夏は好きだ。
少なくとも冬よりはいいと思う。
冬は寒くて耐えられない。
直哉の手は真夏でもひんやりとしている。
「和哉」
髪に触れる感触に、何、と振り返った。
八月の中旬、外からはガラス越しにかすかな街の喧騒が聞えてくる。
適温に保たれた薄暗い部屋で、ベッドの上からカーテン越しの月を見ていた和哉の傍に兄が腰掛けた。
「何を見ていた?」
「月」
都会の薄闇に浮かび上がる白銀。
それはスモッグの向こうに少し霞んで見えた。
直哉と和哉は厳密にいえば兄弟ではない。
戸籍上は兄弟だが、実際の血縁関係は従兄弟にあたる。
両親を事故で亡くした直哉を養子として蓮見家に迎え入れた翌年、母が妊娠したのだが、そういったあえて知る必要もない情報を和哉は小さな頃から聞かされて育った。
話したのは父だ。
父と従兄は仲が悪い。
理由は分からないけれど、恐らくそりが合わないとか、そういうことなのだろう。
母が昔『お父さんはお兄ちゃんが怖いのよ』と冗談めかして話していたが、従兄は父に暴力を振るったことも、暴言すら吐いたことはない。
そして父も、和哉には良い父親であったから、殊更何故と思う。
理由は未だ分からずじまいだ。
そして、その従兄―――直哉との付き合いは、和哉がこの世に生を受けたときまで遡る。
七歳も歳の離れた弟に一般的な兄はこれほど執着しないと知ったのは中学に上がってからだった。
従兄という言葉の持つ意味と実際の直哉は和哉の中で一致しない。
血の繋がりはともかく、和哉にとって直哉は紛れもない兄だ。
横暴で意地が悪く、捻くれ者で嘘吐き、けれど誰よりも深く自分を愛し、想ってくれる、決して余人には変えられない存在。
だからといって直哉は養子の身上に不安を覚え、和哉を構っているわけではない。
それくらいは分かる、どれ程幼くとも、愛情の真偽は、寧ろ幼いからこそ見抜けるものだ。
時に自身を犠牲にしてでも和哉に心を尽してくれる兄は、しかし父はともかく、息子二人に等しく愛情を注ぐ母にすら壁を作っているようなところがあった。
何故自分だけ特別扱いするのか、他の人々を拒絶するのか、その理由も分からないままだけれど、あえて疑う余地もないほど真摯に注がれる想いは、そのまま和哉の中で直哉へ向かう愛情として育ち続けている。
多少性格に難はあるが、誰よりも何よりも信頼できる、この上なく頼もしい兄。
それが―――蓮見和哉の想う、蓮見直哉に対する人物像だった。
その直哉の、一年半ほど前から一人暮らしを始めたアパートの部屋を和哉は訪れている。
一応今日は母から様子見がてら家事を手伝ってくるようにと言付かっての訪問だが、家主が兄の住居は気楽で、用が無くても学校帰りや週末などによく足を運んでいた。
直哉から来るなと言われた事は一度もない。
ただ忙しそうにしている時は和哉もそれなりに気を遣ったし、そうでなければ直哉から外出を提案される事もあった。
今日は、朝訪れた時から直哉はパソコンの前で仕事に没頭していて、和哉はその間二の次に押しやられていたらしい炊事、洗濯、掃除などを一日がかりでやり遂げた。
これでとりあえず母のミッションはクリアできたと思う。
もっとも全ての時間を家事に費やしたわけでもなく、どちらかといえば遊んで過ごしていた時間の方が長かったけれど。
辺りがすっかり暗くなった頃、漸く一段落着いたらしい直哉がパソコンの前から離れ、一緒に出前の寿司で夕食を摂った。
その後風呂に入り、茶を飲みながら兄弟水入らず、取り留めない話などをして過ごしている間に時計の針は11時を廻っていた。
今日は一泊して帰ると母に告げて来ている。
父は嫌がるけれど、母は兄弟仲の良いことが嬉しいらしく、仲良くね、と快く承諾してくれた。
そろそろ寝るぞと消灯した直哉が薄闇の中キッチンに向かう姿を見送って、ベッドの上から和哉は近くの窓にかかるカーテン越しの夜空を眺めていた
朧な光を放つ月。
漆黒の中凛と在る姿はどこか直哉に似ている。
懐かしさと妖しさを同時に覚える淡い白銀にぼんやり心を奪われていたら、そっと髪を撫でられた。
振り向いた薄闇の中、赤い月が静かに和哉を見下ろしていた。
「和哉」
「うん?」
輪郭を指先でなぞられ、ベッドのスプリングがかすかに軋む。
首筋に吹きかかってくる息が少しくすぐったい。
―――これは、親しい兄弟限定の特別なスキンシップだと以前直哉に教えられた。
世間知らずだった幼い頃は素直に信じきっていたけれど、今は何をしているのか、これがどういう意味を持つ行為か、理解した上で変わらず兄の熱を受け入れ続けている。
触れ合い自体よりも、それによって互いの内に育まれていくものの方がずっと大切だ。
そして何より長く愛され続けた体が今更拒めない。
冷たい掌がシャツの裾から滑り込み、少し火照った和哉の肌を撫でる。
「和哉」
そっと囁きかけられる声。
何、と見上げると、熱を孕んだ互いの視線が交わった。
「和哉、お前は」
近くで見る直哉の瞳はとても綺麗だ。
直哉はアルビノで、髪の色は白く、目の色は赤い。
白子はすぐ死ぬと何かで読んだ覚えがあるけれど、直哉は立派に成人し、また生来の天才肌と相まって、外見までもが特異性を強調する象徴の様な役割を果たしているように思う。
強い輝きを灯す瞳は、奥で炎が爆ぜているようだ。
窓から差し込む光を受けて、和哉の瞳には天上に煌めく星の輝きが映っていた。
「―――俺を、信じているか?」
間を置いて、「信じているよ」と和哉は答える。
今更何を聞くのだろう。
この世界に、直哉以上に信じられるものなど、和哉は知らない。
「―――そうか」
満足げに微笑んだ直哉から甘い口付けを施された。
「俺も、お前を信じているよ」
再び重ねられた唇を割って這い込んできた舌先に口腔内を蹂躙される。
混ざり合い、流れ込んでくる雫に喉を震わせて、顔を上げた直哉は和哉の額から後頭部に向かって片手で撫でるようにすると、強く体を抱きしめた。
伝わってくる温もりが心地良い。
重なり合う鼓動が、熱い。
「ナオヤ」
閉じた瞼の裏側で黄金の海がさざめいていた。
―――これは何?
直哉と繋がるたび体の奥から沸き起こるイメージ。
手首に赤いコードが絡みつく。
「フフ」
外れて傍らに転がっていた和哉のヘッドホンを取り上げ、直哉の手がベッドの外にストンと落とす。
フローリングの上に軽く物のぶつかった音が響いた。
「さあ、和哉」
馴染みの良い声は甘い毒のように和哉の芯を痺れさせていくようだ。
「夜は長い、この兄に、お前の深い所まで確かめさせてくれ」
圧し掛かってくる体温に和哉は素直に身を委ねた。
程よく空調の効いた屋内、乾いたシーツの衣擦れと水音、合間に軋むスプリング。
睦みあう二人を、月が見ていた。