薄暗い中、そっと目を開く。
いつの間にか見る事に明かりを必要としなくなってしまった双眸が、広間の奥に佇む人影を捉えた。
「―――誰?」
口角が上弦の月のように吊り上る。
年の頃15、6程だろうか。
スラリとした長身、見覚えのない容姿、けれど、白い髪と赤い瞳、そして何より纏う雰囲気が、彼が何者であるかを和哉に教えてくれた。
少年はゆったりとした足取りで、人間界においての最大拠点、万魔殿最奥の謁見室に設えられた玉座に真っ直ぐ近付いてくる。
「フ、罪人の印にこのような使い道があると思わなかったぞ、アレはお前の指示か?」
「直哉に、聞いたから」
そうしてふと言いよどむ。
「―――今は何て呼ばれているの?」
少年はフッと笑った。
かつてと変わらない、自信に満ちた不遜な態度で。
「直哉でいい、そのほうがお前には馴染みが深いのだろう?」
直哉が死んだのは十数年も昔の話だ。
ベルの王となり、魔界の新たな秩序を築き、落ちた明星すら下して見せた和哉の事を、天は遂に魔の盟主とみなして本格的に攻撃を開始した。
けれど双者の力はほぼ互角。
神が日に万の天使を生み出せるように、魔界の大地も無尽蔵に悪魔を生み続ける。
戦いはすぐ膠着状態となり、それからは延々と小競り合いや策を巡らせての力の殺ぎ合いを続けている。
神魔の戦いに終わりはない。
順応性の高い人類は新たな秩序にすんなりと馴染み、今ではその日の天気と同じ様に戦いの危険地域などが伝えられるようになった。
無論、旧世界より人口は減り、人も死に易くなったけれど、国家間の境目が無くなり、人が人を殺す事も殆ど無くなったように思う。
共通の天敵を得て、初めて人類は結託する事ができたのだ。
宗教の概念の一切は消え去り、世界は天の信奉者、魔の信奉者、そしてどちらにも依存しない者たちの、大まか三種類の考え方へと分かりやすくシフトした。
戦いが始まって数年後。
和哉の両親が死んだ。
天魔の戦いに巻き込まれ犠牲となったのだった。
ベルの力を継いだ時より和哉の体は変質し、変幻自在となった後も、あえて和哉はこの地がかつて東京と呼ばれていた頃のままの姿を保ち続けていた。
そして、その時、今や天を討つ万魔の王として恐れられるようになっていた少年は、威信も何もかもかなぐり捨てて、姿どおりの無様な弱さをさらけ出したのだった。
(もう人じゃないんだって今更思い知ったよ、俺はもう、皆とは違う)
(皆は、人間は、本当に呆気なく死んでしまう)
(怖いんだ直哉、俺は―――孤独が怖い)
(篤郎も、直哉も、皆いなくなっちゃったら、俺はどうすればいい?何をすればいいの?)
泣き伏す様子に、幼かった頃の姿を垣間見るようで、その時初めて直哉の胸は僅かに痛んだ。
孤独の辛さや苦しさは誰よりもよく知っている。
いずれ、心は慣れて、麻痺し、何も感じなくなっていく。
朝の光の清らかさも、ささやかな愛の優しさも、伝う涙の温もりさえも。
けれど数十年に一度、数百年に一度訪れる愛しい者との再会が、直哉に僅かばかりの人間性をどうにか留め置いてくれた。
凍える魂に温もりを与え、辿り着く果ての見えない旅路の力となり続けてくれた。
(俺は、神が下した原初の罰と同じものを和哉に負わせた)
アベルをベルの王位争奪戦に巻き込む計画は随分前から胸にあった。
しかし魔と変じたその瞬間、弟は二度と再び輪廻の輪に戻ることが叶わなくなる。
それは、輪の中で生き続ける者達との決別も意味していた。
今さら自身の選択を顧みる事などないけれど、やはり若干の後悔を禁じえない。
墓前に佇む姿が自分を罰しているようで、強引に連れ帰った和哉はその後一言も口を利かなくなり、自室でボンヤリと座り込む日々が続いた。
天を穿つように聳え立つ、王の居城にそぐわない、狭く息苦しい部屋。
何かを懐かしむように備え付けられた家具の類を見る度、胸がむかついて仕方なかった。
―――俺がいるだろう。
ただ一度結び合った縁より、途切れずに続く血の絆をお前は持っているじゃないか。
こちらを見ろ、俺を見ろと、今や魔王として強大な力を行使する弟に掴みかかると、まるで小さな子供のように呆気なく組み伏されて、兄は漸く事の重大さを真に理解した。
この日を想い、丹精込めて育て上げた愛しい弟。
多少の事には動じぬように、人として真の強さを持つようにと、しかし、親が死んだというだけの理由で弟の心は折れそうになっている。
それは幾度も転生を繰り返してきた直哉がすでに忘れかけていた、当たり前の感情だった。
和哉の両親は、あの二人だけだ。
そして、和哉の兄は、自分一人だけなのだ。
寄る辺となるものを失い、また、その恐怖を目の当たりにして、和哉は孤独に慄いている。
親が死に、兄が死ねば、自分はどうなる?
兄を慕い、親を敬う、善良なる弟が魔王という決断を下したのも、結局は兄のためだった。
自分を失えば、弟は目的までも見失ってしまう。
まだ自ら大義名分を掲げるほどに、和哉は成長しきっていない。
(そうか)
そういうことだったのだなと、直哉はそのまま和哉をしっかり抱きしめたのだった。
この弟は、俺が育み、俺を愛する、ある意味理想の弟だ。
しかしその代償として弟は依存を患い、俺の喪失を何より恐れるようになった。
―――俺が、幾度お前を失い、その都度天を呪い、こんな想いはもうまっぴらだと嘆き悲しみ、同時に再びお前と見える時を切望したように。
(ならば、俺だけが神代の記憶を抱いていては、お前はやりきれないだろう)
この恐れを、不安を、取り除いてやらねば。
和哉は魔王として、何より和哉自身として、立ち行かなくなってしまう。
苦しいと漏らした弟からそっと体を起こして、不安げな瞳をあやすように口付けてから、直哉は和哉を再び抱き寄せ、そうっと髪を指で梳いてやった。
この身は既に人では無いというのに、和哉の髪は人であった頃と同じ手触りがする。
胸が僅かに疼くようで、僅かに苦笑を漏らしてから、兄はゆっくり弟に語り始めた。
それは神代の記憶。
自らが犯した罪の告白。
恨まれるだろうか、憎まれるだろうかと、不安が過ぎらなかったと言えば嘘になる。
けれど直哉は確信していた。
弟は自らの意志で俺の罪を理解する。
アベルとしてではなく、蓮見和哉として、カインの罪と罰に向き合い、裁決を下すだろうと。
話し終えた後で、和哉が口にしたのは、たった一言だった。
「そうなんだ」
それきり黙りこみ、様子を窺っていると、不意に微笑み返された。
「でもそれは昔の話なんだろ?それにさ、俺、ナオヤが時々俺の事変な目で見る理由が漸く分かって嬉しいよ、ナオヤが俺を探していたって知って、嬉しい」
直哉は和哉を抱きしめていた。
痛いと言われても構わず、想いのままに力を込める。
今やこれは自ら望み首に掛けた罪の鎖、たとえお前が赦しても、俺は俺の罪を誰にも贖いはしない。
けれど、他でもないお前が、全てを受け入れてくれるというのなら―――無上の喜びだと、抱きしめた温もりに顔を埋めた。
変わらず、甘く柔らかな香りがする。
慣れ親しんだ和哉の、弟の香り。
やがてクスクスと笑い声が聞こえて、「ナオヤの匂いがする」と呟いた和哉の声は、以前の様子を取り戻していた。
「これで、俺とナオヤは、本当の兄弟だね」
「今更何を言っている、お前はずっと俺の弟だろう」
「そうだね、兄さん、そうだった―――俺はずっと、兄さんの弟だよ」
口付けは懐かしい気配がした。
お前の愛する者の多くは、確かにお前が嘆くとおり、いずれこの世を去るだろう。
しかし俺だけは、お前と共に歩むことが出来る。
久遠の時を二人で、いずれ天に至り、神をも殺めて、黄金郷を打ち建てよう。
際限なく繰り返す時の中で何度も希い、失って悶え、また願ったお前を漸く取り戻した、二度は手放さない、お前だけが俺の求める唯一無二の魂の伴侶。
無邪気に笑う姿が僅かに痛ましくて、胸が罪悪感に疼いた。
対価として俺の全てを捧げよう、だから和哉、俺を信じろ。
漸く真に結び合った絆を噛み締めながら、直哉はいずれ、和哉が今日の出来事を思い出して、うまく丸め込まれたと言って笑うのだろうなと、ふと思った。