兄さん、兄さん―――

懐かしい呼び声に目を細くする。

光り輝く麦畑。

果てなく広がる空と、眩い太陽。

神はすぐ傍らに在り、二人は常に共に有った。

その声が、腕が、求めればすぐ答えるような、神代の頃。

兄さん。

朗らかに笑う姿。

兄さん、見てよ、綺麗だろう?

お前の方が余程綺麗だ。

さざめく草原のように風に揺れる豊かな髪と、濁る事のない無垢な瞳。

兄さん、ホラ、こっちだ、来て。

手を引き駆け出す背を喜びと共に追った日は既に遠い。

(お前は)

 

―――忌まわしき天の御座に居座る主の語ったとおり、今も俺を恨み、呪っているのだろうか。

 

「直哉」

 

そっと瞼を押し上げた、その先―――

 

「どうした?」

光の差し込む屋内。

肌に触れる柔らかな感触。

覗きこむ姿は、かつてとまるで違う、けれど。

(瞳に宿る輝きだけは変っていない)

指先が直哉の頬を拭う。

困り顔の従弟に、直哉は多少苦笑いめいた表情を浮かべながら答えた。

「何でもない、お前が気にすることは何も無い―――和哉」

 

 

面倒なことになったというのがその時の率直な感想だった。

人の生き死にに大した意味はない。

かつては苦しんだ事もあった、嘆きや、悲しみもあった。

けれどそれは最初の数百年で摩滅し、最早何の感慨も生み出さなくなってしまった。

森羅万象、あらゆる全ては、いずれ衰え、滅び行く。

(ただ俺だけは、何度輪廻転生しようと、連綿と受け継がれてゆくのだな)

そっと手を伸ばし触れた、椿の頭は音もなく落ちた。

この世界に、自分と同じ時を過ごした存在など、それこそ地中深く眠る無機物しか在り得ないだろう。

神は不平等だ。

今更ながら馬鹿らしく、苛立つ。

漂う抹香の香りと、視界を埋め尽くす白黒の垂れ幕、黒で身を固めた大人たち。

(今生は極東の小さな島国、しかも、この歳で親を亡くすとは)

少なくとも今後十数年は苦労するに違いない。

もっとも、これが初めてでもないから、直哉はさしたる不安も懸念も抱いてはいなかった。

子供に厳しい国は他にごまんとある。

それ以前に幼いこの手でどれほどのことが可能であるか、当然熟知しているから、後は時が熟すまで耐え忍ぶのみだ、それか、さっさと死んでしまうか。

(まあ、死が手っ取り早い手段ではあるが)

次の転生がいつになるか測りかねる以上、リスクはこちらのほうが高い。

厄介なものだと顔を伏せ、小さく溜息を漏らした。

呪われたこの生で天の玉座に居座る厚顔の主を引き摺り下ろすには、寸暇すら惜しむべきだ。

準備が整い、時が満ち、運が巡り来るタイミングは、流石の直哉でも量りきれるものではない。

時折馬鹿らしい衝動に駆られることもあるけれど―――それだけが唯一無二の存在意義となってしまった今、本当の罰はこの胸に宿る怨嗟の炎そのものであるのか。

 

「直哉君」

 

顔を上げた。

そこに、喪服を着た、優しい面立ちの女が立っていた。

(確か、母さんの妹)

名前を美和と言ったか、目の辺りを真っ赤に腫らし、涙声で話しかけてくる。

「ねえ、直哉君、おばさんの話、聞いてくれるかな?」

「何?」

「直哉君、おばさんのところの子供にならない?」

―――直哉は少しだけ瞳を大きくする。

(きたな)

もとより仲の良い姉妹と思っていた。

母の死を誰より悼んだのはこの女だった。

(予想通りの展開、だが)

彼女が姉の息子である自分を引き取ると言い出すだろう事は、おおよそ予測がついていた。

ただ、美和の夫、つまり、直哉の伯父に当たる男は直哉を少なからず疎んじており、それだけが目下障害になるだろうと踏んでいたのだが。

「おじさんとね、二人で相談して決めたの、直哉君がうちに来たいって言ってくれたら、私たち、今日から貴方のパパとママになろうって」

つまり、子供に決めさせる算段で落ち着いたというわけだ。

(なるほど、多少は知恵を働かせてみたか)

伯父のほうでも直哉が自分に疎まれているという認識を持っていると勘付いている節があった。

つまり、自分を嫌っている大人の元に、果たしてこの幼子は首を縦に振って同居を受け入れるか。

そういう目論見の元、妻の懇願に対して答えたのだろう。

子供は弱者であり、身近な人間の感情には殊更敏感な生き物だ。

(だがお前は読み違えたぞ)

小賢しくも愚かな男だと、直哉は内心クスリと笑う。

美和が直哉の両手を包み込むように触れながら、直哉君、と再び呼びかけてきた。

「おばさんの子になろう?」

直哉は善意溢れる女の目を見詰め、そしてゆっくりと、しかししっかりした動作で頷き返したのだった。

「うん」

椿の頭が、傍らで、また音もなく零れ落ちた。