しかし、日常は呆気なく覆されてしまった―――
その日は朝から少し寒くて、お気に入りのパーカーを着込んで外に出ると、風がフードから伸びるウサギの耳を模した長い飾りをひゅうっと揺らして通り過ぎていった。
一応、デザイナーズブランドの一点ものだ。
買ったばかりの頃、大地が「ウサミミ、ウサミミだ」とからかうので、似合っていると認めさせてやろうと頻繁に着るようにしていたら、そのうち突っ込まれなくなり、自分でもすっかり愛着が湧いてしまった。
実は天人自身最初少し微妙かなと思っていたけれど、今では半ばトレードマークのようになりつつある。
孤独で死ぬこともあるというウサギ、それは、どこか自分と似ている。
けれど自分は孤独で死ぬことは無いだろう、今はもう、誰にも、何の期待も抱いていないのだから。
待ち合わせの時刻に案の定送れた大地にコーヒーを一本奢らせて、二人で向かった先は模試の試験会場、都内某校の校舎を借りて行われるため、私服と制服姿が半々くらいだ。
大地が制服を着ている理由は、朝慌てて袖を通してしまい、間に合わないのでそのまま来たらしい。
「どっちみち遅刻したけどな」
「うう、すんません、でもオレ後で学校行って面談やるからさあ、制服の方が良かったかもって」
「面談?」
「進路と、あと面接の練習、何か心配されて」
「ああ、ダイチはすぐテンパるからな、練習しておいた方がいいだろうな」
「どーせオレはビビリですよ、だって仕方ねえじゃん、怖いんだもん」
やれやれと呟いて秋色に染まった街並を眺める。
大学に進めば何か変わるかもしれない。
僅かな期待が胸を高揚させる―――けれど同時に天人は気付いていた。
中学に進んでも、高校に進んでも、何も変わらなかった。
明日になれば、来月になれば、来年になれば、大人になっても―――多分、変革など訪れない。
所詮現実を変える術などない。
社会の構造自体変わらないのだから、何をどれだけ願おうと、個人の領分で叶う夢しか見られない。
よそう、と天人は小さく吐息を漏らす。
会場に入り、大地と分かれて、別室で受けた模試は想定外に容易かった。
これなら第一志望も難なく受かるだろう。
既に先の見えた未来に想いを馳せる事をやめて、一息ついていた天人の元へ、肩の荷が下りた様子の大地がニコニコしながらやってきた。
怪しげな携帯サイトの話と共に、渋谷に付き合えとねだるので、仕方ないなと笑って頷く。
大地ともあとどれくらいこうしていられるのだろうか、ふとそんな想いが胸を過ぎった。
ありふれた日常の風景だった。
渋谷は何度も足を運んでいる街だし、地下鉄にも乗り慣れている。
帰りの電車を待つホームで、名前だけ聞いたことのある女子と出会った。
新田維緒、大地はどうやらご執心の様子でずっとニヤニヤしている、仕方の無いヤツと天人も笑う。
それもよくあることだろう、同じ高校に通う三年生同士、受験の予定が被っても不思議はない。
必死で会話を続けようとする大地と、多少困惑気味な維緒をボンヤリ眺めていたら、電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。
このあと、家に着いたら模試の内容見直しと、提出期限の近い課題を片付けて、食事を作り、風呂に入り、明日に備えてさっさと寝て―――
―――覚えのある着信音で気がついた。
模試の後、大地が勝手に登録した、あの趣味の悪い携帯サイトが立ち上がり、画面に現れたナビゲーションキャラクターが語りかけてくる。
誰だ。
何が起こった。
キャラクターの声を聞きながら、徐々に意識が晴れていく。
突然の大地震、ホームに突っ込んできた電車、車体が浮かび上がり、自分達の真上へ一気に―――
このままでは死んでしまう、と言われて、まるで殴られたような衝撃が起こった。
(死ぬ?)
俄かに言葉が現実味を帯びていく。
(俺は、ここで死ぬのか?)
それ自体はよく聞くけれど、実際身の上に降りかかると、こうも冷え冷えとした響きを伴うのか。
―――仕方ないのかな。
一瞬思った。
もし運命というものがあるとして、その定めに従い自分がここで命を落とすなら、仕方のない事なのか、変え様の無い未来なのだろうか。
違う、と、無意識に呟いていた。
そんなのは嫌だ、我慢ならない。
死すら一方的に押し付けられてしまうのか、それなら何の、誰のための人生だ、この手に求めて得たものの何一つ無いうちに全て諦めろと告げられて、受け入れられるものか。
仕方ないと投げ出すにはあまりに惜しい。
俺は自分が惜しい。
湧き起こる怒りが、悔しさが、全身から噴出すように天人の意識を沸騰させる。
これだけは嫌だ、絶対に、絶対に割り切りたくない、俺は―――死にたくない。
「ふざけるな」
喘ぐように漏らした声を聞き届けたように携帯電話上のキャラクターが告げる。
ならば戦え、と。
一体何と戦うのだろう―――現実と、だろうか。
やってやるさと胸で答えながら、急に漲る力を手足に込めてゆっくりと起き上がった。
かつてないほどの強い意志が滾っている、俺は死なない、死にたくない。
もう何ひとつ諦めるものか、仕方ないと割り切ってやるものか。
瞼を開くと辺りは惨憺たる光景と化しており、同時に数十トンあるはずの車体を支える奇妙な姿に気が付いた。
『それ』が電車を放り投げると、同じ頃合いで意識を取り戻した維緒が悲鳴と共に天人の陰に隠れる。
立ち上がりながら、天人は手の中の携帯電話を握り締めていた。
―――生きてやる。
圧倒的に押し寄せる現実、そして、これから始まる試練の七日間。
憂鬱な月曜日の幕が切って落とされようとしていた。