H・A・N・Tの液晶に映し出された七瀬の連絡番号を眺めながら、シーツの海でぼんやり静寂に包まれている。
具合が悪いのは雨のせいかと思っていたけれど、実際は違っていたようだった。
入れ替わった体が元に戻った後、何の不都合もないか確かめるために遺跡に潜った際、負傷した傷口が知らないうちに化膿していた。
職員室で出会った劉教諭に気づかれて、玖隆は今保健室のベッドで横になっている。
しっかり手当てをしたつもりだったのに、えぐれた脇腹の包帯は内側が黄色く染まって、じゅくじゅくと気味の悪い事になっていた傷の状態に保険教諭は呆れたように溜息を洩らし、半ば強引に、そしてかなり厳しい手当てを施してくれた。
泣きそうなほど痛かったけれど、玖隆は奥歯を噛んで我慢した。
痛みを堪えるのは慣れている。
スクール時代にも何度か死にそうになった、それに、本当の「痛み」というのはこんなものじゃない。
開かれたシャツの胸元に手で触れて、指先が覚えのある感触を見つけ出していた。
摘み上げると、金の鎖の通されたシンプルなデザインのリングが二つ、カシャンと繊細な音を立てる。
見下ろす玖隆の瞳の奥が、哀愁の色でわずかに揺れた。
「晃」
隣から伝う声に首を向けると、ベッドの上で両足を投げ出しながら、上部の背凭れにもたれて座っている皆守がじっとこちらを窺っていた。
「よお、具合はどうだ?」
「おかげさまで、さっきまでよりは大分いいよ」
「そりゃ良かった」
玖隆は苦笑しながらH・A・N・Tの画面を閉じる。
「お前、用事があるんじゃなかったのか?」
「ああ、ここのベッドに用があった」
「仕方ない奴だな、午後はサボるのか」
「さあな、お前こそ、その調子じゃ当分ここなんだろう?」
そんなことは無いよと呟きながら、身体を起こしてリングをしまう。
きっちり襟元までボタンを留めなおす様子を、皆守は何も言わずにただ見ていた。
「なあ、晃」
「うん?」
「ここの布団を持ち出して、屋上で昼寝したらさぞかし気持ちがいいだろうな」
こいつ、何言っているんだと言外に含みながら、僅かに呆れた視線を向ける。
「どうだ?今度二人でこっそり運んでみないか?」
「そうだなあ」
―――いきなりこんなふざけたことなど言って、もしかしたら気を使われたのだろうか。
玖隆は再び苦笑した。
まったく、らしくない。そんなのはお前の柄じゃないだろう?
「いいぜ、やってみようか」
皆守が不意に笑う。
まるで子供っぽい、彼らしくない不自然な笑顔だった。
「さすが晃、そうだよ、それでこそ友達ってもんだ、同士よ、そのうち昼寝同好会でも設立しようぜ」
「会員約二名の同好会か、なかなか密度の濃い活動が出来そうだな」
「とりあえず、お前もこれを吸ってみるか?」
指先でパイプを揺らすので、いいよとやんわり断りを入れる。
どのみち、ただのその場しのぎの会話だ。目論見どおり雰囲気が和めばそれでいい。
室内に控えめなチャイムの音が響いて、昼休みがもうすぐ終わる事を告げていた。
「そろそろ戻らないと」
腹の辺りを探って確認する。
瑞麗の手当ては完璧で、今はもう痛みも疼きも残っていなかった。気だるい気配も、体から抜け出ている。
ベッドから降りて傍にかけてあったジャケットを手に取ると、皆守も同じようにベッドを降りて玖隆の支度が終わるのを待っているようだった。
「お前も戻るのか?」
少しばつの悪そうな顔が、フンと鼻を鳴らす。
「次は現国だろ、サボったらまた雛川に何言われるかわかったもんじゃないからな」
「さすがの不健康優良児も、熱血教諭の更生作戦にはかなわなかったわけだ」
「言ってろ」
くるりと背中を向けて、早く行くぞと急かされる。
玖隆は声を殺して少しだけ笑った。
確かに、皆守は変わり始めているのかもしれない。
雨だれの音が、控えめに室内に響いていた。
放課後の喧騒に紛れて、たわいのない会話を楽しみながら、玖隆と皆守と八千穂は並んで歩いていた。
転校初日からこのメンバーで行動している事が非常に多い。
馴れ合いだと感じつつも、居心地のよさを感じているのは玖隆だけではないようだった。
「人にはそれぞれ、自分の生活ペースってもんがあるんだ、なあ、晃」
「まあ、それに関しては俺も否定はできないな」
「だろ?他人にガタガタ言われる筋合いないぜ」
「もおーッ、そんなひねくれたことばっかり言ってないで、皆守クンももっといろんな事にチャレンジしてみたらいいのに」
「チャレンジねえ、なら今度試してみるか?一日何時間寝れるか」
「試さなくてもお前はもう十分記録保持者だよ、それよりもっと」
いいかけた瞬間、玖隆はハッと首を向けた。
皆守も同じように険の通った顔でそちらを睨みつけている。
八千穂が、目を丸くしてねえと玖隆の制服の裾を引っ張った。
「な、何、今の」
―――多分、いや、間違いなく銃声だ。
「そう遠い場所じゃないな」
呟いた皆守が玖隆を振り返る。
「行ってみるか、晃」
「ああ」
駆け出す二人の後から、ちょっと待ってよと八千穂が慌ててついてくる。
廊下を抜けて、階段の、踊り場の辺りで三人の男子学生が固まっていた。
そのうちの一人は夕薙で、彼はしゃがみ込んでいる一人の生徒を覗き込んでいる。傍でもう一人が青ざめながらブルブルと震えていた。
「め、目が、俺の目がアッ」
「大丈夫だ、こめかみを掠ったせいで目に血が入っているだけだ、おい、いつまでもぼうっとしてないで、とにかく保健室まで運んでやれ」
「で、でも、こいつを助けたら、俺まで生徒会に」
「そんな事を言っている場合か?!」
夕薙の怒鳴り声に、青ざめていた男子生徒がビクリと身体を震わせる。
「目の前に傷ついた同級生がいる、なら、助けてやるのが人間ってもんだろ」
それほど大きな声でもなかったのに、玖隆の胸にはその一言が強く響いていた。
夕薙は、人間味溢れるいい奴だ。この場面ではむしろ青ざめた彼のほうこそ普通の反応だろうに、それを一喝してみせる心意気が非常に清々しい。
男子生徒は僅かに逡巡して、それからおずおずとしゃがみ込んでいる生徒に肩を貸した。
二人で並んで去っていく姿を見送って、硬い表情をしている夕薙に、皆守が声をかけた。
「大和」
振り返った夕薙は豪胆な笑顔で口元を吊り上げる。
「よお、まったく、ここは相変わらず賑やかな学園だな」
「夕薙クン!ね、あの子、本当に大丈夫なの?」
「ああ、ざっと見ただけだが、大して深い傷じゃなかった」
夕薙には医療の心得でもあるのだろうか?
「それにしても、随分と物騒な臭いが残ってるな」
ちらりと玖隆を視線で窺う。
気づいた皆守が、急に不機嫌な顔をした。
「なんだよ、俺には何も匂わないぜ」
「まあ、甲太郎の鼻はカレーとラベンダーの違いくらいしか分からないからな」
プッと八千穂が噴出すので、玖隆もつい笑い出しそうになる。確かに、言い得て妙だ。
「勝手に言ってろ」
不満たっぷりの表情が、結局何なんだと口を尖らせた。
「玖隆、君は分かるか?」
唐突に振られて、玖隆は一瞬間を置いてから、表情を硬くする。
「―――硝煙、銃の残り香だ」
更に詳しく言えばハンドガンの類だろう。威力と音で大体の形状は把握できる。
「そうだ」
夕薙は満足げに頷いた。
どうしてその事を自分に振ったのだろうと、玖隆はそちらの方がむしろ気になっていた。
「どれだけ腕に自信があるのか知らないが、こんな放課後の校内で銃を振り回すような輩が、正常な法の執行者であるとは俺には到底思えない」
床にはまだ点々と鮮血が落ちている。
「玖隆はどう思う?今の生徒会のやり方に、君は賛同できるかい?」
「いや」
これまでにもいくつか物騒な事件が生徒会がらみで起こっているけれど、さすがにこれはやりすぎだろう。
守るべき対象を傷つけてしまっては、統治組織の意味がないじゃないか。
強権で支配しなければならないほど、天香学園は治安の悪い場所じゃない。
先ほどの男子生徒の姿を思い出して、表情を曇らせる玖隆に、夕薙もそうだろうと頷いていた。
「でも、どうしてファントムは来なかったのかな?」
不意にぽつりと八千穂が呟く。
「皆を守ってくれているんでしょう?なら、すぐに顔を見せてもいい気もするのに、案外恥ずかしがりやさんとか?」
「さあ、どうだろうな」
夕薙が苦笑した。
「ただ、ファントムを見た者達からの話を察するに、いつもは影から様子を見ていたのでは無いかというような速さで駆けつけるらしい」
「ふうん、じゃ、今日はお休みだったとか」
「幻影が休みか?フン、バカらしい」
皆守は少し苛立っているようだ。何故だろうか。
「暴走するほうの執行者と幻影のごとき謎の救世主か、どうやらこの学園の謎はますます深まっているようだな」
どこか愉快な調子で呟いて、夕薙が改めて、挑むような視線を玖隆に投げてよこす。
「だが、俺は、君ならばその真実に迫る事も不可能では無いと思っているよ、どうだい?自信の程は」
―――七瀬のときよろしく、夕薙も、もしかしたらすでに俺の正体に感づいているのかもしれない。
いや、正確には主だった目的が、というほうが正しいだろうか。
とにかくこちらの真の事情を知らなければ質問しないような話だ。
また、少し間を置いて、玖隆は困った笑顔を浮かべていた。
「そう、だな、まあ、俺にできる範囲で、全力を尽くしてみるつもりだよ」
少なくとも請け負った仕事に関して、手を抜くつもりは全くないと、心の中で付け足しておく。
「そうか、さすがだな」
夕薙は満足したようだった。
直後に、傍で大きな溜息が漏れていた。
「大和」
皆守が眉間を寄せて、手にしたアロマパイプを揺らしながら夕薙を睨みつけている。
「お前な、あまりこいつを炊きつけるのはよせ、この学園の禁忌に近づけば、待っているのは生徒会による処罰だけだ、いくら転校生とはいえ、命を賭けるほどのものなんてないだろ」
なんだか随分怒っているようなので、逆に玖隆と八千穂はきょとんとしてしまった。
今の会話のどの辺りで、彼の癇に障ったのだろうか。
ここには宝捜し屋の仕事として訪れたと、皆守は知っているはずなのに。
「それは玖隆の決めることであって、甲太郎には関係ないことだろう?」
対峙する夕薙は余裕の表情だ。
「そもそも甲太郎こそ、どうしてそんなにムキになる?」
「それこそ、お前には関係ないことだろ?」
睨み合う二人の間に、ちょっとちょっとと八千穂が割って入る。
「どうしちゃったの二人とも、何だか、変だよ?」
直後に皆守はフイとそっぽを向いてしまった。
夕薙は、玖隆を振り返って、フッと笑みを浮かべる。
「確かに、玖隆のことで俺達が口論するのもおかしな話だな」
玖隆がこっそり様子を伺うと、皆守のほうはまだ怒りが収まっていないらしく、咥えたパイプをしきりに噛みなおしていた。
「さて、と」
話題を切り替えるようにして、わざとらしい大声で夕薙が三人を見回す。
「ああ、そうだ、甲太郎」
「―――何だよ」
「たまにはカレー以外も食えよ?」
「余計なお世話だッ」
「アハハ、それ言えてるかも」
「お前も笑うなッ」
憤慨している皆守と、笑う八千穂と夕薙の姿に、玖隆もようやくひと心地つく。
さっきの嫌な雰囲気は、どさくさに紛れてかき消されてしまったようだ。
夕薙の巧みな社交術と、単純な皆守につい笑顔が浮かんでしまう。
「それじゃあな、俺はいつもの通り、玖隆の活躍を楽しみにしているよ」
さらりと気になる一言を残して、夕薙は去っていった。
複雑な思いで後を見送る玖隆の傍で、八千穂がぽつんと声を洩らす。
「生徒会、か、確かに約束事は必要だし、それを破る人にはお仕置きも必要かもしれないけれど、でも、だからってここまでする必要がホントにあるのかな?生徒会って、本当は何なの―――」
皆守は無言でアロマを吹かしていた。
奇妙な空気の中、チャイムの音が校舎を揺らした。
「あ、もうこんな時間ッ、やば!部活、遅れちゃうッ」
八千穂は急にあたふたと二人を気遣って、慌てて駆けていってしまった。まるで嵐か竜巻のようだ。
去り際にさりげなく玖隆の事を心配してくれて、分かったと頷くと少し頬を染めてうんと頷く。
そのまま見えなくなった彼女に、玖隆は微笑を浮かべていた。
「生徒会は本当は何なのか、か」
二人きりになって、皆守がどこか感慨深げな声を洩らす。
「ん?」
携帯電話の着信音が鳴った。
「メールか?」
懐から取り出して、内容を確認すると、急に皆守の表情に影がさした。
軽い舌打ちと、酷く煩わしげな気配。
「俺もお前と一緒に帰ろうと思ってたんだが、ちょっと用事ができた」
どこか痛々しい瞳が、不必要なほどの罪悪感を込めて玖隆を見詰める。
「もう下校の鐘が鳴ってる、俺に構わず校舎を出ろ、いいな?」
「お前は?大丈夫なのか?」
「いいから行け、俺も用が済み次第すぐ行く―――お前が校舎を出る頃には追いつくさ」
最後にフッと笑って見せて、皆守はそのままくるりと背中を向けた。
「じゃあな、晃、気をつけて帰れよ、急いでな」
声だけ残して走り出す。
上階に消えていった姿を目で追って、一人きりになった玖隆はやはり複雑な気分のまま、昇降口に向かい階段を下り始めた。
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