「あーちゃん!」

「悪い、明日香ちゃん、待たせたか」

照明が照らし出す豪奢な屋敷の入り口で、一人所在無く立っていた八千穂がぱあっと表情を明るくして駆けて来る。

誰も来なかったらどうしようかと思ったと、胸を撫で下ろしている鼻先が赤い。

「寒かった?」

「え?」

玖隆は愛用の軍用コートを八千穂の肩にふわりとかける。

一応髪はちゃんと乾かしてきたけれど、湯冷めするかもしれないと用心して持ってきた、もっぱら遺跡探索時に着用している一品だ。

「ゴメン、ちょっと埃臭いかもしれないけど、我慢して」

苦笑いで先に謝っておいた。

繊維の芯まで硝煙と土埃の臭いを吸い込んで、おまけに多少血の香りもするコートの襟に埋もれて、八千穂は頬を染めてエヘヘと笑った。

「犬のにおいがする」

「は?」

犬?

「あったかいよ、アリガト、あーちゃん」

行こう、と手を握られて、玖隆は八千穂につれられて歩き出した。

阿門邸は、まるで大きな影のように目の前にそびえ立っていた。

 

爆弾騒動以来、度々休息を求めて足を運んでいる、学園内唯一のバー、九龍。

店主でありバーテンダーの千貫が、実は阿門家の執事長であったと知って、八千穂のように大騒ぎはしなかったけれど、玖隆もかなり動揺した。

只者では無いと思ってはいたが、まさか生徒会会長の腹心だったとは。

屋敷の玄関ロビーで彼の正体を知った直後、思わず身構えた玖隆に千貫は瞳の奥をキラリと輝かせて、温和な表情で招致の礼を述べただけだった。

「お会いできるかどうかはわかりませんが、坊ちゃまは玖隆さんが来られるのを大変楽しみにしておられましたよ」

その様子があまりに普段の彼のままで、沸き起こった警戒心は同じくらい唐突に霧散してしまった。

確かに立場上敵となりうる可能性もある相手だけれど、今はゲストと招待を出した家の執事。

場をわきまえた紳士的な対応は、千貫が十分信頼に値する人物である事を示している。

肩の力を抜いて、代わりに自分も楽しみですと告げると、老執事はすぐに察してニコリと笑った。

「夜会は仮面舞踏会ですので、こちらを、参加者様方には仮面をお配りいたしております」

彼の言葉と共に、すぐ傍に控えていたメイド二人が恭しく玖隆と八千穂にマスクを差し出してきた。

女性は目元を隠すだけのシンプルなもの。男性は―――

(あれ、これは)

見覚えがある。

確か、ファントムも同じもので顔を隠していた。

(じゃあ、あれは)

思考の波を遮って、早速仮面をつけた八千穂がはしゃぎながら似合うかどうか聞いてきた。

「よく似合うよ」

「あーちゃんもつけてみて!早く早くぅ」

仮面をつけて、似合うか聞き返すと、何故だか散々笑われてしまった。

やれやれと肩をすくめる様子に微笑みながら、千貫は二人を会場へと案内してくれた。

「うわー!すごいねえ!」

隣から感嘆の声が上がる。

確かに、見える姿はどれも制服ばかりだけれど、これは随分立派な広間だ。

毛足の長い深紅の絨毯、見事なクリスタルのシャンデリア、アール・デコ調に設えられた室内は暖色系の光で満たされて、ムーディーな雰囲気は否応無しに気分を昂ぶらせてくれる。

実際、生徒達は男女問わず積極的に交流を楽しんでいるようだった。

「こんなおしゃれな場所で仮面舞踏会だなんて、やっぱり来て正解だったねッ」

キュッと手を握られて、玖隆はニコリと微笑む。

途端、ほのかに頬を染めて、八千穂もエヘヘと照れ臭そうに笑った。

「ねえねえ、他に誰か来てるかな、クラスの子とかいるか、探してみようよ」

「コラ、明日香ちゃん、それはルール違反だよ」

「あ、そっか、エヘヘ、ゴメンゴメン」

そうは言ったものの、この程度の変装では相手が誰であるか、見抜くのはたやすい。

実際玖隆も取手に声をかけられて、彼の場合は身体的特徴が大きいからすぐ正体が明らかになってしまうのだろうが、玖隆も八千穂もあっけなく彼に看破されてしまったのだから、ここにいる人間の殆ど全ては相手が誰かわかって接しているのだろう。

(カップルが大勢誕生しそうだな)

下世話な事を考えて、笑う。

両親の仕事柄、パーティー慣れしているから、彼らより幾らか醒めた目で状況を見ているのかもしれない。

ザワザワと奥の一角が俄かに騒がしくなって、首を向けると背の高い漆黒の影が真っ直ぐこちらに近づいてきた。

黒いマントの男と、それに寄り添う深紅の女。

明らかに雰囲気の違う二人―――見間違えようもない。

「お前は」

黒の男が言った。

「こんばんは、いい夜ですね」

玖隆は丁寧に会釈をする。

隣で八千穂があーちゃんと呼びながら制服の裾をキュッと掴んだ。

深紅の女が目に留めて、クスッと笑った。

「ウフフ、こんばんは、お二人さん、楽しい夜を過ごしているかしら?」

「ええ、もちろん」

「そう、それはよかったわ」

妖艶に微笑む女と、玖隆の視線がぶつかる。

会場内に静かなピアノの曲が流れ始めた。これは、取手が弾いているものだろう。

「アラ、素敵な曲」

女が八千穂を見て、再び玖隆を見詰めた。

「あなた達は踊りに行かないのかしら?せっかくの舞踏会だもの、踊らなきゃもったいないわよ?」

「え?だって、ダンスなんてあたし、できないし」

困り顔の八千穂にそうと呟いて、不意に女は玖隆の手を取る。流れるような自然な動作だ。

「ねえ、だったら、アナタ、よかったらあたしと踊ってくださらない?」

玖隆は仮面の奥から微笑みかける女の瞳をじっと見詰めた。

長い睫、濡れたように漆黒の眼差し、むせ返るような色香が全身から立ち上っている。

「勿論」

玖隆はその手を逆に取って、甲に口づけを落とした。

隣で八千穂がキャッと小さく声を洩らした。

「喜んで」

キザな仕草だ。

実際柄じゃない。父親の友人の、真似事をしてみている。

この手の女性に絶対的に効果のある対処法だと、玖隆は以前彼から聞かされた事があった。

使いどころさえ間違わなければ、大概の女性はこれで気をよくするという。

そして女は、彼の言っていた通り、ニコリと妖艶に微笑んだのだった。

「フフフ、光栄だわ」

赤い唇が濡れた色に光る。

「それじゃあ、少しの間、彼氏をお借りするわね」

「か、彼氏だなんてッ」

顔を真っ赤に染めて俯いた八千穂に、女はさっきまでと趣向の違う微笑を向けていた。

今の顔のほうが好みだ。少し印象が柔らかくて、包容力を感じる。

「さ、行きましょう」

手を取られて、玖隆は女と一緒にフロアの中央へ歩いていく。

「アナタ、踊れて?」

「貴女を退屈させない程度には」

ウフフ。

「それは楽しみだわ」

片手を取り、腰にもう片方の手を添えて、女は周囲をぐるりと見渡すと、イタズラな視線を投げてきた。

「曲は緩やかな四拍子、みんな、見よう見まねで踊っているようだけど、アナタならどうするのかしら」

「スローフォックストロット」

「まあ」

「と、言いたい所だけど、あいにくスローテンポのダンスはブルースしか踊れなくてね、構わないかな」

―――構わないわ、そういう素直な態度、好きよ」

胸元にそっと寄り添ってくる。緩やかなダンスが始まった。

女が動くたび、嗅ぎなれたラベンダーとは違う、甘い香りに鼻腔の奥をくすぐられる。

「アナタ、危険な香りのする人ね」

ゆったりとした曲にあわせて、重なり合った影が揺れる。

「アタシ、匂いには少しうるさい方なの」

「へえ」

「アナタからは他の人からはまるで感じない様々な香りがするわ」

「どんな香りなのかな」

ウフフ。

女は笑う。

「そうね―――

土、埃、血、鉄錆、太陽そして―――硝煙。

生徒会役員なら俺の夜の顔を知っていて当然だろう。

玖隆の口の端にも、薄い笑みが滲む。

「ねェ、アナタ、本当は何者なの?」

女の手がスルリと背中を撫でた。

「もしもあたしがそう訊ねたら、アナタは本当の事を教えてくれるのかしら?」

―――君の秘密を、代わりに教えてもらえるのなら」

「ワタシの秘密?」

「ああ、そうだ」

回していた腕で、軽く腰を引き寄せる。

「まあ、フフフッ」

女は再び胸にしな垂れかかってきた。

柔らかな感触と甘い香りに、少なからずいい気分だ―――油断だけは、できないが。

「かわし方も上手なのね、ますます気に入ったわ」

俺は案外、伊達男の素質があるんじゃないのかと、玖隆は自分自身を皮肉ってこっそり苦笑する。

取手のピアノの最後のフレーズが、切ないメロディを伴って終わった。

会場に広がっていく拍手の波に、アラと残念そうに呟いて、女はスルリと腕から抜け出していた。

「今夜はありがとう、とても楽しかったわ」

艶やかな笑みが再び口元を彩る。

「次に会うとき、あたし達の関係はどうなっているのかしら―――楽しみにしているわ、《転校生》サン」

伸びてきた赤い手袋の指先が、玖隆の胸をつっとなぞった。

そのままフロアへ消えていく姿をなんともいえない気分で見送っていると、不意にあーちゃんと背中から呼びかけられていた。

「明日香ちゃん」

慌てて振り返ると、待ちぼうけを食らっていた八千穂は少しむくれている。

ゴメンと謝る玖隆の顔をじっと見つめて、不意にいつもの可愛らしい笑顔が浮かんでいた。

「うん、いつものあーちゃんだ」

「え?」

「あの人と踊ってる時、なんだかすごく格好つけてたでしょう?」

―――バレたか」

当たり前だよと胸の辺りを叩かれるので、玖隆も笑いながら繰り出される緩いパンチを受け止める。

その時。

「あれ、携帯鳴ってるよ?」

女生徒の他愛もない会話が聞こえてきた。

明日香にグイグイと手を引かれて、玖隆はオードブルの盛られたトレイのあるテーブルへ歩いていく。

体中にまだ女の残り香が染み付いているようだ。

「やだ、何これ」

「え、何よ、彼氏からじゃないの?」

「違うわよォ、それに、その話は今日はしないでって言ったじゃない」

「ああ、ゴメンゴメン、で、何なの?」

「それがなんか気持ちの悪い唄みたいなのが」

キャーッと悲鳴が会場全体に響き渡った。

玖隆と八千穂は、とっさに振り返る。

「な、何なの、なんなのよォこれ!」

叫んでいるのは先ほどいた二人のうちの片割れの女生徒だ。

腰が砕けて、座り込んでガタガタと震えている。

「うわあああ!な、何だアレ!」

「お、女が、浮いてる―――

彼らが口々に指し示す、その先―――天井の、シャンデリアに。

「あーちゃんッ」

八千穂がギュッとしがみついてきた。

シャンデリアに長い髪を貼り付けにされて、先ほど話していた女生徒のもう一人が苦悶の表情でぶら下がっていた。

「何あれ、どうなってるの?」

急に何かに気づいて振り返った八千穂がアッと声を洩らした。

玖隆もまた振り返る。

窓の外に、昼間の留学生が佇んでいる。

「あーちゃん、あれ、あの子、ねえ、窓の外にいる子ってもしかして」

電子音が鳴った。

ハッと顔を向けると、少し離れた場所で、青ざめた男子生徒が何事か話していた。

「お、俺、帰るわッ」

そのまま飛び出していく様子を見て、八千穂がまさかと呟いている。

「あーちゃん!」

もう一度振り返れば、すでにトトの姿も見えなかった。

「あたしたちも出よう!」

「ああッ」

混乱する会場から抜け出して、阿門邸の正面玄関を抜けた二人の耳に、いきなり夜闇を貫く絶叫が響き渡ったのだった。

「あーちゃん!」

声の方へ駆けていく。

寮へ向かう道の途中で、先ほどの男子生徒と思しき人影が石畳の上に倒れていた。

 

長すぎるので分割終わらない(苦笑)