新宿を歩いている最中、直哉を見つけたと叫んだ篤郎の声に、一瞬胸の高鳴りを感じた。

即座に追い駆けたけれど、結局、神無伎町辺りで見失ってしまった。

従兄が何を考えているのか、どうして時折姿を見せるのか―――分からない。

ただ僅かな落胆と共に振り返った風景に、ついさっきまでは確かにいなかった人影が、印象的な笑みを浮かべて佇んでいた。

 

「おや、キミたち可愛い子を連れてるね」

 

閑散とした繁華街を背景に、紫色のスーツがやけに映える。

 

どこの国とも判別不能な独特の顔立ちと、妙な雰囲気。

咄嗟に気圧されてしまった。

男は、鋭い眼差しで和哉たちを順々に眺めて、最後に和哉に視線を戻すとニッコリ笑いかけてくる。

「ボクにくれないかな?」

「な、何言ってるの、この人!」

怯える柚子に、和哉も「あげないよ」と答えた。

「あっ、当たり前でしょ!」

柚子を見て男はケラケラ笑う。

「そんなに怒らないでよ!そうだね、君も悪くないね、うーん、君でもいいんだけれど」

「へ?」

「やっぱり、ボクとしては―――って、あれ?良く見たらキミ―――」

再び和哉をじっと見ると、今度は何か確かめるように瞳を動かして、最後に一つ、頷いた。

「おやおや、やっぱりそうか、キミがね―――ナオヤ君の言う通りだ」

「えっ」

「愉快、愉快」

「ナオヤを知っているの?」

こんな場所で、見ず知らずの男の口から従兄の名前を聞くとは思いもよらなかった。

身を乗り出した和哉に、男がグイッと顔を近づけてくる。

驚いたけれど、咄嗟に身を引けない引力の様なものを感じて、その場に固まってしまう。

「知っているよ!」

吊り目が大きく見開かれた。

「カレはなかなか愉快な発想をしているよね、うんうん」

今更だけれど、この男と直哉はどういう関係なのだろう。

咄嗟に脳裏を過ぎった。

仕事仲間だろうか、それとも、何か別の繋がりだろうか。

「ところで、キミは自分の未来や、運命について考えた事ってある?」

気まぐれに話題を変えて、男は更に和哉に体を寄せてきた。

「キミの余命、今は0だねぇ?」

ニヤニヤと口角を吊り上げて笑う。

余命が見えるという事は、この男もCOMP持ちの悪魔使いなのか?

「つまり、もうすぐキミは死ぬ、それも確実にねぇ」

和哉の喉に指先で触れて、爪をツッと真一文字に引いた。

肌に感触だけ残る。

「キミに死をもたらす者は、悪魔たちを束ねる嘆きの長、不死の者、ベル・デル」

ベル・デルの名を知っている?

何者だ、この男は?

喉を鳴らす和哉に、男はますます楽しげに笑みを深くした。

「奴の出現を妨げる事は、もはや誰にも出来はしない、血の宴が始まるんだ―――人間どもは嘆きの中、ベル・デルの餌食となり―――その死者の中には、キミたちの顔もある、さて」

フッと体が触れ合い、声は耳元で聞こえた。

「キミはどうするつもりなんだろうねぇ?」

まるで抱きしめられているような格好だ。

男の、爪の長い両手が、和哉の腕に指先を食い込ませるようにして握っている。

重なり合った部分から伝わってくる気配は何故か冷たくて、男は呼吸すらしていないように感じられた。

背筋が粟立つような、危機とも不快とも似ているようで微妙に違う違和感が、やけに胸をざわつかせる。

彼とよく似た雰囲気を持つ人物の面影がふと脳裏に浮かんだ。

けれどまるで違う、しかし、似ている、現実味の無い所が、特に。

「おい!」

突然、険を孕んだ篤郎の声が聞こえて、我に返った和哉は男の胸を強く押し返した。

「倒すよ」

男は軽く肩を揺らす。

「へぇ、スッカリ戦う気なの?何だい、てっきり尻尾を巻いて逃げ出すかと思っていたのに」

まだ手は離れない。

薄い笑みを浮かべたまま、男の指先が和哉の唇をそっとなぞる。

「さて、せっかく会えたんだ、1つくらいサービスしちゃおうか?」

その指を自分の唇に押し当てると、リップサービスだよ、と、ウィンクされた。

「不死の者ベル・デルは、その昔、この世に存在する全てのものたちに自分と契約するようにと申し出た、結果、彼はその行為によって、彼と契約を成した如何なるものにも傷つけられることはなくなったんだ―――でもねぇ、彼と契約をなしていない、たった1つの存在が、この封鎖の中にあるんだよ」

それを見つけ出すことが出来れば―――男が哂う。

「あるいはキミたちでも、生き残る事が出来るかもしれないねぇ?」

抗う間もなく和哉を引き寄せて、片手で前髪を押し上げると、額に軽く唇で触れてくる。

驚き、瞬きしている間に―――男は消えてしまった。

まるで手品だ。

今起こったばかりの出来事なのに、現実かどうか怪しい。

しかし篤郎と柚子の不機嫌な声が和哉の疑念を払拭する。

「い、今のヤロウ、何だったんだ!」

「っていうかキモイ!レンに何てことするのよ!」

「ちょっと、二人とも、とりあえず落ち着こう?」

口々に混乱を叫びあい、そのうち柚子がそっと寄り添うようにして顔を覗きこみながら、大丈夫?と尋ねてきた。

「平気」

この程度、挨拶としか思わない、スキンシップには慣らされている。

けれど三人には些か刺激が強すぎたらしい。

気遣うような篤郎の隣で、圭介がおもむろにフロスで眼鏡を拭き始めた。

少し、おかしかった。

「アイツ、マジで何者なんだろうな」

「そうだね、ナオヤさんの事を知ってたし、ベル・デルって言ってた―――普通じゃないよね」

「それにしても、さっきの話って、一体」

「ベル・デルを倒すカギだ」和哉は答える。

あの男が何者で、直哉とどういう関係で、何の目的があって接触してきたのか、それは、今のところどうでもいい、それより情報だ、本日ようやく入手した、ベル・デルに繋がる情報、これをどうするか―――しかし、ソース元に全く信用が置けなくとも、乗るしかないだろう。

他に有効な情報が何も無い以上、とりあえず、動いてみるより他ない。

和哉の意図は、三人にも伝わったらしい。

「契約を成していない、たった1つの存在、だっけ?」

「封鎖の内側にあるって言ってたけど、本当なのかな?」

「分からない、少なくとも、ただチャラくさいだけの男じゃ無さそうだ」

ようやく冷静さを取り戻した様子で、篤郎が振り返る。

「―――敵か、味方なのかも分からないけど、アイツの情報は覚えておいて損はないかもしれないぜ?」

うん、と答えて、柚子が項垂れた。

「何より、ベル・デルなんかに会わずに脱出できれば一番だけど、さっきの話を聞いてると何だかムリっぽいし」

「さっきの男が言っていた通り、ベル・デルと契約していないただ1つのものを探さないとな」

「さ、探すって、どうするの?」

「COMPを調べるとか」

何気なく口を突いた一言ではあったが、案外いい方法かもしれないと篤郎が賛同してくれた。

悪魔を操るソフトを起動させることの出来る、直哉が作ったこのCOMPであれば、ある程度ベースとなる情報が入力されているに違いない、その中にはベル・デルに関する何らかの情報も入っているかもしれないと、そういう考えに基づく理由だった。

和哉はそこまで考えていなかった。

篤郎の、こういった知識や技術を伴う勘の良さに、素直に感心させられる。

「ホントはCOMPを作ったナオヤさんとかに話を聞きたいところだけどな、あの人、見つからないし」

確かにそうだ。

山手線内部封鎖が実施されて以来、神出鬼没で、何かと惑わせてくれる兄。

自分たちを封鎖に巻き込んだ目的、何故単独行動を取り続けているのか、COMPの余命表示や、ラプラスメールの内容、彼の見えない意図に振り回されてばかりいる。

「それじゃ、その辺りも気にかけながら探してみようよ!」

柚子に袖をグイグイと引かれて、ハッと我に返る。

「さ、レン、早く行こう!絶対に生き残るんだからね!」

「ああ」

苦笑いで答えると、柚子は更に、鼻息も荒く、反対側の手を握り締めた。

「それと、今度アイツと会っても、絶対レンには近付かせないんだから!」

「え?」

篤郎まで「当たり前だ」と口を尖らせて、圭介はクスクスと笑っている。

さっきの男の話だと気づいた和哉は改めて溜め息を漏らしていた。

コンクリートを炙る、夏の日差しの照り返しが、僅かに増したような気がしていた。

 

 僅かな固形食糧を惜しむように齧りつつ、夏の日差しを避けて歩く。

額に浮かぶ汗を拭って、傍で浮かない顔をしている篤郎をこっそり窺った。

あれから、池袋を回って、再び神田方面を目指している。

ドリーが活動の拠点にしているらしい、池袋のアンズー前や、駅周辺をあちこち見て廻ったけれど、見つけることは出来なかった。

もっとも初めから見つかる可能性は低いと想定していたし、本日彼女に死の運命は予告されていないから、不安も、落胆も、さほどない。

篤郎の表情が暗いのはもっと別の理由だった。

廃墟と化しつつある街の、雑踏の向こうに消えた、彼の見知っている姿。

聞けば、インターネットで知り合った知人という話だった。

『政府が極秘にしているとんでもない秘密を探り当てた』と、それが彼との最後の通信になったらしい。

以降、彼は姿を消し、家族すら杳としてその行方は知れないそうだ。

色々な意図が絡み合い、一つの事象を指し示しているようにも思うのに、全貌が見えてこない。

歯痒くて和哉も黙り込んでしまう。

翔門会、日本政府、突如出現した悪魔と山手線内封鎖、そして、ベル・デル。

もしかしたら直哉も一枚噛んでいるのかもしれない。

(そうだとしたら、これをオレたちに渡した意図は何だろう)

ポケットのCOMPにそっと触れてみる。

今度の危機をいち早く見抜いて、身を守る術を与えてくれたのだろうか。

それは、恐らくはそうだ、兄の先見の明は明らかに人の範疇を逸脱していた。

まるで預言者のように、これから起こる事を正確に、殆ど狂い無く見通す力。

だからこそ兄を恐れる人がいた事も事実だ。

実際、和哉の父は、直哉を恐れていた。

(まあ、父さんはそれだけが理由じゃなかったような気もするけど)

しかし兄がただ弟の身を案じてくれただけとも考え辛い、彼はお人好しの人情家などではない。

自分にはとても甘くて、何かと気にかけ、守り、導いてくれた兄。

しかし他人には冷酷だった、見下し、嘲り、そして時には和哉をも利用する狡猾さを併せ持っていた。

損得勘定抜きで何かをするなんて考えられない。

和哉は兄を憎んでなどいない、軽んじてもいない、寧ろ、全幅の信頼と、深い愛情を抱いている。

それは兄が与えてくれた愛や想いに応える形で、和哉の中に自然に芽生え、育っていった根となる想いだ。

一時は兄が神にも等しい、いや、神以上の存在だった、世界の全てが直哉一人に集約していた。

しかし世間を知り、人を知り、兄からも少しずつ距離を置かれて、今では以前よりは客観的に蓮見直哉という人物を捉えられるようになっていると思う。

だからこその推察だった。

兄は、目的無しに行動を起こすことはない。

―――意味があるって事なのか。

篤郎の漏らした小さな溜め息に気付いて、和哉は手を伸ばすと、ポンと肩に触れた。

振り返り、目の合った彼に「大丈夫?」と問いかける。

「ん?ああ」

篤郎は苦笑いを浮かべた。

「へーき、悪いな、気ぃ遣わせて」

「いいよ」

「はぁ―――な?あっちいし、ちょっとさ、昨日の店で水浴びでもしておかない?」

「え?」

「はあ?何言ってるの!」

不意に柚子が声を荒げて振り返った。

鬱陶しげに湿った前髪を払いのけながら篤郎を睨みつける。

「時間が無いんでしょ?そんなヒマ」

「けど、汗でベタベタして、気持ち悪いだろ?」

「う」

「二人とも、何の話?」

怪訝にしている圭介に、篤郎はそうかと呟いて、昨日の超法規的措置をかいつまんで聞かせる。

初めこそ眉を顰めていた圭介も、最終的に「こんなときだから仕方ないのかもね」と、和哉達の行動を肯定的に受け止めてくれた。

「まあ、ボクらはそこらの店を襲ってないだけ、まだマシな方だよ」

指し示した方向のあちこちで、店舗のガラスが割られ、扉を破られ、店内が荒らされている。

破壊、強奪、逃走、人の性のなんとおぞましいことだろう。

悪魔達が残した爪痕とは明らかに違う、人の手による悪意の痕跡。

店内を漁り尽されたコンビニを見詰める、圭介の瞳の険しさが、やけに気になった。

「イヤなものだね」と呟く声に、「全くだ」と答えて、篤郎と柚子も表情を曇らせる。

「確かに、こんな状況だし、形振り構ってらんないのは分かるけどさ、正直鬱だよな」

「そうだね、それに、水道が生きているだけ有難いけれど、それだっていつ供給がストップするか分からないし、確かにここ数日まともに体も洗えていなくて不快だよ、こんな環境じゃ悪魔に襲われる以外にも、熱中症や食あたり、感染症なんかも不安だよね」

「まあな」

「ねえ、良ければ、そこ、また貸してもらおうよ、封鎖を出たら僕も一緒に弁償するから」

「ああ、ありがとな」

「いいや」

圭介は微かに笑った。

困ったなといったような笑い方だった。

これで運命共同体だ、けれど仕方ない、柚子が口を尖らせる。

「―――私も一緒に謝るよ、ちゃんと罰も受ける」

「ユズ」

和哉がそっと頭を撫でてやると、上目遣いで少しだけ頬を染めて、やはり困ったように笑った。

本当はこんなことしたくない、悪い事だと分かっている、けれど、今は、どうしようもない。

割り切らず罪悪感を持ち続けること、そして、賠償の意志を持ち続けることだけ、せめて、自分達が他の暴徒と一閃を画するため、最低限胸に留めておかなければならない、人の矜持だ。

目が合って、篤郎が想いを理解したとでも言うように、僅かに頷いた。

「じゃ、とりあえず昨日の店に寄って、それから神田に行こう、ここからだったら遠くないだろ?」

「うん」

「行こう」

頭上から容赦なく照り付けてくる夏の日差しが心底鬱陶しい。

汗を流し、汚れたシャツを洗えば、少しは気も晴れるだろう。

命の刻限は確実に迫りつつあるけれど、だからこそ、心身ともに調子を整えておく必要がある。

(一息ついたら、改めて、手がかり探しだ)

誰に言うでもなく思った。

篤郎、柚子、圭介も、同じ思いでいるに違いない。

うだるような暑さを孕んだ熱風が、汗と油で汚れた髪をフワリと浮かせて通り過ぎて行った。