ユラユラと意識の水面が揺れている。
ああ、今、自分は夢を見ているのだなと理解した。
夢は嫌いだ。
理想という意味での夢なら好きだ、人は理想無しに生きられない。
しかし、夜見る夢は、思いもよらない風景や過去の一幕を映し出す。
それは時に苦い痛みを伴い、朝の目覚めに不快な残滓を紛れ込ませる。
覚えのある風景だった。
自分はまだ幼くて、世界の理など知る由もなく、無邪気で、無知で、愚かだった。
いいか、と、声が告げる。
お前はこの国の影、お前の生は守ること、それが唯一の理であり、我が一族の定めでもある。
決して忘れてはならない。
我等が連綿と紡いできた血は国のために流されるべきであり、積み重ねてきた知や、お前自身の能は、国家に費やされて初めて意味を成す、お前という存在を容赦する絶対の真理だ。
お前の全ては国のためにある。
歴代の当主に倣い、立派に礎としての責を果たすのだぞ―――大和。
紅葉の美しい季節だった。
その男がいつから傍にいたか覚えていない。
物心つく頃には既に在った気もするし、ある日不意に現われたようにも思う。
幼かった当時の自分は、愚かにも男を慕っていた。
男の語る言葉は時に理解に苦しむものであったけれど、概ね友好的で、真理を知り、遍く知を伝える、存在自体が大和にとって驚異であり、興味の尽きない相手でもあった。
何より、当時の自分を峰津院の名で括らず見ていたのは、あの男だけだった。
それは孤独に震える子供心を甘く溶かし、信頼を勝ち得るに至った、今にして思えば何とあざとく抜け目ない行為だろうと強い軽蔑を覚える。
「そうか」
薄く笑う男から、およそ感情というものは感じ取れない。
そういう存在だった。
問えば答えて、時に問いかけ、試すような真似をする。
若い外見と裏腹に老熟した気配を伴い、時に神仙の様に達観した物言いは、世の理を知らずにいた大和にとって畏敬の念すら呼び起こすほど圧倒的な存在感を伴っていた。
男は恐らく神の化身だろう。
決まって大和が一人でいる時に現れて、他愛ない話の中に幾つも真理を織り交ぜながら語る。
「そうだね、君たちは、ずっとそのように生きてきたね」
呟いた横顔に、初めて感情らしきものを見出した時、衝撃を受けた。
それは後悔、それとも憐憫だろうか、空しく、悲しげにも感じられた。
同時に大和は悟った。
男は神ではない。
神は人を哀れまない、人を顧みない、人の様な心など持たない。
「でも君は、まだ、ただの子供だ」
白く細い指で髪を梳りながら何気なく口にした、その一言が幼い心にどれ程の傷を負わせたか、今も男は知らずにいるのだろう。
ただの子供なら―――重責が伴う苦痛も、胡乱な世の空しさも知らず、自分の箱庭で遊んでいられた。
誕生と同時に親から引き離され、自我が芽生えた頃には既に峰津院の頚木の中にあり、多くを担い先代の積み上げてきた歴史全てを背に預かる自分にとって、同情も哀れみも侮辱でしかない。
諸々の不自由や侭ならない原因を他人や環境に求めれば、この生は所詮天与の定めと成り果てるだろう。
それだけは我慢ならない、私の生は私のものだ、他の与り知るものではない、そうでなければ一体何の、誰のための人生だというのか。
それ以来、男の言葉全てに欺瞞を覚えるようになり、結果として決別に至った。
別れ際、男から告げられた言葉が今も脳裏にこびりついている。
「それでも私は―――君の可能性が芽吹かせるものを楽しみにしてしまうだろうね、たとえ君が、私の理想とする結末と異なる選択を採ったとしても」
月日は流れ何度目かの秋が訪れていた、燃えるような庭の風景に姿は掻き消えて、男はそれきり大和の前に現れなくなった。
目覚めると同時に込上げる不快感に深く息を吐いた。
原因は間近に控えた計画だろうか、眉間を押さえて唸るように呟く。
「くだらない」
どうやら、仕事の合間に転寝していたようだ。
暫く多忙を極めていた所為だろう、無理もないと軽く伸びをする。
既に賽は振られている、生き残りたければ選び取るしかない。
服従か、死か。
卓上の、チェスのキングを模したクリスタル製の文鎮を小突いて倒した。
備えは万全、手筈は上々、あとは微調整を加えながら世界を望む筋道へ導いてやるだけ、不確定要素すら想定内と鼻で笑い、手元の端末で時刻を確認する。
「チェックメイト」
―――そろそろ頃合いだろう。
日本よ、今日までのツケを払ってもらうぞ。
大和はおもむろに席から立ち上がると、コートの裾を翻して扉へ向かう。
執務室内は静かなものだが、外では多くの局員が間もなく訪れる惨事に対処するため慌しく駆け回っている頃合いだ、しかし、彼らすら知らない野望がこの胸にはある。
「私は、私のやり方でこの国を守る」
この先に長く望み求めた覇道が続いているのだと、薄く微笑んで扉を開く。
腐敗し、虚飾と欺瞞に満ちたこの世界に本来あるべき秩序を。
踏み出すその先で、今、まさに、世を貫く理の下す最初の鉄槌が遍く存在を揺るがそうとしていた。