまった事を、今更ながらに後悔していた。
協力者は多いに越したことは無いけれど、これはさすがに多すぎだろう。
H・A・N・Tのナンバーリストには、連絡が欲しいと言って教えられた番号がひしめきあっている。
真摯な彼女の姿が見ていられなくて、思わず抱きしめてしまったのも、うまくない行為だ。
どうも昔から年上の女性に弱い気がする。
そういえば初恋の相手も2歳年上の従兄妹だったなとどうでもいい事を思い出しながら、気のない声を上げる。
「多分本物の幻影だよ、騒ぐまでも無く」
「まったまたぁ、そんな事言っちゃって、幽霊なんて信じてないくせに」
「信じてるよ、幽霊、多分いるんじゃないかな」
天香遺跡に化人がいるくらいだし、死んだ人間が化けてでるくらいで今更驚いたりしない。
「まさか、本気じゃないよね?」
何ともいえない様子で呟いた八千穂の声と、反対側から足音が近づいてきた。
「まあ、確かにここは幽霊くらい出てもおかしくない場所だがな」
「あ、皆守クン」
玖隆は振り返らなくても、それが彼だと知っていた。
だから相変わらずだらりと机の上に乗っている。
なんだか鬱屈とした気分も、多分この天気のせいだ。雨は嫌いでは無いけど、少しだけ情熱や活力をそがれる気がする。
「それにしても、生徒会の不当な処罰から生徒を守るファントムね」
なんだか揶揄するような声だ。
ラベンダーがほのかに香った。
「確かに最近の執行委員の暴走ぶりは目に余るものがあるからな」
「あれ、珍しい、皆守クンがそんな風に言うなんて」
玖隆も八千穂の意見に同感だった。
ちらりと横目で窺うと、不本意そうな皆守は僅かにこちらを窺ってから、すぐに視線を逸らしてしまった。
「以前だったら、プハーッとアロマ吹かしながら『そんな奴らと係わり合いになるような行動を取る方が悪いのさ』とか、言っちゃってたのに」
「お前、俺をどういう目で見てるんだ」
「だって、ねえ?」
少し茶化すような気配が、玖隆に向けられる。
「皆守クン、最近ちょっと変わったかなーって、あーちゃんもそう思わない?」
玖隆はむっくりと起き上がって、背もたれに寄りかかりながら八千穂を振り返った。
「そうだな」
ニッコリと微笑みかける。
「まあ、いい傾向なんじゃないのか、甲太郎もようやく若さを取り戻しつつあるんだろうよ」
「なんだそりゃ」
背後の不満げな声に振り返った。
皆守はあからさまに眉を寄せて、パイプの端をかじっている。
「そういうお前も悪くないって言ってるんだよ」
「うんうん、あーちゃんってホントに皆守クンが好きなんだねェ」
ニコニコして頷いている八千穂とを交互に見て、後頭部をガリガリと掻き毟っている。もどかしいときの皆守のクセだ。
「チッ、勝手なことばかりいいやがって」
そのまま今朝のように踵を返すので、また八千穂が呼び止めていた。
皆守はやはり今朝と同じように、捨て台詞を残してあっさり教室を出ていってしまう。
「照れてるのかな?」
玖隆は苦笑する。
「だって、何だかんだで最近は前よりもよく教室に戻ってくるし、ちょっと積極的になってるよねえ?」
「さて、どうだろう、俺は昔の甲太郎を知らないから」
「そっか」
きょとんとした顔をして、八千穂は屈託無い笑い声を上げる。
「あーちゃんって、なんかずっと前から友達だったみたいな気がするから、うっかりしちゃった、そういえば9月の終わりに来たばっかりだもんね、知らないよね」
確かに、自分も妙な既視感を覚える事が近頃間々ある。
この学園には随分前から在籍していて、天香遺跡のことも、生徒会のことも、皆守のことも良く知っているような妙な感覚。
これは何なのだろう。
やはり、生まれて初めてこんなにも大勢の同年代の人間と過ごしているから、多少なりとも感化されているのだろうか。
Déjà vuとDestinyは兄弟なのかもしれない。分類の違いはあるけれど、どちらもDで始まるし。
運命などらしくないと、内心苦笑いを浮かべた玖隆に、八千穂がこのあとどうするのかと聞いてきた。
「もう少ししたらお昼休みだけど、あーちゃんプリント終わっちゃったんでしょ?」
「そうだな、じゃあせっかくだからこの機会に、不健康優良児の更生活動にでも専念してくるかな」
「エヘヘ、なんだか二人はすっかり仲良しだね」
八千穂はまるで自分の事のように嬉しそうに笑う。
「あの皆守クンにこんないい友達ができるなんて、うんうん、あたしも嬉しいよ、ホラ、早く行かないと置いてかれちゃうよ!」
「ああ」
席を立つと、じゃあまた後でと手を振られた。
玖隆はニコリと微笑んで見せてから、皆守を追って教室を後にした。
皆守に追いついた直後、黒崎に会って、色々と有益な情報を聞かせてもらった―――と、思う。
相変わらず石がどうだといまいち要領を得ないことを口走っていたけれど、結局ファントムの出現によって学園が混乱をきたしつつあると警告してくれたようだった。
それは、玖隆も薄々感づいていたことだから、改めて思うことしきりだ。
一連の出来事をつなぐ関連性。
生徒会と、ファントム、そして遺跡。
あの最下層に祭られているものは一体何なのだろう。
ここがただの古代人の叡智の名残でない、何者かの墳墓であるならば、これだけ大規模に地面を掘り下げて、装飾や儀礼を施さなければならない理由はなんだ。
墓守は何を守っているんだ。
立ち上る思い出の残り香が彼らを縛り付けているとするなら、それは誰の思い出なのだろうか。
わからないことばかりで少し困惑していた玖隆を、覗き込みながら皆守は口元のアロマパイプを意地悪げに揺らす。
「情けない顔だな、まあ、手に負えなければ声かけな、気が向けば手伝ってやるよ」
そんな事を言って、結局あれこれ進んで気遣ってくれるのだろうにと、思わず苦笑が漏れる。
皆守の向けてくれる好意だけは、少なくともまがいものじゃない。
それだけはいつでも断言できる。疑念を挟む余地すらなかった。
チャイムの音が響いて、顔を上げながら、皆守はようやく昼休みになったかと呟いていた。
「昼飯でも食いに行くか、晃、行こうぜ」
「ああ」
一緒に1階まで降りて、昇降口に来た所で、外の雨がまだ止んでいないことに気が付いた。
「濡れて行くには勢いが強すぎるな」
傘を取ってくるから、待っていてくれと残して、皆守が階段の上に駆けて行く。
出入り口の扉の桟にもたれながら、玖隆はぼんやりと雨音を聞いていた。
こうしていると色々な事が思い出されてくるようだ。
今のこと、昔のこと。幼い日々や、スクール時代のこと。
ある面影がよぎった瞬間、胸の奥が鋭く痛んで、思わず制服の前を握り締めていた。
―――まだ過去になっていないのか。
寂しく微笑んだ玖隆の耳に、かすかな呻き声が響いてくる。
「うん?」
振り返って辺りを見回すと、少し離れた暗がりに誰かいるようだった。
近づいて覗き込もうとすると、声の主がいきなり大声を上げた。
「み、見るナ!」
玖隆は慌てて目をそらす。
気迫に負けたのではなく、彼の切迫した雰囲気を感じ取ったからだった。
それは、天香高校の男子生徒のようだった。
一瞬だけ見えた姿と、声の感じでそう判断する。今は彼がどんな姿をしているのか見る事が出来ない。
「ア―――」
安堵した呟きと、吐息。
「ありがとう、で、ありマス」
「いいよ」
玖隆は笑う。
「気にするな」
男子生徒は俄かに動揺したようだった。
「あ、あの、自分はッ」
何だろう。
「―――その、どうしても、怖いのでありマス、自分を見る人の視線が」
視線恐怖症という言葉が脳裏をよぎる。
対人恐怖症の一種で、人の視線が気になって個人の人格や生理現象にまで影響を及ぼす精神障害の事だ。
彼はそれだというのだろうか。確かに先ほどから尋常でない様子だけれど。
「痛くて、苦しくて、恐ろしいのでありマス、ですからそのッ」
男子生徒は不意に力なく笑った。
「何故、見も知らぬ方にこんな事を話してるでありマスカ―――まったく、情けないでありマス」
「そんな事は無いさ」
玖隆は視線を逸らした先の、昇降口の向こうに見える雨の風景を眺めながら、何の気なしに呟いていた。
「誰にだって怖いものの一つや二つある、それがたまたま、他人の視線だっただけだろ?別に卑下することなんてない」
「そッ、そんな、自分のようなものにそんな言葉を」
彼は思いのほか感慨深く感じ入ったようだった。
玖隆からしてみれば、精神病だろうがなんだろうが、そんなものでいちいち劣等感を抱く必要はないと思っているので、男子生徒の反応はある意味驚きだった。
完璧な人間なんていない。
誰でも欠けているのなら、周囲を気にして自身を辱める必要がどこにあるというんだ。
「貴方の言葉はなぜか、自分を安心させてくれるでありマス―――見も知らぬ方だからこそ、こうして安心して話せるのかもしれないでありマス」
それは、そんなものかなとも思う。
行きずりの他人であるからこそ許せる領域というのもあるのだ、実際。
「そうか」
雨はまだ止まない。
男子生徒はそれきり黙ってしまった。
雨だれに耳を傾けていると、頑なな声が微かに紛れた。
「こんな事では、正義を貫くことなどできナイ、こんな事デハ」
急に足音が響いて、彼は走って行ってしまった様だった。
玖隆はゆっくりと振り返って、さっきまで人がいたはずの薄闇を眺める。
姿を見ることも殆ど叶わなかった。彼は、もしかしたら亡霊であったのかもしれないとバカな考えがよぎる。
「待たせたな、晃」
首を向けると階段から皆守が降りてくるところだった。
傍まで歩いてきて、急に顔を覗き込んでくる。
「どうした、何かあったのか?」
「いや」
おかしな様子をしていただろうかと玖隆が気にする前に、元気な声が廊下から飛び出してきた。
「よッ、お二人さん、これからゴハン?」
振り返った皆守の隣で、玖隆は明日香ちゃんと少女の名前を呼んだ。
「えっへへ、マミーズ行くんでしょ?一緒していい?」
無邪気に言うのでつい笑ってしまった。
八千穂の、こういう部分をとても愛しく思う。
先ほどまでの停滞した雰囲気は一瞬で吹き飛んで、表の雨さえ陽気に変わってしまうようだ。
「もちろん」
ニッコリ微笑んだ玖隆に、八千穂は僅かに頬を染める。
「うんッ、えへへ、ありがとあーちゃん」
傍で皆守の溜息が聞こえていた。
早く、早くと急かしながら飛び出していく様子を目で追って、悩みのないお子様は元気でいいななどと嘯いている。
「さて、と」
外に出て、ビニール傘を開いて、皆守は玖隆に振り返った。
「まァ、八千穂に見つかったのが運の尽きだ、行こうぜ、晃、ちょっと狭いが入ってけよ」
「悪いな」
「いいさ、ほら、もっと寄らないと濡れるぞ」
こんな大男二人、同じ傘に入っている様子など、端から見たら大層おかしな格好だろう。
思わずクスッと笑った玖隆を怪訝に眺めて、パイプの先の紫煙が揺れる。
「さて、何を食うか」
歩き出す先から降り注ぐ雨粒が、ビニールの表面で幾つも日乞いのダンスを踊っているかのようだった。
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