肩先で重力に反するようにフワフワとそよぐ和布を引き寄せて、イヤフォンから聞えてきた音声に男は薄い笑みを浮かべる。

―――不安だろう、怖いだろう、怯えているだろう。

辛く苦しい思いをしているに違いない。

(だがその全てがお前の糧となるのだ)

COMPを開いて様々な数値を確認すると、笑みはますます深く刻まれた。

「たった二日で随分成長したじゃないか、まったくお前は可愛い弟だよ」

画面を指先でなぞり、そっと唇を寄せてから、ぱくんと閉じたCOMPを片手に携えて男は立ち上がった。

「さて、それでは俺も次の手を打つとしよう」

ふわり。

デジタル数字を染め上げた、奇妙な柄の裾が翻る。

刹那の間にその姿は消え去り、無人になった空間には男の気配すら残されていなかった。

 

 望月の不安はもしかしたら今日にも現実になってしまうかもしれない。

そう思わせるような事態に遭遇して、柚子だけでなく、篤郎まで深刻な表情を浮かべている。

(いつか、誰かが思いつくだろうとは思っていたけれど)

極限状態に追い込まれてなお、人は自らの利益のみを追求しようとする。

いや、極限状態だからこそ、というべきだろうか。

芝公園にたむろしていた男達、そして、彼らが所有していた複数のCOMP

どうやらよからぬ企みを実行に移そうとしていた様子だった。

翔門会が直哉に製作依頼した悪魔召喚プログラムの組み込まれたCOMPは、使い方次第で様々な利益を生み出すことの出来る、ある種パンドラの箱的装置だ。

確かにCOMP本来の目的は魔界から悪魔を呼び出して使役する、それだけでしかない。

だが召喚者が最終的にどう利用するかによって、結果は善にも悪にも成り得る。

そして悪魔達は契約の力によってCOMPの所有者の命にただ従い、力を振るう。

(だから無闇に出回っていい道具じゃないんだ、これは)

黙っている二人と共に無言で歩きながら、和哉は篤郎と柚子の心中を察しつつ、それとはまた別の事を考え始めていた。

(今の状態でも最悪だっていうのに、マリさんは明後日には秩序が崩壊するだろうって言っていた、おかげで自分のこと以外にも目が向き始めたけど、きっとまだ足りない)

ふと性格の悪い従兄を思い出して、ナオヤだって嘘吐くんだもんなぁ、と、内心密かに溜息を漏らした。

(まあ、ナオヤはともかく、ある程度顔見知りでも疑ってかかっておいたほうがいいだろう)

人の理性や秩序はあてにならない。

規律が無くなれば、それは獣の世界だ、力の優越のみが支配率を定める。

(だから、今のうちに戦っておけて良かった)

こういうとき和哉は自分が本当は心根の冷たい、残酷な人間なのではないかと考える。

良かった、のだ、本当に。

何故なら―――その時が訪れたとして、戦えるのか?

(悪魔を使って、殺してしまうかもしれないのに)

ためらって返り討ちにあっては堪らないと思う、けれど、実際人間相手に本気を出せるのだろうか。

(さっきはいい練習になったとか言ったら、流石に呆れられるよな、ユズは怒るだろうし)

怯えて泣き出すかもしれない、幼馴染の涙は少しだけ苦手だ。

悪魔相手なら、二人も躊躇なく戦えるようになった。

けれどそれは目にも明らかな異形が敵意を剥き出しにして向かってくるからだ。

(単純に常軌を逸してるだけの奴等が相手じゃ、どう考えたって俺達は戦い慣れていない)

更に言えば、諸々の心情が判断を鈍らせるだろう、傷つける行為をためらわせるだろう。

そんなもので篤郎や柚子が怪我をしては堪らないと思う。

和哉は、目的の為には一切躊躇をしない背中をずっと見て育ってきた。

(だから俺は、究極的には多分平気だ、意味のある行為ならこの手だって汚せると思う)

今戦ってきた男達は、自分達より大きく、強く、明らかに反社会的な姿で、更に悪事を働く場面まで目撃していた。

(こうやって人と戦うことに慣れていけば、その時が来ても、身を守るくらいはできるだろう)

今、二人が黙り込んでいるのは、多分COMPの悪用を目の当たりにして、予見される展開に胸を痛めているに違いない。

和哉も同じく想う部分もある。

けれどそれだけに留まらない、人間と戦う事そのものの意味も、腹の底でじっくりと噛み締めていた。

(今後も改造COMPは積極的に回収していこう、犯罪抑止にも繋がるし、二人に慣れさせておかないといけないだろうから)

本当に酷い考えだと、ついため息が漏れてしまった。

いずれ訪れる崩壊に備えて、他人を傷つける痛みに麻痺しておこうだなんて虫のいい話、昨日まで悪魔を使役する事自体に怯えていた人間の発言とは思えない。

しかしもう奇麗事で済ませられる状況ではないのだと、昨日、一昨日の間に散々思い知らされてきた。

憂鬱な吐息を聞きつけたのだろうか、顔を上げた篤郎が、レン、と和哉を呼んだ。

「どうした?」

「いや」

「そっか―――なあ、あのさ、これからどうしようか?」

「ん、そうだな」

和哉はCOMPの簡易MAPを呼び出すと、画面を確認しながら池袋に向かってみようと答えた。

18時頃、池袋にて怪物による死傷事件。

今朝のラプラスメールが脳裏を過ぎる。

(池袋で会ったドリーとかいう子、また会えたら保護しておくべきだろう)

同じ場所に留まっている確証は無いが、何となく気にかかる。

篤郎も同じ様に考えたのだろうか、分かったと答えて、三人は歩き始めた。

 

普段は人でごった返している池袋の街も、今では閑散とした風景に立ち並ぶ高層ビルの群れが、逆に異様な雰囲気を醸し出している。

主だった地域はどこも似たような姿に成り果てていて、アスファルトやコンクリートの表面に人知の及ばない爪痕を見つけるたび、背中に薄ら寒いものを感じた。

改めて、この状況が極めて危機的だと認識させられる。

「池袋もたった一日でコレか」

誰ともなく呟く篤郎の声を聞きながら周囲を見渡していると、ねえ君、と呼びかけられて、和哉は振り返った。

「ちょっといいかしら?」

スーツ姿の女が近づいて来る。

ショルダーバッグに手帳といった小物類を携えた出で立ちは、この近辺に勤める会社員といった風体だ。

僅かに警戒して身構えた和哉の様子に気付いたのか、手前で足を止めて、親しげな笑みを浮かべてみせた。

敵意はないというアピールらしい。

「少し話を聞かせて欲しいの」

レン、と小声で呼びかけてくる柚子の声を聞きながら、和哉は「ヒマじゃない」とそっけなく答えて、再び歩き出そうとした。

「ちょっと待って!ねえお願い、こんな封鎖をこのまま許したら、人々の人権や、報道の自由を見殺しにするのと同じ事になるのよ!」

だから何だと言うのか、メディアの下らない戯言と聞き流そうとしたけれど、続けて女性が発した言葉に、他でもない、篤郎が食いついてしまった。

「協力してくれるなら、外に出る秘策を教えるわ」

「そ、外に出る秘策!?マジかよ!」

「こっちの質問に答えてくれたらね」

「レン!」

くるりと振り返って瞳を輝かせる篤郎と、その後ろでしてやったりといった表情を浮かべている女性を見て、和哉は小さく溜息を吐いた。

(まったく)

しかし、そう悪い話でもないだろう、こちらとしても情報は幾らでも欲しい。

ただ気になるのは、何故女がその秘策をもって自ら脱出を試みてないのかという点だが。

(ジャーナリストらしく、現場で死ぬ覚悟なのか?)

この手の人間は苦手だ。

土足で人のプライバシーに踏み込んでくる神経が理解できない、適当に調子を併せて必要な話だけ聞きだしてやろうと考え直して、和哉は「わかったよ」と二人に告げた。

おもむろに女性が差し出してきた名刺には、案の定『ジャーナリスト』という肩書きに添えて、『東海林』と書かれてあった。

 

 東海林との会話は、少なくとも費やした時間分の価値はあった。

見返りとして教えてもらった秘策とやらを確認するために、ひとまずドリー探しを後回しにして、三人は一路赤坂トンネルへと進路を取り、歩き続けている。

アスファルトの照り返しも厳しい夏空の下、長距離の移動は出来れば避けたい。

現にそろそろ目的地に到達するが、篤郎と柚子は大分疲れた顔をしている。

和哉も踏み出す足が重い。

いつ倒れてもおかしくない状態だ、これで何も無ければ恨むぞと池袋で別れた東海林の姿を思い返す。

(この真夏にスーツのジャケットまで羽織ってたよな、あの人、暑くないのか)

東海林は和哉達に(どこで眠っているのか?)等の簡単な質問をして、封鎖に巻き込まれた人間の生の声として幾らか収集した後で、彼女の持っていた情報の開示と、件の秘策に関して話してくれた。

政府の情報操作は確かに上手く機能しているのかもしれないが、それも持って今日までだろうと、彼女も望月同様、暴動の危険性を見越していた。

炎天下の元、鬱積した不満が醸す、不穏な気配。

もう既に人に対しても警戒しておいたほうがいいだろう。

(一体何が起こってるのか、誰と戦わなきゃいけないのか、全然分からないな、俺達はどうなるんだろう)

「レン」

振り返ると篤郎が虚ろな目で額の汗を拭っていた。

「大丈夫か?」

「お前こそ」

「ハハ、なぁそろそろ赤坂トンネルだよな」

「そうだね」

「ショウジさんが話してた、首都高の一部が地下鉄と繋がってるって話、本当なら、このままオレたち、封鎖から出られるんだよな」

頼りない希望でも、縋らなければ立っていられない。

そうだよ、と頷いた和哉の傍で、不意に柚子がふらりと体のバランスを崩した。

「ユズ!」

咄嗟に腕を伸ばして捕まえると、がくんと大きく揺れた衝撃でハッと目を開いた柚子は、慌ててごめんなさいと和哉から離れようとした。

「いい、ユズ、掴まって」

「で、でも」

「いいから、ほら」

もう片方の腕も使って柚子を胸に受け止めて、フウと溜息を漏らしてから、和哉は今日もよく晴れ渡った夏空を恨めしい思いで睨み上げていた。

「ごめんね、レン」

「―――少し休もう」

「でも」

柚子に視線を移して、和哉は指先に少し力を込める。

「目的地が目の前なら尚更休んでおくべきだと思う、首都高に入ったら、また沢山歩くから」

「俺も、レンの意見にサンセー」

フラフラと片腕を上げた篤郎が苦い表情で笑う。

柚子もコクンと首を縦に振って、三人は近くの建物に移動した。

シャッターの隙間に手を突っ込んで、申し訳ないと思いつつ、ライブハウスか何かの地下に続く階段を数段下りて、腰を下ろす。

「ねえ、いいのかな?」

「超法規的措置ってヤツだ、まあ、店の中にまで入らなきゃ構わないだろ」

バッグから取り出した水を飲んで、篤郎が溜息を吐いた。

「やっぱちょっとは違うもんだな、日陰ってさ、相変わらずあちぃのは変わらないんだけど」

「風が吹いてたらもっと違うよね」

「コンクリの照り返しって地味に辛いよな、俺、地球環境を考えて、観葉植物でも育ててみるかなぁ」

「無理無理、アツロウはきっと枯らすんだから」

「ソデコの嫌味にすら返す気がしない」

「ソデコってゆーな」

篤郎は力なく笑ってそのまま項垂れた。

柚子もそれきり黙りこみ、俄かに熱気を伴った静寂が辺りに満ちる。

(確かに、暑い)

一昨日から風呂に入っていないから、体中すえた臭いがじんわりと纏わりついている。

衣服にも汗が滲みこんで、ベタベタと纏わり吐いて気持ち悪い事この上ない。

(タオルで拭いていても限界があるし、俺やアツロウはともかく、ユズはきついだろうな)

ペタリと額に張り付いてくる前髪を押し上げるようにして汗を拭った。

プレイヤーの電池が切れてしまって、音楽なんてとっくに聴けなくなっているから、耳元を覆うヘッドホンを外してしまおうかと思うけれど、内部は蒸れるどころか不思議なほど良好な状態に保たれている。

無ければ逆に暑く感じるだろう。

(これってそういえば、直哉の手作りだったよな)

従兄の高い技術力は、時折若干胡散臭くもある。

一体どんな素材をどのように組み合わせればこんな物が作れるのか、しかし、従兄ならこの状況下でも涼しい顔して肩で風を切って歩くのだろうなと、想像したら、つい笑い声が漏れてしまった。

「ん?」

気付いた篤郎が顔を上げてどうしたと尋ねてくる。

「ナオヤのこと考えてさ」

「ナオヤさん?」

「ナオヤだったら、暑くても、涼しい顔してスタスタ歩いてるんだろうなって、思ったら何か笑えた」

「ああ、ナオヤさんなら、確かにそんな感じだよなぁ」

フフ、と篤郎も笑う。

「あの人ちょっと人外入ってるもんね、今はかなり恨めしいけど」

少し目の据わった柚子が、和哉の視線に気付いた途端、ウソウソと苦笑いで誤魔化した。

三人はそのまま顔を見合わせて、何となく小声で笑い出してしまった。

鬱陶しい熱気がほんの少し薄れ、疲労も僅かに回復したような気がする。

(とにかく、やれるだけやらないと)

一段落付いて、行こうと和哉は立ち上がった。

二人を伴い再び戻った地上では相変わらずの陽光が燦々と降り注ぎ、肌の露出している部分をジリジリと炙る様に照らし出す。

溜息を漏らした柚子の肩をポンと叩き、篤郎を振り返って、あともう少しだと和哉は無理に笑顔を作った。

「頑張ろう」

「ああ、そうだな」

「今度はきっと出られるよ、ね、レン?」

「うん」

再び日陰を選びながら、三人は真夏の都心を歩き始めた。