頭が、どうも重い。
今朝から漂い続けている香りは、時間が経つにつれてますます濃くなっているように思う。
普段かぎなれない匂いのせいで、思考もうまくまとまらないようだった。
「二年か―――俺にはもう時間がない、この学園に来た事が無駄でなければいいが」
目の前で、意味深に呟く、夕薙の姿を見ながら思う。
以前から俺の仕事に興味を持っているらしい、こいつは一体何をしようとしているんだろう。
彼も独自に天香学園に秘められた謎を解き明かそうとしているらしい。
それは、これまでの言動からおぼろげには推察できていたけれど、具体的な理由となると皆目見当すらつかない。
ただ、今の様子を見る限りでは、何か彼にとって非常に切羽詰った事情があることだけは確かなようだ。
(まただ)
玖隆は僅かに顔をしかめる。
より深く、思考を廻らせようとするたびに香る―――この香り。
柑橘系とスパイス、それに、香木を混ぜ合わせたような甘い香りが、精神を弛緩させる。
雛川教諭が現れて、夕薙と何か会話している。
玖隆も、聞いてはいたけれど、それ以上に意識が朦朧として集中する事が出来なかった。
曖昧な返事を繰り返しながら、途中、雛川が開いた名簿の中にある名前の羅列に、記憶の片隅がピクンと反射する。
名前。
生徒達の名前。
クラスメイト全員の名前は覚えた。
色々と係わり合いになっている人たちの名前も覚えている。
けれど、何かが、そう、何かが―――
(何なんだ、これは)
「温室で何か、咲いたのかしら?」
温室?
夕薙が、不意に妙な顔をして、数言残して教室を出て行ってしまった。
午後もちゃんと授業に出るのよと声をかけて、雛川教諭は名簿を握り締めながら軽く溜息を漏らしている。
「じゃあ、晃君、先生もそろそろ職員室に戻るわね、またね」
「ええ、また」
ニコニコしながら手を振って、そのまま立ち去っていく姿を見送って、玖隆はふらりと教室の窓辺にもたれて外を見る。
ここからでは温室は見えない。
花の香りにしては、強すぎる匂いが辺り一面に充満している。
溜息を漏らすと、背後からあーちゃんと元気な呼び声が聞こえてきた。
「明日香ちゃん」
振り返ると、八千穂が頬を染めて、息を切らして傍まで駆け寄ってきた。
「ねえねえ、すごい話聞いちゃった、あのね、時計台の幽霊がまた出たんだって!」
「時計台の幽霊?」
あ、そっか、あーちゃんは知らないんだっけと前置きをして、八千穂は簡単な説明を付け足す。
それは、どうやらこの学園に伝わる怪談の一つで、時計台の上から悲しげにこちらを見詰める髪の長い少女の亡霊であるらしい。
「その、女の子が誰かに似てるって話しなんだけどね」
そこまで言って、八千穂は腕を組んでううんと唸り声を洩らした。
「えーっと、誰だっけ、誰に聞いても思い出せないって言うんだけど」
「知っている子なのか?」
「うん、あたしもあーちゃんも知ってるよ、あの、髪の長い子、ええと、うー、誰だったかなあ」
話しながら段々悲しそうに瞳を伏せるので、玖隆も様子をじっと見詰めていた。
俺たちは、きっと大切な何かを忘れてしまっている。
けれど、それを思い出そうとするたびに、この香りが邪魔をして、記憶の糸が辿れない。
混濁した意識に紛れて、それ以上のものを失くしてしまいそうで、掌を握り締めていた。
嫌な気分が胸の奥でわだかまっている。
これは何だ。俺は、どうしてしまったんだろう。
「うー、名前が出てこない、あーちゃん、思い出せる?」
「いや―――」
「やっぱり思い出せないの?何でかなあ」
困り顔の八千穂の背後から、不意に声がした。
「―――白岐幽花、だろ?」
「あ、皆守クン」
振り返った八千穂が呼びかける。玖隆も、困惑したまま皆守を見た。
鼻先に嗅ぎ慣れたラベンダーの香りが微かに香って、そのせいだろうか、少しだけ頭の中が晴れた気がする。
皆守は相変わらず気だるげにパイプの端を噛みながら、先端をユラユラ揺らして眉間を寄せていた。
「お前らまでこの様とはな、まったく、どうなってるんだ」
「しらきかすか?」
八千穂が首をかしげる。
玖隆も、聞き覚えのある響きに、それでも同じように尋ねかえすような顔しか出来なかった。
その名前を確かに知っている気がするのだけど、まだピンとこない。
誰だったろう、俺はその人を知っている気がするのだけれど。
「どこかで聞いた覚えがあるんだけど」
「おいおい」
本気で言ってんのかと尋ねながら、皆守はいつになく真剣な表情で玖隆の顔を覗き込んできた。
彼らしくもなく、普段は眠たげに濁っている瞳の奥に、不思議な色の輝きが宿っている。
それがなんなのか、確認する前に、先に訊かれてしまった。
「晃―――お前も、か?」
玖隆は僅かに視線をそらした。
答えられない以上に、見つめられるのが辛くて。
「ごめん」
「どうしても思い出せないのか」
そのまま俯くと、微かに舌打ちが聞こえて、くるりと踵を返した足音がそのまま乱暴に立ち去っていく。
「皆守クン、どこ行くのッ」
慌てた八千穂の呼びかけにも答えようとしないで、皆守の気配は遠くなっていった。
八千穂が、謎を振るだけ振っていなくならないでよと、すねるように呟いた。
確かに、疑問ばかりが残されてしまった。
しらきかすかという、聞き覚えのある名前。
そして、皆守のあの表情。
「何か、忘れちゃいけない事を忘れちゃってる気がする―――」
八千穂の声に、胸の奥に鈍い痛みが走る。
記憶をなくす。
それは、一番恐ろしい事だ。背筋を正体の分からない悪寒が駆け抜けていく。
「明日香ちゃん」
顔を上げて、不安げな瞳が玖隆を見詰める。
「俺、甲太郎を追いかけてくるよ」
「え?」
ニ、三度瞬きを繰り返すと、八千穂は、皆守クンが気になるんだねと寂しそうな微笑を浮かべていた。
「二人は本当に仲良しだね、エヘヘ、あたしは―――まだもうちょっとだけ、ここにいるよ、もしかしたら何か、思い出せるかもしれないから」
不安に駆られている彼女のために、今は傍にいてやりたいと思う。
けれど、曖昧な気分を抱えたまま立ち止まっているなんて、俺にはできそうにも無い。
皆守は何か知っているような素振りだった。俺達の忘れ物を、あいつはわかっているんだろうか。
それなら、すぐに追いかけて、詳しい話を聞く必要がある。
それが真実大切なものであったなら尚のこと、俺たちは思い出を失くすわけにはいかない。
「明日香ちゃん」
そっと肩に触れると、ハッと顔を上げた瞳とぶつかって、八千穂はニッコリ微笑み返してくれた。
「またね」
胸を打つ優しさに、玖隆も誠心誠意、友愛をたっぷりと詰め込んで、笑顔を返す。
八千穂は優しいいい子だ。多少、お転婆だけれど、いつでも周りの事を一番に考えている。
この子に、悲しい顔は似合わない。
「じゃあ、また」
隣をすり抜けて、教室を後にする。
香りはそこらじゅうの大気に蔓延していて、踏み出す一歩一歩はよどみ、常に足元はもつれるようだった。
まるで悪夢の中の光景だ。
誰も、何も、昨日までとまるで変わらないのに、そこにあった一欠片だけすっぽりと抜け落ちている。
おぼろげな虚無は日常に紛れて、やがてなくした記憶にすら慣れてしまうのだろうか。
怖い。
記憶をなくすのは怖い。
大切なものを失って、心に闇を抱えたまま、さまよい続けるのは怖い。
とてつもなく恐ろしくてたまらない。
まして、失くしてしまった事実自体を忘れてしまったら、それはどれ程の恐怖だろうか。
恐怖と感じることもなくなってしまうだろう。想像して、総毛だった。
これまで戦ってきた執行委員―――墓守たちは、誰も自分自身の喪失すら記憶の虚ろに葬って、代わりに手に入れた異能の力を揮い、立ちはだかってきた。
常人をはるかに凌駕する、その力。
それと同等以上に価値のある、思い出という供物と引き換えに。
(そんなもの)
俺は、要らない。
記憶を失くすくらいなら、特別な力なんて必要ない。
そんなもの無くても人は強くなれるのだと、いつかあの人が教えてくれた。
―――信じれば、それがあなたの力になるのだから。
「失くしていい記憶なんて、ない」
階段を駆け上っていく。
皆守の行動にあたりをつけて、多分こちらでは無いかと両足を急がせた。
くすんだ色の、鉄製の扉。
錆びた蝶番をきしませて、大きく開け放つと、その向こうに薄い雲の浮かんだ青空が広がる。
まぶしくて僅かに瞳を細めた。
外に出て、辺りを見回すと、不意に聞き覚えのある声が耳に響いた。
「晃か?」
玖隆は首をめぐらせる。
「ハハハ、どこ見てんだよ、こっちだ、こっち」
笑い声に顔を上げると、給水等の上、皆守が、腰を下ろしてこちらを見ていた。
「いい風が吹いてるぜ、ここなら、あの忌々しい匂いに惑わされることもない」
フイと顔を上げて、はるか彼方の景色に瞳を細くする。
横顔の漂わせる切なさが胸を締め付けるようで、玖隆は地上から天の雲を仰ぐようにその姿を見ていた。
アロマの煙が口元から緩やかな風になびいて流れていく。
「空と、雲と、風と―――ラベンダーの香り、それが俺の日常を取り巻く全てだ」
ああ、の声と共に、再び振り返った表情が、なつっこい笑みに変わる。
「最近じゃ、傍でお前がドタバタやってる騒がしさ、ってのも、慣れた光景だがな」
玖隆は思わず苦笑いを浮かべていた。
こっちは大慌てしていたっていうのに、急にそんな顔してみせるなんて反則じゃないか。
少し、気が抜けた。
皆守には空の青がよく似合うと思う。
いつも、いつでも、鬱屈そうに表情を曇らせて、まるで自分自身を戒めるように口を閉ざし、思いを隠しているけれど、抱えた何かがあることくらいバレバレだ。
わざと端の方だけ見せ付けているのか、それとも天然なのか―――
どちらにせよ、こうして風に吹かれて気ままにしている方が、こいつにはよほど似合うという事実だけは変わらない。
皆守に、狭いこの箱庭は似合わない。
黒い制服の内側で膨れ上がった情熱が、出口を求めて不完全燃焼を起こしているんだろう。
俺も、お前も、ここよりもっと広くて大きな、羽ばたける青空を夢見てやまない。
「ふん、嬉しそうな顔しやがって」
しっかり憎まれ口を叩いて、皆守は身軽な動作で給水塔の上から飛び降りてきた。
すぐ傍に来ると、半歩ほど手前で立ち止まる。
「晃、お前があいつを捜す気なら、手を貸してやってもいい」
―――玖隆がここを訪れた意図はすでに察していたらしい。
「どうする?ひょっとしたらお前にはもう顔も思い出せない女だ、それでも、捜すのか?」
「ああ」
ためらいもなく、玖隆は頷き返していた。
完全に忘れてしまう前に。
何もかも失くしてしまう前に。
ほんの僅かでもいい。可能性があるなら―――俺は全力で、その端を掴んでみせる。
「そうかよ」
皆守は答がわかっていたような顔をして、嬉しそうに口の端をほんの少し吊り上げていた。
「なら、付き合ってやるよ、お前の気が済むまで、な」
鼻腔をくすぐるラベンダーの香りが心地よい。
この学園を訪れてから、いつも傍らにある花の香り。
同じ芳香ならこちらのほうがずっと好みだ。最近では、この香りを感じるたび、皆守を思い出す。
「晃」
皆守は何でもないような顔で呟いていた。
ただ、その瞳の奥にだけ、暗い影が俄かによぎる。
「お前にだけは話しておく、たとえこの学園の全ての奴があいつの存在を忘れ去ったとしても、俺には―――忘れる事ができない、それが何故だか、お前には解かるか?」
「いや―――」
「そうか」
青空を背景に、その笑顔はひどく―――悲しいと、玖隆は感じていた。
胸の奥を刺す痛み。
これもまた、思い出のせい。積み上げられ、幾重にも結ばれた想いのせい。
俺はまだ知らないフリをしていたい。
それは、他ならぬ俺自身のエゴのために―――
(皆守がそれを望んでいるなら、尚更)
「何でだろうな、少し、ホッとしたよ」
寂しい皆守の姿を、できることなら腕を伸ばして―――抱きしめて、しまいたかった。
何故だろうか。
そんな事を唐突に考える自分もどうかしていると思う。
きっと不安で、精神が混乱しているんだ。
風が運ぶラベンダーの香りが、風向きが変わったせいで急に感じられなくなってしまった。
玖隆を見詰める皆守の瞳は、果てしなく深い黒をしている。
玖隆の瞳は光を受けて、僅かに赤く染まっているのだろう。
「俺はただ、もうこれ以上、お前の困った面も、八千穂の落ち込んだ面も、見ていたくないんだ」
まるで言い訳のような台詞。
誰に向かって言っている?お前は何を隠している?
見ないフリ、気づかないフリをして、俺はいつまで黙っていればいいんだ。
「俺も少し色々動いてみる」
再び遠くに視線を向ける、横顔を見詰めていた玖隆は、僅かに視線をそらしていた。
まるで騙しあいだ。
距離はあと半歩しかないのに、お前の心だけ見えてこない。
昼休みの喧騒が地上から響いてくる。
「だがその前に、まずは腹ごしらえと行こうぜ」
振り返る仕草にあわせて、玖隆も気安い笑みを返していた。
お互い、気づかれないように、知られないように、胸の奥にあるパンドラの箱に鍵をかけて。
「当然」
「マミーズのカレーで、だろ?」
「―――同士よ、お前も分かってきたじゃないか」
ぽんと肩を叩かれて、同じタイミングでニヤリと笑う。
ずっとこうしていられたらいいのに。
再び漂ってきたラベンダーの香りを深く吸い込んで、頭上に広がる空の青がやけに目に染みるようだった。
屋上に、それ以外の香りは僅かも漂っていなかった。
(次へ)