忙しい両親の朝は早い。
白羽家の一日は慌しく始まる。
「おはよう」
階下に降りてきた息子の姿を見つけて、あらやだ、と、母親が眉をひそめた。
「まだ寝てたの?おはよう、寝癖、凄いわよ」
「これは寝癖じゃなくてクセ毛」
「ハイハイ、私に似たんでしょ、朝ごはん出来てるから、早く食べちゃいなさい」
父親は商社の重役で、日本どころか世界を股にかけて飛び回っている。
今も海外に長期出張中だ、そろそろひと月ほど経つだろうか。
母は調理師学校を数校経営する著名な料理評論家で、毎日何かと忙しい。
ホワイトボードの今日の日付の項には、テレビ出演と講演会の予定が書き込まれてあった。
ちらと横目で見て、天人はあくびを漏らした。
「こら、天人、何ボンヤリしてるの」
ノンビリ屋な性分はどちらに似たのだろう。
―――多分、これは後天的なものだ。
天人は思う。
日々は、望んでも届く事なく、身勝手に過ぎていく。
「早く支度して、ちゃんとご飯食べて行きなさい、遅刻しちゃダメよ?」
「母さんこそ、遅刻」
「あらやだ!」
時計を見て、母は慌しくリビングから飛び出していった。
玄関から「学校!遅れないように!」と念を押す声に次いで、ドアの閉まる音が聞こえる。
急に静かになった部屋に一人きり、ぽつんと佇んで、天人は小さく溜め息を漏らした。
近所からは仲の良い親子と思われている。
実際そうだし、両親は時間を割いてやれない分、モノで愛情を注いでくれた。
それでも、本当に欲しい物は随分前に諦めたきりだ、天人は日々良い子を演じ続けている。
―――いや、演じているわけではない。
ただ両親を困らせたくないだけ。
駄々をこねてみたこともあったけれど、結局何も変わらなかった。
両親が困った顔をしただけだった。
そうして、随分幼い頃に、天人は諦観と忘却を学んだ。
「仕方ない」
呟くと、胸の奥に虚ろが広がっていく。
欲しい物は概ね手に入り、大きな家と不自由のない暮らし、社会的ステータスの高い父と母、そして、天人自身も何かと恵まれてこの世に生を受けた。
あまり自覚は無いけれど、どうやら美形の類に分類されるらしい容姿、大概のスポーツはそつなくこなせてしまうし、特に努力しなくても中の上程度の成績を常時キープできている。
顔色を伺う事なく相手の機微を読み取れてしまう性質のおかげで、人間関係も好調だ。
何も問題ない。
そう、自分は恵まれている。
授かり物の能力と境遇を、天人はきちんと理解している。
けれど―――思う、だからどうだというのか。
整った容姿、優秀な頭脳、高い身体能力、家が金持ちで、欲しい物は何でも手に入る、でも、だから何だ、それがどうした?
勿論、そういった才や環境は無いよりあった方がいいに決まっている。
望んで得られない人も大勢いるだろう、そんなことは知っている。
しかし彼らと天人の間に何の係わり合いない。
俺は、俺でしかない。
一人きりの部屋をぼんやりと眺める。
時折、自分は一人暮らしだろうかと錯覚するほど、常に自分以外いない家。
母親が作り置いていった食事をモソモソと食べて、適当に顔を洗って、髪を梳かして、着替えを済ませる。
庭に面したガラス戸の近くを通りかかったとき、微かに外の気配が伝わってきた。
車の音、誰かの笑い声、カーテン越しに差し込む朝の光と共に忍び込む賑やかな雰囲気。
どうでもいい。
目を瞑り、鞄を取った。
あまりノンビリしていては本当に遅刻してしまうと、多少急ぎ足で玄関に向かう。
いつからその言葉が口癖になっていたのだろう。
記憶している家族団らんの風景はごく僅かだ。
遊園地の予定が延期になり。
授業参観の欠席を謝られて。
週末の約束を反故にされ。
ごめん、ごめんねと、過去を思い返せば、両親はいつも申し訳無さそうにしていた。
仕方ない。
それでも忙しいなりに、両親は一人息子を可能な限り愛する努力してくれた。
幼心に理解したから、天人は彼らの負担にならないよう務めた。
聞き分けの良い、賢い子。
両親は息子に全幅の信頼を置き、それはやがて日常へと変わっていった。
仕方ない、仕方ない、仕方ない―――だって、それは本当にどうしようもない。
父親は遊園地より会議の方が大事だし、母親は授業参観よりもテレビ出演の方が大事で、週末は大事な大人の約束が詰まっている。
子供の自分が何をしようと、変えられない、変わらない。
だから『仕方ない』
受け入れるわけでも、理解するでもなく、ただ、目を閉じて諦める。
世の中は仕方のない事だらけだ。
そして天人は『仕方なく』生きていた。
望みは色々とある。
けれどその殆どは叶わない、それは、仕方ない。
いつだってこの手の及ばない所で物事は勝手に決定され、日々はただ流れていく。
人生をリアルに感じられる瞬間。
そんなものが本当にあるのだろうか。
家を出ると、朝の光が瞳を貫き、天人は僅かに顔を顰めた。
同時に「お〜っす!」と暢気な声が聞こえて、視線を向けると、玄関から続く階段の下、門扉の向こうで、幼馴染の大地が「やーっと出てきた、おっそい!」と口を尖らせている。
「約束してたっけ?」
階段を下りつつ訪ねた天人に、大地は「してないけど、迎えに来てやったの!」と恩着せがましく答える。
「幼馴染のありがたみってヤツを、たまには教えてやろうかと思ってだね、キミ」
「ああ、なるほど、いつも教わる方だもんな」
「んな!オレだってオマエに色々してやってるっしょ!」
「例えば?」
「ふえ?」
扉を出て、外から閉めなおして鍵を落とすと、天人は大地の答えを待たずに「行くぞ」と歩き出した。
家が斜向かいで、同じ年に男子を授かったよしみで両親が親しい付き合いをしており、物心ついた頃片ずっと一緒にいる、ほとんど兄弟の様な関係だ。
大地も天人のそっけない態度を気にも留めず「ちょいちょい!」と後についてくる。
「えーっと、アレだ、体育の!」
「ジャージはダイチが借りに来る方が多い」
「お、オマエだってたまに忘れるだろ!じゃあアレ、辞書!」
「九割方俺が貸してる」
「ううっ、オレだって買い物とか色々付き合ったりしてるだろお!」
「頼んだことあったっけ?大体、お前に頼まれて付き合わされることの方が多いよ、ダイチ買い物長いし、お前が何着ようと俺は興味無いし、何着たって大して変わらない」
「おっまええぇ!」
自分がからかって、大地が地団太を踏む、こんなやり取りは日常茶飯事だ。
案の定拗ねた顔をした幼馴染はチェっと舌打ちしてそっぽを向くけれど、すぐまた気を取り直して「なあなあ」と懐っこく話しかけてきた。
「そういえばさ、今度の模試、お前も受けんだろ?」
「うん」
「もう秋だもんなあ、模試、模試、模試って、オレの頭もモッシモシ、もうウンザリ」
「仕方ないさ」
天人は軽く笑い返す。
「大学くらい出てないと、就職先も見つからない」
「ですよねー」
「まあ、頑張るしかない、現役で済ませたいし」
「ウチもうるせーの何のって、浪人したら家追い出されるかもって勢いよ、お袋ツノ生やして毎日勉強しろ勉強しろってさあ、青い春真っ最中の青少年に、なんつー拷問かね」
「普通だろ」
「バラ色の高校三年生が、ブルー通り越してすっかりグレーよ、むしろブラック無糖、どうなのそれって」
「ダイチの頭は加糖気味だな」
「コラぁ!自分が余裕だからって、何という差別発言!天人最近オレに冷たくない?お前こそ無糖だろ、このイジメッ子!」
「俺がお前に優しかったことなんてあるか?いい加減黙らせるぞ」
「う、ヤダ!何する気よ!暴力反対!イジメ格好悪い!」
それは殴ってくれということかと拳を構える天人を見て、大地はヤダヤダ言いながら一目散に逃げていく。
どのみち、このままダラダラ歩いていたら遅刻だった、丁度いいと天人も駆け出した。
「コラ待て、逃げるな!」
「やーだー!オマエ普通に殴るし痛いんだもん!朝からグーはヤダ!」
「じゃあパーで」
「ビンタか?ビンタだろ?ビンタだな!絶対ヤダ、痛い!」
「うるさい、待て!」
「そう言われて待つヤツいないだろ!もうヤメテ!怖いから!」
丁度通勤通学ラッシュの時間帯で、駅に近付く程人通りが増え始めた。
頃合いだろうと歩調を緩めて歩き出した天人に気づかず、駅の前まで走りぬけた大地が、息を切らして天人を待っていた。
近付いていくと、恨めしそうに睨まれる。
「お、オマエ」
「何?」
「涼しい顔しちゃって、もーイヤ、オマエと幼馴染本当にヤダ」
「だったら縁でも切ろうか?」
うぐ、と、言葉に詰まった大地が「そういうイジワルなコト言うなよぅ」とパンチを繰り出してくる。
天人は笑って避けながら、漸く「ゴメン」と謝った。
いつもの風景。
いつものやり取り。
慣習化された、温くて、退屈で、けれど平和な日々。
何もかも仕方のない事なのだろう。
駅のホームに着いて、疲れた顔をしている大地に仲直りも兼ねてジュースを一本奢ってやった。
電車と共に吹き込んできた風が、秋の訪れを告げていた。